白日記 第6話 僕とナディアの新婚生活

 そのお達しの書かれた書面を賜った日、その日から実行していいとのことで夕方宮殿から下がった。母や妹たちは驚いていたけど、ナディアだけはただ純粋に喜んでくれた。

「ナディアは字は読める?」

 ナディアに軍服から室内着に着替えるのを手伝ってもらいつつ、訊ねた。ナディアは僕の服をたたみながら「はい」と答えた。

「父が家庭教師を付けてくれましたので。兄や弟は学校に行きましたが、女である私や妹はそうはいきませんから」

「へぇ……レザー卿は教育熱心なんだね」

「ええ、女でも字を読めた方が良い家に嫁げるだろう、と」

 そう聞いた瞬間は、レザー家は豊かなんだな、と思ってしまった。けれど、

「そんなことばかりしているから、貧しくなる一方なんですがね……」

 意外だった。

「おうち……大変なのかな」

 おそるおそる訊ねると、ナディアは笑って答えた。その笑顔がね、なんだか、悲しそうな、寂しそうな――とにかく、どこか暗い笑顔だったよ。

「大丈夫だと思います。お義母様から、父に三人分くらいは払われた、と、お聞きしましたから……」

 ハヴァース殿下のお言葉を思い出した。花嫁を人身売買で貰ってくる、というアレだ。僕も例外ではなかったんだ。僕は、母に、ナディアを買ってもらったんだ。

 ナディアが心配そうな目で僕の顔を覗き込んできた。僕はナディアに申し訳なくてうつむいた。

「ラシード? どうかなさいました?」

 ナディアは、それを承知で、この家にいるんだ。

「嫌ではなかった?」

「何がです?」

「ここに嫁いでくることが」

 けれど彼女は、首を横に振ってくれた。それから、静かに語り出した。

「レザー家の祖は私の曽祖父、時の緑将軍だったそうです。ところが緑将軍は世襲制ではありませんので、我が家はそれ以降将軍を出せずにいます。残るは曽祖父の武勇伝だけ」

 アルヤ王国の貴族というのはだいたいそう、たいていが将軍のいた家なんだよね。

「私はその武勇伝が好きではありませんでした。サータム兵をばったばったと斬り倒したという曽祖父や他の将軍がたが恐ろしかった。攻めてきたから王国を守るために斬ったんだ、とは言いますけれどね、名もないサータム兵を斬ったとなると、きっと誰でも簡単に斬っておしまいになるのだわ、と思うのですね。私は剣などさっぱりできません。きっと一刀両断だわ、と思ってしまいます」

 僕は他の将軍たちを知っている。誰も罪のない少女を斬れるような人ではない。けれど外から見ると、将軍は皆一緒に見えるらしいね。ナディアのおかげで初めて知った。

「だから、初め、お相手が将軍様だと聞いて、どうにかお断りできないものかしらと思っていたんですよ。両親に、あちら様は白将軍様だから、外にお出になって戦う軍神様とは違って王家の守護神様だからと言われて、しぶしぶお会いしたんです。でも、想像とまったく違う方だったから……大丈夫そうだわ、と」

 優しい声で言う彼女が、慈悲深い北山の女神、アルヤの母神のように見えた。

「白将軍様がラシードだったから、嫌ではなくなったんです。ラシードだったから、大丈夫だわ、と、思えたんですよ」

 それではまるで、僕と白将軍が別のものを指すかのようだ。まるで、僕の方が白将軍を変えてしまったかのようだ。

 ナディアは「それで」と促した。

「どうして文字についてお訊ねですか? 何か読まなければならないものが?」

 僕ははっとして荷物の中から休暇に関する勅令の御文を取り出した。それから広げてナディアの方へと差し出した。ナディアは不思議そうな目で眺めていた。やがて目を丸くして顔を上げた。

「お休みをいただけたんですか」

「うん。これからは毎月決まった日数休みを決めていくことになると思う」

「よかった……! おうちにいられるんですね」

 その時のナディアの嬉しそうな顔と言ったらなかったよ。

 ナディアを強く抱き締めた。ナディアは少し驚いたようだったけど、やがて僕を抱き締め返してくれた。



 ただただナディアが愛しかった。

 毎朝出かける前にナディアを抱き締めて口づけた。

 毎晩寝る前にナディアを抱いた。

 そのうち僕は仕事中にもナディアのことを考えるようになった。いつでもナディアに傍にいてほしい。ナディアの声を聞き、ナディアの温かさを感じていたい。だからいつの日か、時間が来たら急いで家に帰るようになっていた。

 僕が「ただいまナディア」と言うと、ナディアが「お帰りなさいラシード」と答える。それだけのことだけど、その時の僕にとったらそれほど価値のあることはなかった。

 ナディアは普段は母や妹たちと家事をして過ごしていたらしい。僕が帰ってきたら僕の世話をする。そうしながら、その日一日がどんな日だったか僕から聞き出そうとする。自分がどう過ごしていたかも話す。時々母に代わって市場に買い物に行っていたらしかった。商人たちに、白将軍夫人、と声をかけられたんだってさ。それにちょっと照れる、と言ったナディアに僕の方が照れた。え? 惚気だよ、ごめんごめん。

 僕は初め休日をどう過ごしたらいいのか分からなかった。働いていることが当たり前だったから、働いていないとだめになるような気がしていた。白将軍として過ごしていないと、僕が僕でなくなるような気がしていたんだよ。

 でも、ナディアが傍にいてくれた。

 ナディアは家事の合間に趣味で編み物をしていた。マグナエをつけず、少し伸びた髪を緩くまとめ、薄くて柔らかい室内着で絨毯に座り込み、せっせと敷き物を編んだり人形を作ったりしていた。僕はその腿に頭を乗せ――いわゆる膝枕をね、してもらって、うたた寝したりした。そうしている時、僕は、ぼんやり、これが幸せというやつなのかな、と思った。

 それでも手持ち無沙汰で、昼間からナディアを抱いたこともある。本当に、もう、十代は猿だね。ナディアは少し恥ずかしがったけど受け入れてくれた。時々、僕を抱き締めて、ぼーっとした顔で呟いていた。「早くあなたの子を生みたい」と。



 ナディアはおっとりとした、のんびりとした人だった。芯がしっかりしていたと言うか、とにかく落ち着いた人だった。何があってもあまり動じないんだ。さすがメフラザーディー家に嫁に来ただけある。今思うと、とても十六歳だったとは思えない。今のシャムシャ姫と同い年の女の子だったんだ、信じられないよ。

 でも、そんなナディアもたった一度だけ、激しく動揺して泣いたことがある。一年半の間で、本当にたった一度だけだ。

 その頃、僕はとうとう仕事よりナディアと一緒にいる方が良いと思うようになってしまっていてね。朝出勤するのも億劫だったくらいだ。仕事に来ても早く帰りたいと思うばかりで集中力などまったくない。書類仕事や剣の稽古くらいなら特に何も考えずにできたし、人の話も大半は聞き流したから――今思うと恐ろしいことだけどね。だから、エスファーナがきな臭いのも気がつかなかったし、まあ、ぶったるんでいたわけです。

 その日、外に見回りに出ていた兵士が、蒼宮殿の周りをうろついていたという若い男を捕まえてきた。中肉中背の特にこれといった特徴のない真面目そうな男だった。ただ、アルヤの男なら誰でも下げている短剣とは別に長剣を腰に下げている。

 白将軍であること以外に自分の存在意義を見つけられなかった頃の僕や、当時に比べれば大人になっているんじゃないかと思われる今の僕なら、まず剣を取り上げて取調室にぶち込んだだろう。でも、その時の僕は、外国人でもなく下層階級の人とも見えないその男に、そんなに注目しなかったんだよね。僕は男の素性を確認して、厳重注意だけで済まそうとしてしまった。

 兵士に男を外に追い出すよう命じた次の時、男は長剣を抜いた。

「何が軍神かこのガキがッ」

 誰かが「将軍ッ」と叫んでくれたので気がついた。とっさに振り向き腕で体を庇ったから、左腕を斬られただけで済んだ。危うく背中をばっさりやられるところだった。もう、本当に、何が軍神なんだか、だよ。

 男はすぐに取り押さえられた。僕は血をだくだく流しながら呆然としていた。そんな僕を、部下である兵士たちが医務室まで連れていってくれた。情けない。

 医務室で腕の傷を縫われている間に、ハヴァース王子とセターレス王子がおいでになった。僕は叱られるのを覚悟したし、案の定セターレス殿下は「たるんでいる」と怒り出しなさったが、ハヴァース殿下はそうなさらず、静かにこう諭しなさった。

「反王政派の上の方は知識層だ。意外な人物が出てくるかもしれない。エスファーナ大学関係者を洗った方がいい」

「なぜです?」

「西洋思想の研究者が今のアルヤ王国の体制を激しく批判している。政教分離だの人権だのと喚きたてアルヤの歴史を軽んじ発展を急ぎ過ぎているようだ。言いたいことは分からないでもないけれど、急激な改革は混乱を生むということを分かっていないらしい。下々の民にはまだ太陽が必要だというのに――いきなり太陽を失った民はいったい何を指針に生きていけばいいのかというところまでは考えていないんだね」

 え、話が難しい? ライルも王族なんだからこれくらい分かってください。

「とにかく、アルヤ人だから、きちんとした家柄の人だから、という理屈は通用しないんだ。よく見ていてくれ」

 その時は僕は分かったつもりで頷いた。後々のことを考えると、ぜんぜん分かっていなかったわけだけどね。

 ハヴァース殿下はすぐに今日はもう帰るようにと命じなさった。その時はありがたいなと思ったものだけど――うん、たぶん怒っていらしたよね、あれ……。

「ちくしょーッ、白将軍を女に寝取られたーッ」

「兄貴、言葉遣いが汚い」

 で、僕は素直に早々に帰宅した。本当に馬鹿でした。

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