白日記 第9話 「妹一人守れないで何が王か」
家に帰ると、ナディアが家の居間の座椅子に座ってぐったりしていた。
心配して「ナディア?」と声をかけると、彼女ははっとした様子で立ち上がった。
「お帰りなさい、早かったですね」
「どうした? 調子が悪いなら寝室で休んでいてもいいよ」
「いえ、午睡をいただきましたし、病気ではありませんから」
意味が分からなかったが、僕は事件のことで頭がいっぱいだったからそれ以上突っ込まなかった。
僕は絨毯の上に座り込んだ。
ナディアも隣に座ったので、僕はナディアの胸に顔を埋めるようにして彼女にしな垂れかかった。
ナディアはそんな僕を抱き締めてくれた。
「今日の式典がめちゃくちゃになったこと、白軍の兵隊さんがおいでになって教えてくださいました」
僕は、また余計なことを、と思った。
「あなたに怪我がなくて良かった……」
その言葉が、申し訳なかった。僕は、職務を放り投げ、大事な王族の方々を傷つけた将軍だというのに。
「死傷者は……?」
本当に、つらかった。
「反王政派の人間が五人、赤軍兵士が一人、一般人が二人亡くなった。怪我人はまだ把握できていない。けど――」
「けれど?」
「シャムシャ姫が、ハヴァース王子を庇われて、大怪我を……」
「そう」とナディアが言った。どんな顔で言ったのかは、分からなかった。知りたくなかった。ナディアに冷たい目で見られたくなかった。
「僕は白将軍でありながらそれを見ていたんだ。何もしないで姫がハヴァース殿下を庇って斬られるのを見ていた。叱ってくれナディア。僕を罵ってくれ」
「ラシード」
「たった八歳の姫君が怪我させられるのを黙って見ていたんだよ。それに、そうでなかったら今度はハヴァース殿下のお命が危なかったかもしれないんだ。僕を軽蔑する?」
ところが、ナディアは「いいえ」と即答してくれた。
「私も、酷い女ですね」
強く、抱き締め直してくれた。
「私はそれでも、あなたが無事に帰ってきてくれたことが嬉しいです。たくさんの方が亡くなったり怪我をなさったりしても、あなたは無事だった――それが嬉しいんです」
おそるおそる顔を上げると、彼女は悲しげな目で微笑んでいた。
「確かに、八歳のお姫様がお怪我なさったのは悲しいことです。傷の具合が悪ければお命に関わるかもしれない、良くてもお姫様なのにお体に傷が、と思うと、私もつらいです。でもそれは、あなたが無事だったから、なんです。あなたが無事で戻っておいでだから、よその心配ができるのです。もしもあなたが姫君や王子様がたを庇って亡くなっていたら、私はきっと一生王族の方々をお恨み申し上げるでしょう」
「私は心がとても狭いので」と言う様子は、まるで慈悲深い女神のようだった。
「頬が、腫れている……?」
ナディアに頬を撫でられつつ、僕は「セターレス殿下に殴られた」と答えた。ナディアはちょっと笑って、「では、ラシードがどなたか王子様を庇ってお怪我をしたら、私が残った王子様の頬をぶってさしあげましょう」と言ってくれた。大人しいナディアがそんなことを言うとは思っていなかったから、なんだかびっくりしてしまってね。少ししてから笑いが込み上げてきた。
「あら、私は本気ですからね?」
そんなナディアが、愛しかった。
とは言え、仕事は仕事だ。僕は翌日も宮殿に上がらなければならなかった。
翌日の蒼宮殿は静かだった。朝なのにまだ夜が明けていないかのようでね。僕はぞっとしたのを憶えている。
原因は、明らかだった。
蒼宮殿の夜明けを呼ぶ王子がたと姫君が、部屋からお出になっていなかった。
執務室に行ってまず、姫が高い熱をお出しになり臥せっていらっしゃること、王子がたはその姫に付きっ切りになっていらっしゃることを副長に教えられた。彼はその事実を述べただけで他には何も言わなかった。誰のせいだ、何のせいだとも言わないし、ああしろ、こうしろとも言わない。
僕はすぐに姫のお部屋に向かった。とにかく、お会いしてどうにかしなければ、という、何かよく分からない恐怖のようなものに動かされた。
「あらあらあら、将軍様」
部屋の前に辿り着くと、姫の子守役だったヌーラ殿がいつものあの調子で出迎えてくれた。それでも笑顔で「ささ、どうぞお入りなさいな」と招き入れてくれた。
部屋の中を見た瞬間、胸が詰まった。
まず目に入ったのは、大きな寝台に寝かされているシャムシャ姫だった。赤い頬と青い唇で荒い息をし苦しんでいらっしゃる。寝間着の襟元からは首まで覆う白い包帯が見えていた。痛々しかった。これまで風邪一つひかない健康な姫君だったのに。
その姫のすぐ傍、寝台の脇に座り込み、敷布に顔を埋めている少年の姿があった。一瞬、誰か分からなかった。ヌーラ殿が「ハー様、ハヴァース様」と言って肩を叩くまで。
「ラシード将軍様がおいでになられましたよ」
「知らない」
「どうでもいい」とおっしゃって、殿下はお顔を上げ、座り直しなさった。左手で姫の乱れた蒼い前髪を整えなさる。よく見ると、右手では姫の左手を握っておいでだった。
