金星記 第5話 「君に見惚れてしまってね」

 アルヤの民衆は夫に捨てられた女性に冷たい。嫁いだ女は夫に尽くすことを絶対とされている上に、処女でないと結婚できないからである。実家に帰っても一度嫁に出された娘は冷遇されるそうだ。本意でなく売春婦に身を落とす女性も多い。

「ですが――」

「安心なさい、この私が年明けには嫁ぎ直せるよう年内にお前に相応しい男を見繕って差し上げます。再婚だからとて不遇に迎えられることはありませんよ」

 渋るアイシャを無視して、マリッダとグレーファスが強引に話を進める。

「でも――」

「再婚に支障が出るようならば貴女の姫は僕が養女に迎えても構わない」

「それはいいですね、ぜひともそうなさい」

「そんな――」

「では、下がりなさいアイシャ。これからグレーファスと家の今後に関する大切な話をするところです。お前の新しい夫の件については候補者を何人か挙げられてからまた改めてお前を呼んで話をしましょう」

 アイシャはしばらく黙った。おそらく、嬉しい表情はしていないだろう。ここからでは見えないが、彼女が勝手に進められる再婚話に納得していないことくらいは分かる。

 だが、相手はマリッダとグレーファス、フォルザーニー家の中核的存在だ。この家に匿ってもらっているアイシャが逆らえる相手ではない。

 ややして、アイシャは「かしこまりました、またお片づけの時に参ります」と言って頭を下げ、席から離れた。マリッダとグレーファスが「ご苦労様」と微笑んでそれを見送った。

 グラーイスも立ち上がって動き出した。

 アイシャが今独身なら、話はもっと簡単になった。人目を忍んでの不倫の緊張感を味わわずとも、もっと気楽に恋の駆け引きを楽しめる。自分が蒼宮殿に戻るまで、あるいは彼女が正式にどこぞの奥方にふたたび納まるまでの期間限定でも構わないし、彼女が自分の愛人の座に納まってくれても何ら問題はないのだ。

 アイシャを追いかけた。

 彼女は少しうつむいたまま屋根の作る影の中を歩いていた。愁いを帯びた美しい元人妻――最高の物件ではないか。

「アイシャ」

 声をかけると、アイシャが顔を上げた。「ぼっちゃ――」まで言いかけてから、「グライ様」に訂正した。

「いかがなさったんですこんなところで! まだお部屋で安静にしていただかないと――」

「し。大きな声は出さないで」

 ちょうどすぐ傍に壁があって助かった。グラーイスは、右手の人差し指を口の前で立てたまま、左手をアイシャの顔の脇を通すようにして壁についた。

 アイシャとの距離が縮まった。

 アイシャが壁に背をつけるようにして一歩下がった。

「グライ様?」

 面長の輪郭や涼しげな口元は大人の女性のそれだが、目元はまだ若々しい。肌は白く滑らかで、しわもしみも見つからない。彼女がこのまま一生夫に捨てられた女として日陰者になってしまうのは確かに勿体無かった。

「どうなさったんです?」

「いや、つい君に見惚れてしまってね」

 グラーイスは柔らかく微笑んでみせた。アイシャは「は?」と顔をしかめた。厳しい反応に一瞬挫けそうになった。たまにはそういうこともある、熱心に口説けば大丈夫、と自分に言い聞かせて笑顔を保つ。

「すまない、立ち聞きするつもりはなかったんだけれども……、たまたま、聞こえてきてしまって」

 思い切り盗み聞きの体勢だったことは内緒だ。

「今、独りだそうだね」

 言うと、アイシャが少し悲しそうな顔をした。

「酷い男もいるものだ。君のように魅力的な女性を放り出すなんて、どんな悪魔なのだか。そんな男のことなどさっさと忘れてほしいな。そう――」

 少しずつ、身を寄せる。耳元で囁くように言葉を紡ぎつつ唇を彼女のそれへと近づける。

 もう少しだ。

「――どうか、僕に忘れさせてく――」

 と思ったのに、

「あの」

 アイシャがグラーイスの胸を押した。

「ご冗談はやめてくださいませんか」

 押し退けられつつ、グラーイスは内心で、そんな、と絶叫した。

「グライ様ほど美しくて立派な殿方でしたら遊び相手もたくさんいらっしゃるでしょうに」

 最後の最後にと突き飛ばして、アイシャがはっきり言う。

「わざわざ私で間に合わせようなどとはお考えにならないでくださいませ」

 一歩よろめくように下がってから、グラーイスは呆然とした。一瞬、何と言われたのか分からなかった。

 ややしてから、認識した。

 完全に、一分の余地もなく、拒まれた。

「どうもおかしいと思っておりました。そういう魂胆でしたのね。たいへん残念ですが、私はグライ様の火遊びに手をお貸しできるほど若い気持ちは持ち合わせておりません」

 堂々とそう告げる様子は、まるで言うことを聞かない息子を叱りつける母親だ。

 驚いた。

 柔和で気性の穏やかな、あまり自己主張しない女性だと思っていた。まさかここまで自分を拒絶する言葉を述べようとは予想だにしていなかった。

 それでも「でも」と望みを探ろうとする自分は、どうにかして母親に我が侭を聞いてもらおうとする子供そのものに思われた。けれどだからと言って引くのも沽券に関わる。

「独り身で心細くはない? 僕がきっとその穴を埋め――」

「結構です。私には娘がおりますし、それに、」

 考えたこともなかった。

「私は、一度嫁いだ身ですもの。たとえ今夫が傍にいなくとも、もう、他の男性とだなんて考えられません」

 アイシャは自分の体を抱くように自分の手で自分の腕をつかんだあと、「失礼致します」と言って踵を返した。それから、グラーイスに背を向けてさっさと歩いていってしまった。

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