白日記 第10話 「だからラシード、兄さまを守ってほしい」
ふと顔を上げると、回廊の向こうから小さな女の子が歩いてくるのが見えた。
まだ巻き慣れないマグナエが頭から浮いていて、栗色の髪が見えてしまっている。自分の体の半分もありそうな大きさの桶に水をいっぱい溜め、顔を真っ赤にして一生懸命運んでいる。彼女が一歩進むごとに水が床に飛び散っていた。
僕は苦笑した。彼女がヌーラ殿の娘さんだとすぐに分かったからだ。瞳が蒼かったからね。
彼女が桶を一度床に置いて一息ついた時を見計らい、彼女に声をかけた。
「ルムアちゃん、僕が持とうか」
ルムアが顔を上げて僕を見た。
皮肉なことに、ハヴァース殿下やセターレス殿下やシャムシャ姫より一番ルムアの顔立ちが陛下に似ていた。
いや、似ている。今でも時々ぞっとする。本当は、僕はこの子のことも守らなければいけないはずなのに。
ルムアはしばらく僕の顔を眺めた後、ふいっとそっぽを向いた。
「これはルムアのオシゴトですっ。お母さんはルムアにもってきなさいと言ったですよ」
「でも、重そうだよ。ルムアちゃんはまだ小さいんだから、僕が持ってあげよう」
「いーえっ、ルムアがもってくんですっ。ルムアがヒメサマにつかっていただくお水をもってくんですっ」
七歳の女の子でさえ自分の仕事を誇りと責任をもって遂行しようとしているのに、僕はいったい何をしているんだろう。
「ヒメサマを守ってくれないショウグンサマなんてキライです。ふんっ!」
ふたたび桶を抱えて歩き出した彼女を見て、可愛いなあ、こんな娘が欲しいなあ、なんて思った。
でも、やっぱり水は零しているし、水の重さで彼女が転んでしまいそうだ。
結局、彼女の後ろから桶を取り上げた。
桶は結構重かった。僕は大人の男だし鍛えているから苦ではないけど、七歳のルムアには大変な重労働だっただろう。
桶をシャムシャ姫の部屋の前から数歩手前まで運んだ。黙って床に置いた。
ルムアはしばらく僕を見上げていた。だがやがて、桶を持ち上げ、姫の部屋まで残り数歩分を頑張った。これで彼女が運んだことにできるだろう。思いつつ、僕はその場から去った。
その日一日、シャムシャ姫は目を開けたり閉じたりできちんとお目覚めになることはなかった。王子がたも姫のお傍を離れようとはなさらない。僕はどんどん気持ちが落ち込んでいくのを感じながら何もできずにいた。時間になったら逃げるように帰った。
家に帰ると、ナディアが機嫌の良さそうな顔で出迎えてくれた。僕は彼女の様子を見て心底ほっとした。僕がこんな男でも、彼女は僕を好いていてくれる。それが本当にありがたかった。
「お帰りなさいラシード」
「ただいま」と言いながら抱き締めた。「いきなり何ですか」と笑われた。
「ねえ、ラシード。今日は聞いてもらいたいことが一つあるのですが」
顔を上げ、彼女に一度口づけてから――まあ、僕も腐ってもアルヤ男ですから、思い立ったら何度でもしていましたが――「良い報せ?」と上げ調子で返した。嫌な話はもう蒼宮殿だけで充分だと、家ではもうナディアと休んでいたいと思っていたんだよね。ナディアは「ええたぶん」とにこにこしたまま答えた。
手を引っ張られて居間に行くと、僕の帰宅を見計らった母と妹たちが夕飯の支度をしてくれていた。
僕は家長が座る真ん中に座らされた。すぐにナディアがお茶を淹れてくれた。
「まだもう少し時間がかかりますから、ゆっくり待っていてください」
僕は眉間に皺を寄せた。支度途中の夕食が、どうもお祝い用、豪勢なご馳走の支度に見えたからだ。
「何があったの?」
「分かりませんか」と微笑んだナディアの肩を、料理を運び終えた母が笑顔で叩いた。
「さあ、支度ができましたよ。おっしゃいな」
「はい、義母様」
妹たちも皆食事を囲んで座った。料理の美味しそうな香りが漂ってきた。
ナディアは幸せそうに笑って言った。
「実はですね、ラシード。赤子を授かったんですよ。私のお腹にね、あなたの子がいるみたいなんです」
蒼宮殿であったこと――つらかったこととか悲しかったこととかが、一気に全部吹っ飛んだね。
次の日から僕は仕事をものすごく頑張るようになった。書類仕事から新兵の訓練指導まで何もかも全部頑張った。子供が、お前の父親は白将軍なのにきちんと王族の方々をお守りしなかった男だ、と言われていじめられたら嫌だと思ったからだ。別に、僕自身にそう言ってきた人なんて、セターレス殿下しかいなかったんだけどね。それでも、僕は子供のために汚名返上しなければと思ってがむしゃらに働いた。
そのさらに翌日、副長に「何か良いことでもおありでしたか」と訊かれた。僕はそこで初めて家族以外の人にナディアが妊娠した話をした。副長は驚いた顔で「なぜもっと早くおっしゃらないのか」と言った。
「お祝いの品をお贈りしましょう」
「いや、別に構わないんだけど……そういうものですか?」
「他にはどなたにお教えしたのかね」
「はあ、家族以外では貴殿だけですが」
「なんてことだ、早く両大臣に知らされよ」
そんな風に言われるとは思わなかった。僕はつい、「また騒ぎになるしお返しも大変だから」と応じてしまった。
ところが、そうではないんだよね。
「何をおっしゃるか、次の白将軍のご誕生になるやもしれんのに」
僕はそれまで、そんなことは一切考えていなかった。