事の重大さを改めて認識した。いつも太陽のように輝いておいでのハヴァース殿下が、疲れ切った、今にも泣き出しそうなお顔で、僕からお顔を背けていらっしゃる――なんてことをしてしまったのだろうと思った。
「シャムシャ」
殿下のお声が、震えていた。
「シャムシャ、ごめんね。ごめんねシャムシャ」
ハヴァース殿下はご自分をお責めになっていた。シャムシャ姫がお怪我なさったことについて責任を感じておいでだったんだ。ああもう、これが最悪だったよ。セターレス殿下がなさったように僕を怒鳴って殴ってくださった方がまだましだ。
一方、セターレス殿下はシャムシャ姫の足元の方に座っておいでだった。僕の姿をご覧になると同時にお立ちになり、さっそく僕の胸倉をつかまれた。
「どのツラ下げてのこのこ来やがった?」
もちろん何とも申し上げられなかった。
「医者に傷口が化膿し始めているかもしれないと言われた。シャムシャに万が一のことがあったら貴様を殉死させてやるからな、覚悟しておけ」
僕はもう一発ぐらい殴られるかな、と思っていた。けれどそんな僕とセターレス殿下の間にヌーラ殿が「まあまあまあ」と言って入ってきた。
「こらセータ様、なんてことをおっしゃるんです、一国の王子様ともあろうお方がそんな言葉をお使いなさんな」
ヌーラ殿がセターレス殿下の手首を引っつかんで僕から外させた。セターレス殿下は苛立ったご様子で外をお向きになったが、ヌーラ殿はお構いなしだ。今度はセターレス殿下の両手をがっちりつかむと、「だぁめでしょうが」と叱り申し上げた。
「大きなお声を出しなさんな、姫様が起きてしまわれるでしょうが」
「でも」
「でもも何もございますか。そうやっていらいらいらいらなさっていれば何がしかが良い方に回るんですかね」
ハヴァース殿下が「ヌーラの言うとおりだ、少し黙れよ」と弱々しいお声でおっしゃった。セターレス殿下は拗ねたお顔でふたたびお座りになった。ヌーラ殿は背が低いわりには迫力ある胸と尻を揺すって歩き回り、「王子様がたはきっとお腹が空いておいでなんでしょ、年頃の男の子はいくら食べさせても足りないんですからね、ほらほらパンでも召し上がればよろしかろ」などと言って机の上の篭を開け始める。
「あ、将軍様も何か召し上がられます? 若いからお腹がお空きでしょ」
まったくヌーラ殿というのは本当にそういう女性だったよ。北の塔の支配者は確かにハヴァース殿下だったんだけどね、裏の女王と言うか、影の首領と言うか……、北の塔の、主、だよね。シャムシャ姫付の子守の奴隷だったはずなのに、女官頭みたいな。王子がたも頭が上がらなかったようでね――ヌーラ殿にはハヴァース殿下の偏食まで矯正した伝説があるからなあ。そうそう、実は『ハー様』『セータ様』という愛称を使い出したのも一番初めは彼女だよ。そういうところはしっかりルムアに受け継がれているね。強い。
シャムシャ姫も強い女の子でいらっしゃる。
「兄さま……?」
小さな声が聞こえてきた。ハヴァース殿下が目を丸くして「なに!?」と応じなさった。
シャムシャ姫は熱に浮かされて夢うつつでいらっしゃった。ぼんやり目を開け、小さな、弱々しい声でおっしゃった。
「ハー兄さまは……?」
ハヴァース殿下は姫のまだ小さな手を強く握り直して「ここにいるよ」とお答えになった。
「シャムシャ、大丈夫だよ、兄様はここにいるよ」
「おけがは……?」
「ないよ、元気」
「よかったあ」
その時のシャムシャ姫の笑顔も、今思い出してもつらい。
「おけがはしないで。兄さまは、王さまに、なるんだから……」
「妹一人守れないで何が王か」
シャムシャ姫の手を握られたまま、ハヴァース殿下が敷布に突っ伏された。そうして肩を震わせなさった。たかが十七歳、されど十七歳。ヌーラ殿は黙って隣に行き、かの方の背をそっと抱き締めて差し上げた。
「ごめんなさい」
そうおっしゃったのは、今度はセターレス殿下だ。殿下は目にいっぱい涙を溜め、震えるお声でおっしゃった。
「俺がもっと強かったら……っ、俺がちゃんとシャムシャも守れれば」
ハヴァース殿下が「違う」とお顔を上げなさる。「僕がしっかりしていれば」と。
ヌーラ殿が、左腕でハヴァース殿下を、右腕でセターレス殿下を抱き締め、「なんてお優しい兄君がたなんでしょ」と申し上げた。お二方はヌーラ殿の大きな胸にしがみつくように抱きつきなさった。
「だぁーいじょうぶですよ、なんてったってこのヌーラのお乳でお育ちになった姫様なんですよ、そう簡単にどうにかなったりなんかぜぇーったいにしませんからねぇ」
僕はもう居たたまれなくなって部屋から逃げ出した。
ハヴァース殿下は十七歳になられたばかりで、セターレス殿下はこれから十六歳になられるというところ。お二人よりも年長の僕はいったい何をしているのだろう。
本当に参った。
お二方は気が狂ってしまったのではないかというほど取り乱されている。それだけ、妹君を愛されている。その大切な妹君を、僕の卑怯な態度が傷つけた……。
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