金星記 第3話 「お母さんは関係ないから!」
グラーイスが寝台の上で腹這いになり、以前実家で読んでいて途中のままだった本を広げていたところ、戸を叩く音が聞こえてきた。先ほどのアイシャだろう。
念のため、そのままの体勢で「どなたかな?」と問うた。案の定、戸の向こう側から若い女の声で「先ほどお目にかかりましたアイシャでございます」という答えが返ってきた。
「お食事をご用意してまいりました」
「どうぞ。勝手に入りたまえよ」
戸の開く音がした。
「調子はいかがですか」
上半身を起こして、入ってきたアイシャの様子を観察した。目元や声の感じは若々しく、盆を持つ手も白くて綺麗だ。
「悪くないね」
「お食事は食べやすいようさじで食べられる卵粥に鶏肉の汁物、野菜と果物の盛り合わせをご用意させました。それでも不自由がございますなら、お食事の介助もするよう仰せつかっておりますが」
言葉遣いは丁寧だ。訛りもない。声は高過ぎず、また低くもなく、落ち着いていて聞き心地が良かった。
そうと気づかれないようアイシャの体も眺める。平均的な若いアルヤ人女性の体型だ。少々痩せているようだが、胸の大きさが大き過ぎず小さ過ぎずで悪くない。
これは、良い暇潰しになるかもしれない。
「――いかがです? グラーイス坊ちゃま」
玻璃の杯に冷茶を注ぎつつ、アイシャが訊ね直した。グラーイスは聞いていなかったことを悟られないよう「体調は悪くないけれども」と答えた。
「一人でする食事は味気ない。ぜひとも貴女に傍にいていただきたい」
アイシャが「はぁ」と気のない返事をする。
「今日はこれからも忙しいのかな」
「いえ、奥様からは必要ならばグラーイス坊ちゃまの身の周りのお世話もするようにと承っておりますが……」
その言葉に何か引っ掛かるものを感じる。だが、気づかなかったふりをして「そう」と微笑む。
「それでは、僕と少しお喋りでもどうだい? 貴女が来てから僕の目が覚めた今日までの間に家のことがどうだったか聞かせてくれたら嬉しいんだけれども」
「かしこまりました」と言い、目を細めた。とりあえずは好感触のようだ。
グラーイスはわざと「お茶をくれるかな」と言ってアイシャが近づいてくるのを待った。アイシャが、グラーイスの望んだとおりに盆の上から玻璃の杯を取り、グラーイスの右手に持たせた。
「大丈夫ですか?」
「右腕はね」
杯を持ち上げて茶の香りを嗅いだ。
そこで、はっとした。
「どうかなさいましたか」
「どうして茉莉花茶を?」
普段広間で食事をする時には、部屋の中央に何種類もの飲み物が並べられる。珈琲、牛乳、水、果汁が林檎と橙の二種類、茶がラクータ産の紅茶と大華産の茉莉花茶、葡萄酒も赤と白の二種類と、食後にはソルベと呼ばれる砂糖氷まで用意される。だが、グラーイスは食事中には茉莉花茶以外に口をつけなかった。他が嫌いだというわけではなく、比較的どうでもいい好みなので、そこまでこだわっているわけではない。だからこそ、指示する前にいきなり茉莉花茶が出てきたのは初めてのことであった。
彼女は頷き、「はい」と応じた。
「お怪我をなさっているのでお体に良いものにしようか悩んだのですが、普段からお飲みになられているものがよろしいかと、こちらを持ってまいりました」
「よく僕が食事の時にはいつもこのお茶を飲んでいると知っていたね。匂いがあるし、グロリアスはものすごく嫌っているのだけれども」
「グラーイス坊ちゃまのお話はよく伺うので覚えておりましたよ」
「誰から!?」
小さく笑われてしまった。
「グレーファス様や、マリッダ奥様や、アミーナ奥様や、他の方々も含めて、皆様からです。このお屋敷の方は皆様たいへん深くグラーイス坊ちゃまを思っておいでですよ」
どいつもこいつもとんでもないことをべらべらと喋りそうだ。自分は彼女のことをほとんど何も知らないのに、悔しい。
しかし、それにしても――自分の表情の変化も読み取れる。不躾なことは言わない。物腰は丁寧だ。人の体を気遣うこともできる。家人の言った細かくてどうでもいいことも覚えていられるほどである、頭も悪くはなさそうだ。
さて、どうしようか――そう思った矢先に、
「いかがです? 坊ちゃま。熱くはございませんか?」
その言葉にまた引っ掛かるものを感じて、グラーイスは眉間に皺を寄せた。何かがおかしい。だが、何がだろう。
「あ、いけない」
突然アイシャが手を伸ばした。
