金星記 第7話 「寝ていたらだめかぁ」

 いつの間にか、実家に滞在し始めてから一週間も過ぎてしまった。

 グラーイスは布団の上で溜息をついた。

 腹の上にはまだ途中のブルジオン語の哲学書が乗っている。啓蒙主義者とかいう少し胡散臭い貴族の書いた本だ。夢中になって読みふけってしまったのは、これをどうにかアルヤ王国でも使えないかと思うからである。啓けていない者を啓けている者が導く――この理論はむしろ、世界市民主義というより君主政にとって都合が良い気がするのだ。

 グラーイスは、十四の頃から十七になるまでの約三年間、ブルジオンの首都で過ごした。おかげで西方大陸の連中の孕んだ矛盾についても多少は知っている。彼らの論理は強者の論理だ。

 懐かしい思い出だった。まだ三年前なのにずっと昔に思える。あるいは、自分の夢だったのではないか、と思う。

 自分は、今、アルヤ王国で、生きている。

 それに不満はない。不満など持つ方がおかしい。自分には現状を変えるだけの力があるはずなのだから、不満を感じたなら国の方を変えればいいのだ。

 そのために、今、何をすべきか。

「……寝ていたらだめかぁ」

 実家にいると、つい、だらけてしまう。これはきっと良くない。自分がもったいない。

 グラーイスは本を閉じた。本を読むことは有益だが、今この瞬間必要なわけではないような気がしてきた。

 体調はすっかり良くなった。いい加減宮殿に帰って裏工作の続きを始めなければならない。

 起き上がろうとした、その時だ。

「グライ様? 起きていらっしゃいますか?」

 扉の向こう側から、若い女性の声が聞こえてきた。

 すぐに分かった。アイシャだ。

 グラーイスは気持ちが弾んだのを感じた。素直に、アイシャが自ら部屋に訪ねてきてくれたことを、嬉しい、と思った。

 前回迫ってから今日でかれこれ三日目だ。その間アイシャはマリッダにずっと付きっ切りで擦れ違ってもグラーイスの方など見向きもしなかった。だがこれはまんざらでもなかったということか。

「起きているよ。入ってくれて構わない」

 ゆっくり起き上がりつつ、本を傍に置いた。

 アイシャが入ってくる。白い衣装に白いマグナエだけして腕に篭を抱えている。

「来てくれたんだね、嬉しいよ。そろそろ僕からもう一度お伺いしようかな、と思っていたところだ」

 アイシャは微笑んで言った。

「迷惑です」

 グラーイスは凍りついた。

 アイシャが笑顔のままとどめを刺さんと続きを言う。

「私が今グライ様をお訪ねしているのは、マリッダ様の仰せによるものですよ」

 雇い主であるマリッダの命令がなければ、グラーイスを訪ねる気など彼女には微塵もなかった、ということだ。

 これは、完全に、嫌われている。

 予想以上に衝撃的だった。自分らしくもなく黙り込んでしまった。

 アイシャが「失礼致します」と言い、床に膝をついて篭を床に下ろした。篭の中に入っていたのは、小瓶二つと白い木綿の布、そして包帯だ。

「いつもグライ様のお怪我の手当てを致しておりましたサイーダが、娘が熱を出したそうで、二、三日ほどお仕えする時間を短くしていただけるよう申し出たんです。そのため、マリッダ様が、サイーダの娘の調子が戻るまでの間に限り、私たちの配置換えをなさったんですよ。ただそれだけの理由ですから」

 いちいちしっかりしている、最後には必ず釘を刺してくれる。

「そんなに僕が嫌いなら、僕のところに来るのも断ればよかったじゃないか」

 アイシャから顔を逸らし、口を尖らせてそう言う自分の様子は、おそらくまるっきり子供のそれに見えるだろう。

 アイシャは変わらぬ涼しい顔で答える。

「仕事ですから。女手一つで子を育てるということは、この程度でがたがた騒いでいては務まらないことです」

「この程度のことなんだ、アイシャにとっては」

「それに、私がもしそのようなことを申せば、マリッダ様がお疑いになりますよ。私よりもグライ様の方が困ることになるのではございません?」

 マリッダは男女で言えば必ず女性の味方をする。まして好いた惚れたの話になればなおさらだ。父の背中を見て育ったために女性関係には潔癖になった長男や引きこもっていて出会いのでの字もない三男とは異なり、西方大陸で女遊びを覚えて帰ってきた次男は要注意、と見られていることも、知っている。アイシャと会えなくなるどころか、女官だらけの蒼宮殿には帰してもらえなくなるかもしれない。下手すれば強制的に婿に行かされる気がする。

