金星記(ナジュム編)

金星記 第1話 「おっぱい……」

 グラーイス=ナジュム・フォルザーニーは、額に冷たいものが触れたのを感じて、はっきりと目を開けた。

 大きなはしばみ色の瞳をした少女が、グラーイスの体の上に腹ばいになって顔を覗き込んでいた。

 長い睫毛が震えている。柔らかい金の髪はグラーイスの胸へと垂れている。白い指先はグラーイスの額や頬をそっと撫でていた。

「大丈夫? 痛い?」

 そう問う声は甘く優しい。

「お熱はないけど、顔色は良くないわ……」

 少女の表情が曇った。長い睫毛が白い頬に影を落とす。白い着物の袖から華奢な手首が見える。

 あまりにも美しく儚げな彼女の容貌を眺めて、グラーイスは、思い切り顔をしかめた。

「ぜんぜん大丈夫じゃないです」

「あらら」

「重いです死にます母さんに殺される!」

「あららら!?」

「退いてください今すぐ!」

 少女――のように若く作った中年女が、鼻にかかった甘い声で「いやぁんっ」と叫んだ。グラーイスも「何をお考えですかこのあんぽんたん!」と叫んだ。

「そんなに恥ずかしがらないのよっ。ママが添い寝したげるわっ、きっとすぐ良く――」

「なるわけないでしょうが! 息子が可愛いなら今すぐ出ていってください、もう一生目覚めたくなくなりますぅ!」

「やぁんっ、やぁんっ、坊やのいけずぅっ」

「あなたねぇもう次で四十ですよ四十、その辺も分かった上でそんな言動なんです? あとね、もう四十になるんですからそんな若い子ぶった柄の大きい服なんか着ないでくださいよ恥ずかしい、四十のくせに!」

「四十四十言わないでよぅ、ママは永遠に嫁いできた日の十五のままなのよぅ」

 扉へ向かって大きな声で、「誰かーっ、アミーナ夫人がまたお騒ぎだ、お部屋にお戻ししろーっ」と呼びかけた。グラーイスの実母でありフォルザーニー家現当主の第二夫人であるアミーナは、首を大きく横に振った。

「もぉーっ、どぉして坊やはそぉなのーっ? ママのことが嫌いになっちゃったのぉーっ?」

「だからね母さん、僕ももう二十歳なんですよ二十歳! 坊やという年頃ではないわけです」

「宮殿ではお小姓を名乗ってるくせにぃ」

「そういうところはあなたに似てしまったんですぅ」

 グラーイスの腹の上から降りつつ、アミーナが「あぁー、分かったぁ~っ」と手を叩く。

「坊やったらぁ、照れてるんでしょー。久しぶりにママと一緒にのんびりできてぇ、照れちゃってるんでしょおー。坊やったらぁ、かぁいい子~っ」

「何なんだその超前向きな発想は」

 もちろん同僚たちが蒼宮殿でまったく同じ発言を日々繰り返しているわけだが、自分のことは棚に上げられるのがグラーイスだ。

「今日こそひっさしぶりにママが坊やをお風呂に入れたげるねっ。ママとおんなじ綺麗な金髪、きれいきれいしてあげましょおねーっ」

 母の手がグラーイスの髪を撫でる。そう言えば、彼女は娘を二人と息子を一人産んだが、彼女の白金の髪を受け継いでいるのは息子だけだった――とか何とか考えているうちに、彼女が「久しぶりにママのおっぱいが欲しくなっちゃったらそぉ言ってもいいのよ~?」などと言い出す。

「おっぱい……」

「いいのよぅ、ママ、まだぜんぜん垂れてなんかないんだからっ。ぷるぷるよ、ぷるぷるっ」

「聞いてない!」

「ママの坊やはどぉ? ちょっとは大人になったの? ママに見せてごらんなさいよぅ」

「わーっ、性的虐待だぁあぁっ」

 その時だ。

 大きな、ばん、という音を立てて扉が開いた。

「グラーイス!?」

 入ってきたのは美しい青年だ。遠い西方大陸に伝わる神話の太陽神のような美男子である。緩やかな弧を描いている髪は瞳よりも少し濃い蜜色をしている。

 アミーナが顔を上げ、不機嫌そうに口を尖らせて「あら」と言った。

 グラーイスは、もう眠れないことを悟って上半身を起こした。

「兄上」

 相手は、フォルザーニー家長男にして次期フォルザーニー家当主、現時点でもうすでに父を押し退けてフォルザーニー家を仕切っている男、グレーファス=ハーディ・フォルザーニーなのだ。

 グレーファスは、アミーナの姿を見つけると、「ご機嫌ようお母さん」と微笑んだ。アミーナは一度頬を膨らませたあと、「ご機嫌よう」と答えた。

「だめでしょう、お母さん。グラーイスの目が覚めて嬉しいのも分かります。でもまだ傷を負ってからそう経っていない。たとえ起きていてもまたゆっくり眠れるようそっとしておくべきです」

 兄のせいでよりいっそう眠りから遠ざかったと主張したいグラーイスの気持ちも考えず、母が「そぉねぇ」と頷く。

「もぉ寝てる間にいろいろしたしねぇ……」

「おいこら僕に何をしたこの妖怪若作り」

「さ、お母さん。また夕飯の頃に戻ってくることにして、今のところはもうお部屋にお戻りなさい」

 しっかり者の長男に笑顔で言われて、彼女は「はぁい」と答えた。彼女もグラーイス同様この息子とその母親には逆らえないのだ。

 アミーナは、部屋を出ていく際に振り向き、「グレフくんは?」と訊ねた。アミーナと擦れ違うようにしてグラーイスに近付いてきたグレーファスが、「大丈夫ですよ」と微笑んだ。

