金星記 第6話 「さっさと忘れた方が人生は楽しくやれる」

「ハルーファハルーファハルーファーっ!!」

 部屋の出入り口に立てられていた衝立が蹴倒された。それまで子供たちに絵本を読み聞かせていたハルーファが、「はいよ」と無表情のまま顔を上げた。

 顔を真っ赤にして眉間に皺を寄せているグラーイスが、「ハルーファ聞いてっ!」と言って部屋に入ってくる。ハルーファは少し驚いた声音で「珍しいわね」と呟いた。

 彼女はグレーファスの第一夫人である。グラーイスにとってみれば兄嫁、義理の姉に当たる。年は現在二十二歳、二十三歳のグレーファスの一個下、二十歳のグラーイスより二つ上だ。もとはフォルザーニー家の分家の子、グラーイスの父の弟の長女である。男女を厳格に分けるアルヤだが、血縁となれば話は別で、グレーファスもグラーイスも、ハルーファとは幼い頃から親しく付き合ってきていた。

 彼女も類稀な美貌の持ち主だ。まっすぐの高い鼻筋やはっきりとした二重の目といった彫りの深い顔立ちはいかにもアルヤ美人である。肌は白く滑らかで、長い亜麻色の髪も緩くまとめられてうなじにかかる様子は悩ましげだ。ただし今はグレーファスの第三子を妊娠しているため腹部が大きく膨れ上がっている。

「ハルーファあぁっ、ちょっと聞いておくれよっ!」

 「聞いてあげるからお座り」と言って手を振ったハルーファに導かれるまま、彼女の真正面、毛の長い高級絨毯の上に座った。

 ハルーファの両脇に小さな女の子が三人座っている。

 彼女らが大きな目で自分を見上げて硬直しているのを確認し、グラーイスは急いで笑みを作り直して「ご機嫌よう」と挨拶した。

「グライちゃん、めっ」

 そう言ってグラーイスの膝を叩いてきたのは、グレーファスとハルーファの長女であるユーファだ。父と同じ蜂蜜色の髪をした、四歳になる女の子である。

「グライちゃん、オギョーギがわるいのよっ。そんなじゃイイトコロにおムコさんにいけないんだからっ」

 笑いをこらえながら、「そうだね、今度からは気をつける」と答えた。

「未来の淑女たちに対して礼を欠いていたようだ、ここは謝るべきだろう」

「そんなことをしなくてももうグライちゃんがお婿に行けない可哀想な子なんだってことぐらい分かっているわよ」

「失礼な、兄上が婿に出してくれないだけだよ」

「あんたって子はなんでもかんでもグレフのせいにして」

 ハルーファが次女の頭を撫でて溜息をつく。

 グラーイスは、もう一人小さな女の子がいることに気づいて、眉間に皺を寄せ直した。

 兄の子供は娘二人と今ハルーファの腹にいる子だけだ。グロリアスは結婚していない。姉たちのうちのいずれかが子供を連れて帰省していたらもっと大騒ぎになっているはずだ。父親の隠し子だろうか。

 三人目の子は、緩やかに波打った栗色の髪に、同じく大きな栗色の瞳をしていた。ユーファより少し小さい。やや釣り目気味のような気もしたが、それもまた子猫のようで可愛らしい。ただ、自分の兄弟の誰にも似ていない。

「あれ、この子はどこの子だい?」

 三人目の幼女の背をつついて「ご挨拶なさい」と促す。

「宮殿に出していたグレフの弟のグライよ。たまにしか帰ってこないような放蕩息子だけど仲良くしておいて損はないと思うわ」

「何だいその僕に対するあんまりな評価は」

 彼女は、ハルーファとグラーイスをしばらく交互に見ていたが、やがてにこりと笑って「サラーム!」と挨拶した。人見知りをする子ではないようだ。

「レナちゃんですっ!」

「本名はレニアーナ、だそうよ。うちの女中の娘で、年は次の夏で四つだとか。可愛がってあげてちょうだいな」

 フォルザーニー家はしばしば使用人一家を丸ごと雇い入れる。彼女の両親も家の中を探せば揃って働いているだろう。そして彼らが働いている間に子供にそれなりの教育を施して自分たちに都合の良いようしつける。これも将軍家でないフォルザーニー家の生き残り戦略の一つである。

「やあ、グラーイスだよ。よろしく、レナ」

 レナのまだ小さな白い手を取って握った。レナが嬉しそうに笑って握り返してきた。

「グライさま、きらきらー!」

「うん? それってつまり僕がとてもかっこいいということかい?」

「単にあんたの金髪が派手なだけだと思うわ。アルヤでは珍しいから。アルヤでは」

 ハルーファが本を置いた。ユーファがすぐさまそれを拾い上げ、「ユーファがよんであげるのよ」と言い出した。ハルーファが目を細めて「あら、それは頼もしいわね」と応じた。

「で、あんたは何の用? 私の娘たちとの楽しい午後を邪魔しても仕方がないと思えるほど何か重大な事件でもあって?」

 グラーイスが「そう、それがね」と大袈裟に手振りを加えて言う。

「ハルーファ、アイシャというのは知っている?」

 ハルーファは一瞬黙った。その間にグラーイスは何かあることを悟ったが、だからと言って何があると問うても素直に答えてくれないのがこの義姉だ。

「ええ、知っているわ。最近お義母様が身の周りに置いている女中でしょう」

「彼女と話はする?」

「たまにね。同い年でお互い子持ちだもの、共通の話題はあるのよ。ただ彼女、どうも遠慮がちと言うか、私相手に自分の話をするのは気が引けるみたいであまり多くは語ってくれないから、彼女の詳しい経歴や趣味特技などは知らないわ」