「まぁ……そうだけれども」

 しかし――見方を変えてみる。

 アイシャは、感情に流されず、きちんと先のことを見据えて行動しているということだ。自分だけでなく憎いはずの敵のことまで利害さえ対立しなければ擁護するだけの度量もあるわけだ。

 そう考えると、ますます、欲しくなる。

 アイシャの前の夫は馬鹿だと思う。

 シャムシャには申し訳ないが、彼女こそ王妃に相応しい器の持ち主だろう。だからこそ、彼女を王家にやってしまうのは勿体無い。

 それに、逃げるものを追いかけるのは、雄の習性だ。

 自分のものにしたい。

「では、上着をお脱ぎくださいませ。腕の包帯をお替えしましょう」

 そんなことを考えているうちにすっかり機嫌が良くなってしまって、素直に「はーい」と返事をし、胴衣を脱ぎ始めた。他の侍女だったら甘えて脱がせてくれと言い出しているところだが、アイシャにそんなことを言ったら軽蔑の目で見られてしまうはずである。

 服を脱いで上半身を裸にしたあと、包帯の巻かれた左腕を見て、グラーイスはそれも自ら外し始めた。右利きなので大した労力は要らない。

 やがて白い腕に深く刻まれた傷が見えてきた。つい昨日抜糸したばかりの傷はまだ生々しい色をしており、まるで赤い虫が這っているかのようだった。

 消毒液であろうか、小瓶のうち茶色い方の蓋を開けていたアイシャが、その傷に目を留め、手の動きを止めた。グラーイスが「どうかしたかい?」と訊ねる。

「瓶が開かないのなら僕が男らしく開けてあげようと思うんだけれどもっ」

「あ……いえ、その」

 左手に瓶を持ったまま、右手を口元に寄せる。

「申し訳ございません……思っていたよりも、その。重傷だったのですね」

 グラーイスは改めて自分の左腕を見、縫った跡が分かるよう隆起した傷口を見て、「うーん」と唸った。

「女性には衝撃的なものだろうか」

「いえ……」

「まぁ、あまり見たくないのなら、僕が自分でやってもいいけれども」

 少し意地悪をして「その方が君にとっても都合が良いのでは」と言ったら、彼女は眉間に皺を寄せ、首を横に振った。

「申し訳ありません、大丈夫です」

「そう? こういうものは本当に個人差があるから、いくら仕事だとは言え無理をしない方が良い。それに、今まで来てくれていたサイーダは、彼女の兄上が長い間白軍兵士をやっていて、生傷に慣れているんだそうだ」

 「ライルでさえ痛そうだの気持ち悪いだのと言って嫌がる、戦闘民族の王子様のくせに」と言ったら、アイシャは少しだけ笑った。それに、グラーイスは、目を丸くした。アイシャが業務用の微笑の他で笑顔を見せたのが、初めてだったからだ。

「仲がよろしいんですのね」

 初めて、笑ってくれたわけだ。

 驚いた。予想以上に喜んでいる自分がいる。

「でも、大丈夫です。きちんと致しましょうね。もし化膿したりなどしたら、大変ですもの」

 もっと、笑っていてほしかった。

 アイシャが布の先に消毒液をつけ、軽く傷口を拭いながら「しみませんか」と訊ねてくる。グラーイスは「平気だよ」と答えて、アイシャを眺めた。

 どうにかして、彼女を手元に置いておけないだろうか。そうしたら、自分なら、彼女に楽しく笑っていられる明るい人生を提供してやれる。絶対に、そうできる。自信は山ほどある。

 それでも、彼女はまだ、新しい愛は欲しくないと言うのだろうか。

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