金星記 第2話 「お腹減ったぁ」
目を覚ますと、窓掛けの向こうが明るかった。この部屋の窓はすべて南向きである、今はおそらく真昼間だろう。自分はいったいどれだけ眠っていたのか。
「お腹減ったぁ……」
こんな時、グラーイスは、なんだかんだ言って自分も健康な若い男なのだ、と思う。今は何よりも三大欲求を満たさねば済まない年なのだ。
ゆっくり上半身を起こして、床に転がっていた上靴を履く。気分は悪くない。ただ少し寝過ぎたのか頭にもやがかかっている。
部屋の外には、いつもの我が家の長い廊下があった。自分が幼かった頃と何も変わらない平和が漂っている。
こうして家の中を歩き回っている時、たまに、ふと、それもこれもすべて兄の力なのか、と思うことがある。
それに比べて蒼宮殿の荒れ模様と言ったら――とまで考えてから、思い直す。どうせ三日もしたらその荒れ放題の宮殿が恋しくなるのだ。
今が午前か午後かも正確には分からないが、この二十年で厨房に向かえばいつでも何か食べられるものにありつけることを学習していた。フォルザーニー家の息子である自分は、顔を見せて空腹を訴えれば、それだけでいい。途中で誰か下男下女に擦れ違ったらその者に頼んでもいいのだ。
ふと伸びをした拍子に、体がふらりと揺れた。
頭が壁に衝突した。
ごん、という、音がした。少しだけ、痛かった。
その場にしゃがみ込んだ時だった。
「グラーイス?」
女の声がしたので、しゃがんだまま、首だけ後ろに向けて声の主を確認した。
そこには凛としたたたずまいの長身の女が立っていた。
長い蜜色の髪を頭の後ろできつくまとめて団子にし、マグナエではなく薄く透ける更紗で軽く覆っている。瞳に宿った光も強く、白い手も綺麗で、彼女の実年齢をまったく感じさせない。
悪戯が見つかった子供の気分になった。肩を縮め込ませた。物心がついた頃からそうだ。彼女の前ではいつもそんな気分になってしまうのだ。
「母上……」
彼女こそ、フォルザーニー家現当主第一夫人マリッダだ。
彼女は、眉間に皺を寄せると、廊下の隅に座り込んだままの夫の次男に静かに近づいた。それから、「何をしているのです」と、抑えた声で問うた。緊張に脈を速めつつ、グラーイスは「お腹がすいて」と答えた。
「何か、食べるものを、と……」
マリッダが、溜息をついた。
「なぜ人を呼ばないのです」
「あう、はい、こんな恰好でうろうろしてごめんなさい」
「そうではありません。こんなところにしゃがみ込んで……調子がまだ優れないのでしょう」
白い手が伸び、グラーイスの何もついていない右頬を撫でる。
「可哀想に。こんなに白い顔で動き回ってはなりません。お前は体調が優れないのなら周りの者に命を下してその意思を実行に移すことを許されている人間なのです、それを行使なさい。お前はお前をないがしろにすることは許されていません」
グラーイスは、頬を撫でられたまま、目を細めて、その呪文のような言葉を聞いた。
彼女はいつも、そうだ。何かあるごとに子供たちに子ら自身の絶対的な価値を説く。だからフォルザーニー家の子供たちは自分の価値を信じて疑わないのだ。
グラーイスの父であるフォルザーニー家当主には、妻が三人いる。一人目は、今目の前にいる貴婦人、フォルザーニー家の分家の出身であるマリッダ。二人目は、グラーイスの産みの母、フォルザーニー家同様の大貴族の家の一つであるデヘカーン家から嫁いできたアミーナ。三人目は、唯一の平民出身だが、十数年ほど前にはエスファーナの下町で『エスファーナ一の美女』と謳われていたサレマである。
驚いたことに、この三人の妻たちは仲が良い。夫の寵愛を巡って争ったりひがみ合ったり妬み合ったりなどせず、彼女らなりにうまくやっている。喧嘩をしているところなど、少なくともグラーイスは見たことがなかった。
本人たちが意識してやっていることではないのだろうが、子供たちの目からすると、彼女らは完璧に役割分担をして暮らしているように見えた。