「ハルーファは性格がきついからなぁ」

「何か言った?」

「いえ何にも。とにかくだね、彼女はどうやらそのハルーファの言うとおり子持ちであるというのに今独り身らしいんだ。それがどういう意味か、ハルーファなら分かるよね」

 ハルーファは眉一つ動かさず「もちろん」と答えた。グラーイスは、ハルーファはすでにアイシャとそういう話もしたのではないか、と疑ったが、さすがフォルザーニー家次期当主の妻をやっていられるだけあり、彼女の鉄面皮も大したものである。

「それで僕は彼女に――」

 そこで唐突にハルーファが、「口説いたの?」と訊いてきた。

「……えーっと……」

 グラーイスは絶句した。

「あんたの女の好みと好みの女を見つけた時の行動様式なんてお見通しよ」

「なんてことだ」

「で、ふられたのね。ぶゎーか」

「うっわ、そういう言い方はないでしょうが」

 娘たちが母の真似をして「ぶぁーか」と言った。

「それで、なに。私に何の話を聞いてもらいたいと言うの。あんたまさか女にふられたのが久しぶりで立ち直れないとか阿呆なことをぬかすつもりじゃないでしょうね」

「ハルーファ残酷……!」

「そうだったの? あっはっはっは、今夜のグレフの酒の肴の提供をどうもありがとう」

 「私も飲めないのが残念だわ」と言ってにやにやと笑うハルーファの様子は十年以上前から変わっていない。

「僕の恋模様を兄上に笑い話として語るのはやめてくれないか、僕の初恋話もハルーファだからきっと内緒にしてくれると思っていたのに全部兄上に話したでしょう」

「内緒にしてほしかったの? あらごめんなさい。あの頃のあんたはうぶで可愛かったわ、当時十三歳だったっけ?」

「思い出したくない」

 「話を元に戻そう」と自分の膝を叩いた。

「とんでもないことを言われたんだよ」

「とんでもないこと? なに」

「あーっ、ハルーファ今どうせ大したことないだろうと思っただろう!?」

「いいから話しなさい」

 「それがだね」と、大きく頷いてから、拳を握り締めた。

「自分はもう一度嫁いだ身だから他の男と関係を持つことなんて考えられない、みたいなことを言うんだよ。どう思う?」

 ハルーファが「ほう」と呟いて一人腕を組む。

「離婚したにも関わらず、だ。僕はこれはおかしいと思うんだけど、ハルーファはどう? 彼女は言うなれば夫に不当な扱いを受けて不遇の身にあるわけじゃないか、それでもそんな夫に操立てする理由は何だい?」

 彼女はしばらく考え込んだ。

「そう思うのは僕が男だからかな、それとも結婚したことがないからかな、はたまたフォルザーニー家の人間だからかな。一度嫁いだことのある女性のハルーファになら何か分かるのではないかと」

 ややしてから、「残念だけど」と答えた。

「私にも何とも言えないわね。彼女と同じ境遇に陥らない限り想像できないことかもしれない」

「そうかい?」

「強いてひとつ言うとしたら、結婚はとてつもない労力が要るということかしら。私だったらもう一度結婚するのなんてごめんよ」

「貴重な意見をどうもありがとう」

「いいえどう致しまして」

 グラーイスもまた考え込む。

「もう一つ、聞いてもいいかな?」

「なに」

「ハルーファも、親の決めたいいなずけと結婚させられたわけじゃないか。それに、ハルーファに拒否権はなかったはずだ」

 グラーイスのそんな問いかけに、ハルーファがまた眉間に皺を寄せた。

「とてつもない労力が必要なことだったのかい? 嫌では……なかった?」

 彼女はしばらく黙った。のち、「そうね」と苦笑した。

「嫌では、なかったわね」

「それって、兄上のことを――」

「私は生まれた時からグレフと結婚するために育てられたようなものだったから、他の男を考えたことがなかったのよ。それこそ十三歳だった頃のまだ可愛かったあんたに駆け落ちしようと言われるまで」

「その黒歴史は忘れてください僕は血迷っていたんです」

「私の場合、グレフはそれこそ赤ん坊の頃からの付き合いでよく知っていたから、ぜんぜん知らない男よりははるかにマシよね。それに――ここから先は結果論。結局、今がそれなりに幸せだから。あと、予想以上にグレフが良い男に育ってくれたので。結果良ければすべて良し」

 言われてみれば、問うまでもなく、兄と彼女は仲が良かった。恋人同士と言うよりは共犯関係に近く、どうもいつも二人で悪巧みをしている印象だが、それでも何かと言えば二人並んでいる。

 アイシャとその前の夫は、いったい、どんな関係だったのだろう。どんな男だったのか。自分よりもいい男なのだろうか。

「彼女、前の夫に捨てられたのではないのかな? そんな無責任な男のことなどさっさと忘れた方が人生は楽しくやれると思うんだけれどね」

「そうとは限らないわよ」

 ハルーファが「あんたも世間知らずよね」と笑った。グラーイスはそれに少しむっとしたが、

「男女が別れる理由なんて一つじゃないでしょう。前の夫が嫌な男で彼女を無責任に放り出したから離縁になったとは限らないじゃない。もしかしたら何ともしがたい事情があったのかもしれないじゃない? 究極的に言えば、真の理由なんて本人たちにしか分からないわよ」

 ハルーファの言うとおりだった。

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