金星記 第4話 「巧妙に隠れるようになったものだ」

 宮殿にいるとライルと比較されてしまうので分かってもらえないが、グラーイスは体力にも自信がある。フォルザーニー家で一番剣が達者て、一番速く走れて、一番丈夫で病気とは縁がない。アルヤ最難関と言われる白軍の入隊試験を受けても通る自信がある――ただし最終面接で「王家への忠誠心に欠ける」と言われて落とされる。

 グラーイスは幼い頃からやんちゃであった。庭の木には登るし、猫を追い掛けて下町へも出る。フォルザーニーの現当主には息子が三人いるが、剣や馬どころか弓や棒まで扱うようになったのはこのグラーイスだけだ。

 周囲の人間、特に母方の伯父であるデヘカーン卿などは、グラーイスが母親によく似た妖精のような容姿をしているがゆえに、小さい頃の彼に繊細な美少年を期待したものだ。十四歳の時、当時のハヴァース第一王子からライル王子付きの教育係をするよう直々のお達しが来た際も、そうだ。略奪を繰り返し肉を喰らって酒を飲む北方の蛮族チュルカ人の王子の相手など、フォルザーニー家で蝶よ花よと育てられたアルヤの真性の御曹司であるグラーイスにできるわけがない、と言って、ずいぶんと抗議したらしい。その蛮族の王子と取っ組み合いの喧嘩をしてから何も言われなくなった。

 そんなグラーイスにとっては、多少怪我をしたくらいで三日も四日も寝ていろというのは、拷問に等しい。

 今朝、寝て覚めたら、元気だった。動き回るのにこれ以上の理由が必要があろうか。

「グロール。グローリアース。お兄様が遊んであげようー、出てきたまえー」

 屋根の下、影の中を歩きつつ、歌うように呼びかける。

「グロル、引きこもりのお前のためにお兄様が遊んで差し上げると言っているのだよ、隠れていないで出てきなさいー」

 グロリアスがグラーイスから逃げ惑うのは、グラーイスがグレーファスから逃げ惑うのと同じ理由である。ただし、グロリアスの場合は、次兄を取り逃がした長兄が自分にも矛先を向ける分、二倍だ。隠れんぼも上手くなる。

 「巧妙に隠れるようになったものだ」とグラーイスが舌打ちした、その時だった。

 建物の角の向こうから、声が聞こえてきた。

 本能的に壁に背をつけた。体に刻み付けられ染み込まされたのに忠実に従い息を潜めた。そして、角からわずかに顔を出し、声の主を確認した。

 案の定、だ。建物の影に大きな傘を立て、その下に西洋趣味の長脚の卓と同じく細かい彫り物を施された椅子を置き、グレーファスとマリッダが茶を飲んで談笑していた。

「危ないところだった……出ていったら捕まっていたな」

 フォルザーニーの実家は蒼宮殿より生き残り戦略に神経を使うところだ。

 二人の会話に耳を傾けた。

 グレーファスとマリッダは血のつながった実の母子だが、それ以上に次期当主と現当主第一夫人である。フォルザーニーの分家から当主の嫁として嫁いできたマリッダと、フォルザーニー家の跡取りとして育てられたグレーファスには、親子の情と同じか時としてそれより強く、家のことを取り仕切る仕事上の盟友としてのつながりがある。グラーイスは、この二人の会話と言えば、すなわち家の今後についての戦略会議のようなもの、と認識している。

 ここからだとはっきりとは聞き取れない。仕方なく、密かに角を出た。

 職人を呼んで植えさせた低木樹の小さな林の中に膝をつき、身を隠す。どうにか木々の間から二人の姿が見える辺りだ。声も聞こえてくる――と、思ったら、

「若様、奥様。切り分けましたメロンでございます」

 三人目の声が聞こえてきた。アイシャの声だ。

 顔を上げ、木と木の間から三人の方を見た。義母と異母兄のよく似た笑顔と、その二人の前に立っているアイシャの背中が見えた。アイシャの顔は分からない。

 マリッダが微笑んで言った。

「おや、アイシャ。ブルクゥは外したのですか」

 アイシャが「はい」と答えた。「そう」とマリッダが目を細める。

「申し訳ございません、不躾でしょうか」

「いいえ、とんでもない。私はマグナエでさえ家の中であればする必要はないと思っておりますよ。そうでしょう、グレーファス」

「はい、母上のおっしゃるとおり」

 グレーファスも穏やかな声で言った。

「フォルザーニー家は、女性を締めつけるような悪習は撤廃すべきであるとする家風だからね。貴女がもっと自由に働ける環境を欲しているというのならば僕も次期当主として家のあり方を考えなければならない」

「いいえ、不満などございません。こんなによくしていただいて、私はいつか天罰が下るのではないかと思うほどでございます」

 ところが、マリッダとグレーファスは同時に「とんでもない」と言った。

「天罰だなんてそのようなもの、その辺の下男に下らせなさい。お前のように若く美しい女はもっと堂々としているべきなのです」

「美しい女性はエスファーナの宝であり、アルヤの宝なのだから。そしてその美を保護し慈しむことこそ、この僕らフォルザーニー家の使命なのだからね」

 母上も兄上も、たまには良いことを言うものだ、とグラーイスは思った。

「ですが、ブルクゥがないと少々心もとなく思われます。けして皆様がたを信用していないというわけではありませんが、ただ……、顔を見られることは、恥ずかしいことです。あった方が、容貌に自信のない娘たちはきっと堂々と――」

「何を言うか! 貴女は貴女の美に謝罪すべきだ!」

「お前はもっと自らの容貌を自身で褒め称えるべきです! それとも鏡を持っていないのですか、ないのならば私が買い与えて差し上げましょう」

 母上も兄上も、フォルザーニー家の血が濃過ぎる、とグラーイスは思った。

「何はともあれ、アイシャ。お前がブルクゥを外したのは良いことです」

「はぁ」

「お前はまだ若く美しいのです、これから子とても産めましょう。なのに前の夫のことをずるずる引きずってブルクゥをつけているというのは、まったく勿体無いことです」

 そこで、グラーイスは目を丸くした。

「僕も母上と同じ考えだ。貴女は良い人を探してもう一度嫁ぐべきだろう。せっかくわざわざ離縁させてもらったのだからね」

 アイシャは今、独身なのだ。何某かのために夫と離縁して、夫の家を出てきてしまったのだ。

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