「お服が汚れてしまわぬよう、かけておきましょうね」
膝の上に、食事に添えられていた薄桃色の布を、広げて置かれた。それは、手づかみで料理を食べることのあるアルヤでは、食事の後に手を拭くために使われるものだ。
「……あの」
ようやく分かった。
「アイシャ……、僕はもう、二十歳なのだけれども……」
膝の上に服を汚さないよう布をかけられるのは、小さな子供のされることだ。
アイシャが「あら嫌だ」と呟き、布をそそくさとしまった。
「申し訳ございません坊ちゃま、嫌だわ、私ったら」
これだ。彼女は自分の名前に『坊ちゃま』という言葉をつけている。
彼女は自分を、決定的に、絶対的に、完全に完璧に余すところなく、子供扱いしているのだ。
小さい頃から英才教育を受け、神童だ何だと騒がれて大人と同じ扱いをされてきたグラーイスにとっては、初めての屈辱だった。
「…………」
手を止め、悔しさでいっぱいの目で、アイシャを見つめた。アイシャが「申し訳ございません」と頭を下げた。
「小さな娘がいるもので、つい」
子持ちか、と心の中だけで舌打ちをしつつ、「娘さんはおいくつなんだい」と訊ねる。「三つも半分を超えたところです」と返ってくる。三歳半の子供と一緒にされたらしい。
「坊ちゃまと娘が、少々、似ておりまして……」
アイシャは自主的にグラーイスの沈黙の意味を悟り、ふたたび「ごめんなさい」と頭を下げてきた。
「申し訳ございません、本当に大変な無礼を」
「いや、別に構わないけれども……」
と口では言っているが、内心は荒れ狂っている。
「とりあえず、その、『坊ちゃま』というのを改めてもらうところから始めようか……」
アイシャが戸惑った様子で、「どうお呼びすれば」と訊ねてきた。今度は逆に、「兄上やグロルはどうしているの」と訊ね返した。「『若様』と『グロル坊ちゃま』ですが」と言われた。グロリアスは今十七歳だ。彼もさぞかし苦労していることだろう。
「単に『グライ』と呼べばいいと思うけれども――貴女の方がお子様である僕より年上であるようだし、呼び捨てにされても僕は気にしない」
嫌味半分で言ったら、彼女は深く恥じ入った様子で「恐れながら申し上げますと私は二十二です」と答えた。年の差はたったの二つだ。それでこんな扱いをされるとは、なんと理不尽なのだろう。
「で……では、グライ様?」
「その辺で落ち着くのが無難だね」
「申し訳ございませんでした……」
それでも最後まで諦めないのが、フォルザーニー家の男としての美徳だ。
「ねぇ、アイシャ?」
アイシャが慌てた様子で「はい」と答える。
「どうしてブルクゥを?」
アイシャが布に覆われた自分の口元に触れた。
「家の中なのだから、別に、ブルクゥどころかマグナエも、しなくてもいいのではないかな? 母上がたやハルーファはしないし、侍女たちもまちまちだろう。マグナエもブルクゥも、家族以外に顔や髪を見られてはならないからするものだったね。僕には、貴女のブルクゥはフォルザーニー家の人間は貴女にとって家族ではないと主張しているように見えるんだけれども、どうだい? 他人行儀じゃないか」
「私は、一度嫁いだ身ですから」
「でも、フォルザーニー家に戻ってきてくれたね」
グラーイスは微笑み、「僕は気にしないし、他の連中もしないと思うよ」と言った。
「それに、僕は、貴女の美しいであろうその顔を、ぜひとも拝見したいなぁ」
というより、それが最大の目的なのだが、今はまだ内緒だ。
「そこまでおっしゃるなら」とアイシャは頷いた。
「大して美しくはありませんけれども……」
白い手がブルクゥに伸びる。さらりと軽い音を立てて外される。
下から出てきた女性の面立ちは、穏やかに微笑んだ目に控えめな鼻、柔らかそうな薄紅色の唇の、声のとおりに優しそうな貴婦人だった。フォルザーニー家の美姫たちと比べるとさほど派手ではないが、エスファーナの市場を歩いている若い女性を捕まえて片っ端からブルクゥを外して並べたら、アイシャは美人に分類されるだろう。
やった、と心の中で拳を握った。美しい、身持ちの堅い若い貴婦人――これは、やりがいがありそうだ。
問題は、
「アミーナ様のような美人でなくて、ごめんなさいね」
「お母さんは関係ないから!」
そもそも男性として意識してくれなさそうな点だけだ。
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