白日記 第8話 シャムシャ姫もきっと宿命の子だったんだ

 陛下は白軍の兵士たちに連れられてかなり早いうちに避難なさっていたんだそうだ。

 ところが、ハヴァース殿下とセターレス殿下はその場、それも式典用に用意された台の上で、同じく用意された豪奢なご衣裳のままでいらっしゃった。

 お二方とも正義感の強いお方だ、混乱している民衆を放って安全な場所に逃げるなんていうのは考えてくださらない。台の上から全体をご覧になり、比較的落ち着いて動ける者には裏から逃げるよう指示し、だめそうな女子供はお傍にお控えしていた白軍兵士に命じて台の上に連れてこさせていたらしい。

 僕は自分では気づかなかったんだ。

 ずっと大人しく僕の軍服の裾を握っておいでだったシャムシャ姫が「兄さまっ」と叫ばれたのを聞いてようやく王子がたの方を向いた。

 その時すでにセターレス殿下は剣をお抜きになっていた。若いきちんとした身なりの男がものすごい形相でセターレス殿下に斬りかかっていた。殿下はそれに見事応じなさっていた。

 僕は初めてまずいと思った。血の気が引いた。

 台の上にはまだ他にも何人か若い男が剣を抜きながら上がってきていた。ハヴァース殿下も剣の柄に手をおかけになった。

 そのすぐ傍で、まだマグナエを付け始めた頃の――シャムシャ姫と同じ年頃の女の子が、恐怖のあまり声を上げて泣き出してしまった。

 ハヴァース殿下は本当、女の子にはお優しい。ましてや妹君と同じ年頃の女の子が怖いと言って泣き叫ぶのを放っておけるお方ではない。

 かの方は剣をお抜きにならなかった。その女の子を抱き締めなさった。

 その背で不逞の輩の刃が煌めいた。

 僕は父に王のために死ねと言われていたのを思い出した。僕の王が斬られようとしている。守らねばと思った。

 けれど次の瞬間ナディアの顔が浮かんだ。

 ナディアを泣かせたくない。

 怪我をしたくない。

 僕は騒ぎの中心から少し離れたところにいた。ここにいれば安全だと思っていた。ハヴァース殿下もそうお思いになったからこそ姫を僕にお預けになったんだしね。

 僕はそこから動きたくなくなった。

 セターレス殿下はたいへん腕の立つお方だけどその時はまだ御年十五。複数の年上の男に囲まれ身動きが取れない。ハヴァース殿下も女の子をお抱きになったままで剣を抜けない、女の子もまだ怖がって泣いている。他の白軍兵士も人混みに押されてなかなか近づけないでいた。

 どうしよう。

 次の時、僕の背筋が震え上がった。

 シャムシャ姫が僕の腕を振り払って走り出しなさった。

 ぞっとした。慌てて止めようとした。

 でも姫は一直線に台へと走っていき、軽々と台に飛び乗った。

 民衆がどよめき、男たちの動きも鈍くなった。

 シャムシャ姫はその日セターレス殿下のお下がりを着てマグナエをつけずに長く蒼い三つ編みを堂々と揺らしていた。周囲にはきっと蒼い髪の王子が突如降臨したように見えたんだろうね。

 それは神の証だ。

 一人の男がハヴァース殿下を斬ろうとしていた。

 シャムシャ姫が兄君を庇うように前に出られた。

 男の剣の切っ先が姫の左肩を斬り裂いた。

 兄君がたの「シャムシャ」という絶叫が響き渡った。

 アルヤ人はみんな本能で知っている。血に刻まれているんだ。蒼き御髪は神聖なり。そこにおわすは神の御子において他にあらず。

 男が悲鳴を上げて剣を放り投げた。

「無礼者めが!! 今貴様らの目の前にいらっしゃる方をどなたと心得る!?」

 八歳の女の子が、だよ? 肩から血を流したままそうご一喝なさった。

 その日も晴れていた。その時台の上にいた連中は皆姫を太陽の化身だと思ったことだろう。姫が太陽の光を背負っておいでのように見えたからね。シャムシャ姫がおっしゃった目の前にいる方というのはハヴァース殿下のことだったけど、みんな姫のことだと思ったのだそうだ。

 そこにいた全員が平伏した。信じられる?

 まあ、それを思えば、あの方も王になられる宿命の下におありだったのかもしれない。その事件があったからこそ姫が御年十三の頃、陛下がもう一人王子がいるとおっしゃった時、みんな疑わなかったのかもしれないね。

 蒼い髪の太陽の登場で一気に静かになった。場を治めるという点では、その後は本当に楽だった。

 でも、僕にとったらある意味でそこからが始まりだ。

 ハヴァース殿下もセターレス殿下もすべてを放り出して姫の方へと向かわれた。

 姫は出血がひどくて真っ青なお顔をしていらした。

 緊張の糸が切れたのか、姫は急に崩れ落ちるようにしてハヴァース殿下の腕の中へ倒れていかれた。

「シャムシャっ、シャムシャ!」

「うー……」

「シャムシャ、シャムシャ大丈夫か、しっかりしろ」

 目の前で大乱闘が始まっても落ち着いていらしたお二方が――いや、その日に限らず、いつもご自分を保たれ大人よりも大人らしくなさっておいでのお二方が、蒼いお顔で取り乱しておいでだ。

 僕はそこでやっとお三方のお傍に上がった。

 「殿下がた」と声をおかけすると、お二方に睨まれた。

「ラシード……、貴様、今までどこにいた」

 シャムシャ姫をお抱きになったまま、ハヴァース殿下がそう問いなさる。僕は何も申し上げることができず黙ってうつむいた。

 セターレス殿下が立ち上がり、僕の胸倉をおつかみになった。殿下も頬を少し怪我なさったらしくて、わずかではあったが血をお流しになっていた。

「貴様、白将軍としての本分を忘れたか」

「も……申し訳ございませ――」

 ぶん殴られた。痛かった。口の中に血の味が広がった。

 ちらりとシャムシャ姫の方を見た。ハヴァース殿下のご衣裳の胸が姫の血で赤く染まっていた。

「シャムシャに万が一のことがあったら貴様をぶち殺してやるからなっ! 白将軍でありながら王女にみすみす怪我をさせた罪は重大であると思えっ!」

 すぐに副長が担架を持ってきて、「医者をお呼びしました」と申し上げた。僕はそれも申し訳なかった。副長はきちんと次のことを考えているのに、僕はセターレス殿下に殴られて怒鳴られただけなんて……。

 ハヴァース殿下は担架を拒否なさった。シャムシャ姫をお抱きになったまま立ち上がり、「僕が連れていく」とおっしゃった。副長はそれを否定することなく、「左様ですか」とだけ申し上げてお導きするように歩き出した。セターレス殿下もそれに続かれた。

 よせばいいのに、僕は「殿下」とお二方をお止めした。もちろんまた睨まれた。

「お前の顔など見たくない。もう下がれ」

 ハヴァース殿下が泣きそうな、震える声で、おっしゃった。この王子のそんな声をお聞きすることなんてそうそうない。おっしゃっていることも、理知的で聡明なハヴァース殿下のお言葉とは思えないほど感情的だ。

 僕は事の重大さに立ちすくみ、姫を医者のもとへお運びになるお二人の背を見送らせていただくことしかできなかった。

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