「グライは僕のことは大好きなのできっと癒されるかと」

「うん、そうかも。お兄ちゃんっこだものね~」

「ちょっと待て」

「では母さん、また後で」

「うん、グレフくん、またお夕飯でー。ばいばーい」

「ええぇええ」

 アミーナが完全に部屋から出た。室内にグレーファスとグラーイスだけが残された。

 グレーファスが微笑んだ。背筋に悪寒が走った。

「調子はどうだい」

 グレーファスの手が頭を撫で始める。グラーイスは撫でられたまま、斜め下を見て「寝起きにいろいろあったせいか気分が悪いです……」と答えた。

「そう、それは良くない、ゆっくり休まないとね」

「ええ、もう本当にゆっくり休みたいんですけれどもね」

「兄が見ていてあげるからお眠り。この世のすべてからお前を守ってあげるよ」

「本気で勘弁してください」

 「まったく」とグレーファスが溜息をつく。

「話の大体のところは聞いたよ。お前も相当な無茶をしたものだね、ライルくんは筋金入りの戦闘民族なのだから放って逃げればよかったものを」

 それができたら苦労はないのだが、とは、言わなかった。ライルを守らなければと思うと反射的に行動してしまうのだ。しかしそんなことを言おうものならもう二度と宮殿に帰してくれない気がする。

 大きな手が、グラーイスの形の良い顎を取る。強引に顔を上げさせる。

「僕の目を見なさい、グラーイス」

「兄上……」

「だめだと言ったろう? お前の美しい顔に傷をつけるな」

 言葉が吐き出されるたび、頬に吐息がかかる。

「こんなにぼろぼろにして……! 我が家の最高傑作であるお前をあんな危ないところに放り込んでいたなんて、僕はどうかしていたに違いない」

「兄上……大丈夫ですよ。大袈裟です」

 グラーイスがグレーファスの手を握る。だが、その程度のことで頑固な兄が頷いてくれるわけがない。

「ライルくんが斬ってしまったそうだね。残念だよ。死んだ方がマシだと思えるくらいの苦痛を味わわせてやったのに」

 グラーイスは『蒼き太陽』や冷血宰相よりもこの兄が怖い。彼なら確実にやるだろう。過去に実際にやったこともある。彼は弟のためなら一人や二人拷問にかけても何とも思わないのだ。

「可哀想に……痛かったろう、僕の可愛いグライ。もう家から出さないからね」

「ええ……僕はお外の空気を吸わないと死んでしまう呪いにかかっているのですけれども……」

「元気になったら考えてあげよう。とにかく、今はゆっくり休むんだよ」

 強く抱き締められた。兄の香りがした。それに少しだけほっとする。結局のところ自分も兄の腕の中にいることに安堵するのだ。自分は一生兄にこうやって過保護にされる宿命にあるのだろう。

「はい、兄上……」

 それだけで、眠くなるほどの安心を覚える。

「眠い……」

 言いつつ、体重を後ろの方に移した。グレーファスは、少しずつ弟の体を倒していき、やがてそっと寝台に寝かせてくれた。

「仕方ないね。少し果物でも食べて、医者の置いていった薬を飲んでほしかったのだけれども」

 掛け布団をかけられた。いろんなことがどうでもよくなった。大人しく胸を撫でられた。

「そうそう、グラーイス」

 グレーファスがグラーイスの金髪を指に巻きながら言う。

「やっぱりアミーナ母さんはお前の生みの親なんだね。お前の意識のない間、本当にずっとここにいたんだ。お前が運ばれてきた時は取り乱してずいぶん泣いておいでだったよ」

 その光景は、何となく、想像できた。彼女はいつもそうだ。自分の実子、特に最後に産んだ息子のことは、誰よりも何よりもいとおしくて仕方がない。度が過ぎるので鬱陶しく思うが、それでも、怪我をした瞬間にまず彼女の顔を思い浮かべたのも事実だ。

「兄上が怪我をしても、マリッダ母上は同じようにすると思いますが」

「どうだろうね。心配はしてくれると思うけれど、ああやって取り乱しはしてくれないと思うから、少し羨ましい」

 それも、確かだろう。グレーファスの実母であるマリッダは、強過ぎる。彼女はフォルザーニー家当主の妻として完璧だ。他者にそのような姿を晒すことはない。そしてそれは息子にも遺伝している。グレーファスも動揺している姿は見せない。その点自分は母親に似て能天気に育ったものだ。

「でも、」

 グレーファスが、グラーイスの長くなった前髪を掻き分け、出てきた額に口づけをした。

「僕も、お前が怪我をしたと聞いた時は、一瞬気が動転したよ」

 知っている。思わず一番近しい従者に拉致してこいと言ったくらいだ。

「こうして、生きて五体満足で戻ってきてくれて、嬉しい」

 「愛しているよ」と、耳元で囁かれた。

「グライ――僕の可愛い弟。……おやすみ」

 そっと、目を閉じた。実家だと、どうしてか、安心し切って寝てしまう。油断は大敵だと思うが、一度目を閉じてしまったら、もう、だめだ。

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