嫌だなあ、と思ったよ。僕は、生まれる子にはナディアにしているように毎日抱き締めて甘やかしてやろうと思っていた。でも、僕自身が父親にそうしてもらった記憶はない。
いまさらになって、僕は父さんにあまり愛されていなかったのかな、と思った。
だけど、白将軍を育てるということは、そう育てるということだよね。
ナディアのお腹の子が男の子だったら、僕はその子を僕がされたように育てなければならない……。
考え込んだ僕を見て、副長は、たぶん、まずい、話題を変えなければと思ったのだと思う。「そう言えば」と別のことを言い出した。
「シャムシャ姫の熱が下がりまして、今朝からお食事を召し上がったりいろいろお喋りなさったりしているようですよ」
ちょっと救われた。一番最悪の事態にはならずに済んだ。シャムシャ姫は本当に強いね。
同時に、八歳の姫君に助けていただいた申し訳なさもあってさ。姫にお会いしてきちんと謝罪し申し上げようと思い、姫のお部屋に向かった。
僕がシャムシャ姫のお部屋に辿り着いた時、お部屋にはシャムシャ姫とヌーラ殿、ルムアの三人しかいなかった。
シャムシャ姫は寝台の上で上半身を起こし本をお読みになっていた。顔色も良い。けろっとしていらっしゃった。
「おお、ラシード、今、お前をよび出そうと思っていたところだ」
姫は笑顔でそうおっしゃった。いったい何のご用だろう。
王子がたはいらっしゃらなかった。「ハヴァース殿下とセターレス殿下は」とお訊ねしたところ、ヌーラ殿が「お休みですよ」と答えてくれた。
「ここのところほとんど寝ずに姫様についておいででしたからねぇ、ご安心なさったんでしょ。ご自分らの寝室に戻ってしまわれたんですよ」
正直ほっとしました。
シャムシャ姫が本をお閉じになった。
ルムアが姫の長い蒼い髪を二つに束ねようとしていたけど、姫が僕を呼ぼうとしていたとおっしゃったので、僕は姫のお傍に近づかせていただいた。姫と視線が合うよう、寝台のすぐ傍にひざまずいた。
次の時、姫は腕を伸ばして僕の頭をお撫でになった。
「ひっ、姫っ?」
驚いたけど振り払うわけにもいかない。
姫は大きな蒼い瞳でじっと僕を見つめなさったあと、「よしよし」とおっしゃった。
「兄さまがた、とくにセータ兄さまがお前をひどくしかってぶんなぐったと言っていたので、なぐさめてやらないと、と思っていたんだ」
本当に、びっくりした。僕はこの姫君にも叱られて然るべきことをしたというのに、まさかそんなことをおっしゃられるとは。
呆然としている僕を見て、ヌーラ殿が笑い始めた。
「嫌ですよォもうこのお姫様は! ずいぶんとお優しいことで」
「ん」
姫が僕から手を離しつつ、頷かれる。
「兄さまたちはシャムシャがおこっておいてやったから安心しなさい」
「何をお叱りになられるのですか」
首を横に振って申し上げた。
「悪いのは自分であります。自分は貴女様や兄君様がたをお守りせねばならぬ身、それをみすみす貴女様にこんなお怪我を負わせたのです。自分は本来ならばそれ相応の罰さえ受けねばならないのですよ」
「そうか?」
「でもなぁ」と姫は首を傾げなさった。
「ハー兄さまはね、いつも、自分でしたことには自分で責任をとりなさい、と言っている。シャムシャは兄さまをお守りしたくて、自分でしたのだもの。お前は悪くないし、兄さまたちはお前に八つ当たりをしたんだよ」
そしてその後、「シャムシャをきった人を怒ればいいのに」と付け足しなさった。
「あぶないことをしたのはそいつなのだから。ラシードがきったのではないでしょう?」
僕は溜息をつかされた。もちろん、その男はもうすでに王子に刃を向けたかどで処刑されていたのだけれども。まったく、八歳の女の子に言われて気持ちが救われるとはね。姫が誰より一番冷静でいらした。
「すごくいたかったし、今もズキズキするけど、シャムシャはぜんぜん平気だよ。だって、シャムシャは兄さまを守ったんだ。すごいでしょう? シャムシャは次のアルヤ王を守ったんだ」
姫はにこにこ笑って、褒めて、褒めて、とお顔で訴えていらっしゃる。それになんだか胸が締め付けられた。
僕は「失礼します」と申し上げ、姫の小さなお体を抱き締め、頭を撫でてさしあげた。ルムアは「やーん」と言って嫌そうな顔をしたが、姫は喜んでくださった。
「でも、ラシード? 一つ約束をしてほしい」
姫が僕の腕の中でおっしゃる。
少しお離れして、「何です」と訊ね申し上げた。姫がこくりと頷いて申し付けなさった。
「今回はよかったけど、またいつかこんなことがあるかしれない。シャムシャはまだ小さいから、次は今回みたいにうまくいかないかもしれない。だからラシード、兄さまを守ってほしい。ラシードはシャムシャより大きいし、剣ができるでしょう?」
僕は「もちろんです」とお答えし、「申し訳ありません」と頭を下げた。姫は「あやまるところではない」とおっしゃってくださったが、その時は本当に心から申し訳ないと思っていた。ハヴァース王子をきちんとお守りしようと思った。同時に、この姫君も大切にしようと思った。
まさか、どちらかを選ばなければならない日が来るとは思っていなかったからね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます