白日記 第7話 「ご自分を大切にしてください」

 家に入ると、玄関を入ってすぐのところで母とナディアが待っていた。母は物憂げな顔をしていただけだったけど、ナディアは真っ青な顔で震えていた。

「ナディア? ただいま」

「ラシード……っ」

 いきなり抱き締められた。びっくりした。

「どうした?」

「かっ、帰ってこれなくなったらっ、どうしようかと……っ」

 その時だった。ナディアが初めて僕の見ているところで泣き出したのは。

 僕にはどうにもできなかった。ただ、彼女を右腕で抱き締めつつ、先ほど縫われたばかりの左腕の方の手で彼女の亜麻色の髪を撫でただけだった。

 母が言った。

「さっき白軍の若い兵隊さんがいらして、お前が怪我をしたことを伝えてくれたのですよ。白軍は本当に丁寧ですね」

 正直、余計なことをしてくれたな、という感じだ。母も、「私は大丈夫だと思っていましたけれども」と溜息をついている。このくらいのことなら、父がサータムの間者との追いかけっこの最中で何度もやらかしていた。

「ナディアがどうしても心配だと言って……」

「うん、大丈夫。王族の皆様にお怪我はないし、すぐに取り押さえたからね」

 でも、ナディアは「そんなことではありません」と怒鳴った。彼女がそんなに大きい声を出したのもそれが最初で最後だ。

「ラシードは怪我をしたでしょう」

 驚いた。そんなことを問題にされるとは思わなかった。

「少し腕を切っただけだよ。何針か縫った程度だ、十針くらいかな」

「縫わなければならなかったんですか!? しかも十針も……っ、ひどい」

 ナディアがあまり泣くので、母も心配のあまりか彼女の背を撫で始めた。

「腕が落ちたわけじゃないんだし――」

「でも、私は嫌です」

 親でさえ、王のために死ねと言ったのに。

「私はラシードに怪我をしてほしくありません。少しでも嫌です。ましてや誰かのためにだなんて」

 初めてだった。

「もう絶対に怪我をしないでください。ご自分を大切にしてください」

 生まれて初めてのことだった。

 僕はその時初めて、白将軍としてではなく、ラシード・メフラザーディー個人を尊んでもらっていることを実感することができた。



 転機が訪れたのは、ナディアと結婚して数ヶ月、父が死んだ式典から丸一年経った時のことだ。

 陛下はご自分の即位十六周年の式典をご用意なさった。ハヴァース殿下は最後まで取り止めるよう説得し申し上げなさっていたようだけど、陛下はご自分に背かれる殿下を鬱陶しくお思いになり始めておいでの頃だ。それでも妥協なさって式自体を小さくなさったんだけどね。

 ハヴァース殿下は僕に厳重な警備を命じた。白軍のみならず赤軍や黒軍まで配置なさった。ちょっと悔しかったよ、白軍を信用してくれていないのかな、とね。まあ、その頃は子供だったから。

 赤軍は十隊の中で唯一軍服や共通の隊士の証を持たない『ならず者集団』なので一般民衆に紛れ込みやすいし、黒軍はチュルカ人が中心ですぐに馬を出せる。白軍はきちんとした家元のきちんとした教育を受けたきちんとした軍服を着ている兵士ばかりでしょう。成り上がりを寄せ集めた赤軍とチュルカ人ばかりの黒軍は、僕らが持てない視点でこの国を見ている。

 途中また赤将軍と黒将軍が喧嘩になったんだけど、その話はまた今度ゆっくり愚痴らせてください。

 ハヴァース殿下の予感は当たった。

 不穏な動きを一番最初に察知したのは赤軍兵士だった。

 結局式典はこの宮殿の前の広場だけを使ってこじんまりと行なわれたんだけど、貴族の子弟と思しききちんとした恰好の青年数人が帯剣したままこそこそと動き回り、宮中に忍び込もうとしていたんだそうだ。

 白軍だったら、相手が貴族と見れば甘くなる。入ってこられても簡単な口頭での職務質問しかしなかっただろう。

 その点赤軍の連中は鼻が利く。身分を考慮せずに相手を敵か味方かで判別する――すごいのはこんな連中まで手懐けなさったハヴァース殿下だ。

 ただ、残念ながら、ハヴァース殿下もやはり王子様であらせられ、アルヤ王国軍の人間ではなかった。かの方は赤軍と黒軍の扱い方を真の意味ではご理解なさっていなかった。

 赤軍も黒軍も、よそと連携する気がない。自分たちは自分たち。しかも、自分たちは王国の下層階級の出だという劣等感があるから、上層階級の出だけで構成された白軍に自分たちのことを分かってもらえるとは思っていない。

 赤軍兵士が不審な集団にいちゃもんをつけ、不審な集団が剣を抜き、赤軍が一斉に跳びかかり――

 いきなり大乱闘になりました。

 白軍だったらこんなことは絶対にしないさ、白軍の中で綿密に話し合った上でゆっくり近づいて静かに捕縛する。白軍はいつも群れているし、エスファーナでの乱闘騒ぎの鎮圧は十八番だもの。

 関係のない民衆まで便乗して暴れ出し、式典はめちゃくちゃになった。

 結局僕は、ハヴァース殿下がもしもの時のためにとお預けになられたシャムシャ姫の肩を抱いたまま、白軍を鎮圧と同時に不穏分子と赤将軍を捕縛するよう指揮するはめになった。

 でも、僕は、その時でさえ早く片づけて帰りたいと思っていた。だから、全体が見えていなかったんだ。

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