マリッダは子供たちのしつけを担っている。彼女はすべての子供に厳しい教育を施し、完璧な『フォルザーニー家の子』を育て上げてきた。
マリッダの仕事が叱ることなら、アミーナの仕事は褒めること、甘やかすことだ。泣いていれば抱き締めて慰め、笑っていれば一緒になってはしゃぐ。家の外でどれだけ傷つけられても、彼女は自分がとても大事なものであることを分からせてくれるのだ。
サレマは他二人とは異なり、ただ、そこにいる。そこにいて、微笑んでいる。誰も拒まない。何も言わずに、静かに、抱き締めてくれる。グラーイスは時々彼女に聖母の姿を見る。
マリッダは、グラーイスの金髪を撫でると、「美しい子」と呟いた。
「なんということでしょう。この子の美しい顔に傷をつけるとは美を解さぬ野蛮なやからもいたものです。お前も風流というものを知っているのならばこの屋敷で我が身を守ったらどうです? お前は我が家の最高傑作なのです、大切にされねばなりません」
この母にしてあの子あり、だ。兄の顔を思い出した。サレマのところに逃げた方が良いかもしれない。
「さあ、こんなところにしゃがみ込んでいては体が冷えます、立てるのであればお立ちなさい。特にお手洗いなどに用がないのであれば部屋にお戻りなさい」
言われて、グラーイスは立ち上がった。逆らえない。部屋に帰ろうと思った。少し立ちくらみはするが歩けないほどではない。
「部屋までついて参りましょう」
マリッダがグラーイスの手首をつかんだ。
グラーイスが今来た方へと一歩を踏み出した時、マリッダが「アイシャ」と、自らの斜め後ろに向かって声をかけた。
マリッダが声をかけた方に目を向けた。
気がつかなかった。マリッダの斜め後ろに、女官衣装の女性がいた。
頭の先から靴の手前まで、目と手以外のすべてが布で覆われている。口元もブルクゥと呼ばれる布で隠していた。蒼宮殿の女官服にマグナエだけの女官に目が慣れていたので、これはこれで新鮮だ。
ブルクゥで顔まで覆うのは、アルヤでは基本的には既婚女性だ。
「グラーイスに特別に食事を用意するよう厨房に言ってきなさい。でき上がり次第この子の部屋に運ぶのです。部屋は分かりますね?」
彼女――アイシャは、ブルクゥ越しだからか少しくぐもって聞こえる「はい」の言葉のあと、ちらりとグラーイスの方を見た。
目が合った瞬間、目元だけで――と言うかそれしか見えないのだが――にこりと微笑んだ。
そうして、くるりと踵を返し、グラーイスが先ほどまで目指していた方へと歩き出した。
マリッダが「行きますよ」と言った。
マリッダの方を向き、一歩を踏み出しつつ、「彼女は」と訊ねた。グラーイスには聞き覚えのない名前だったのだ。
「知りませんか」
マリッダは一度瞬いたが、「そう言えば以前アイシャがいた時お前は西方留学中でしたね」とひとり頷く。
「以前、お前が西方大陸にいる間、一年ほど我が家に奉公に来ていた者ですよ。それが先月の半ばに戻ってきたのです」
「へぇ」
「アマーティー家の娘で、ガーフナーン家に嫁いだのですが、ガーフナーン家は我がフォルザーニー家ほどでないにしても古い家ですから、嫁ぐ前に作法をと」
普通、女性は結婚したら家に入り二度と出てこないものだ。
「それで、戻ってきた、というのは?」
マリッダは、「ここまでが以前のアイシャと我々フォルザーニー家の最初のつながりについてで私がお前に説明できることのすべてです」と跳ね除けた。
「女性の事情を深く詮索するのはあまり感心しませんね。興味があるならばアイシャ本人にお聞きなさい」
「……はぁーい」
あとで食事を持ってきてくれるそうだし、その時にでも――そう思いつつ、グラーイスは自分の部屋の戸を開けた。
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