白日記 第17話 エピローグ

「――で、結局辞表は受理されなかった。とは言え、やっぱり翌日から普通に働くとまではいかなくて、また勤務するまで一週間くらい家に引きこもったし、働き出しても結構長い間何もできないままでいたけど……、殿下がた、特にハヴァース殿下が、ね。約束してくださったとおりに、一生懸命埋め合わせようとしてくださったから……ね」

 「こんなものかな」と言い、ラシードは語るのをやめた。

 顔を上げ、「長い話でごめ――」とまで言いかけて、「ライル?」と眉間に皺を寄せた。

「あの……、何も君が泣くことはないと思うんだけど」

「泣いてなどいないっ!」

 ライルがそう言いつつ鼻をすする。ラシードはそんな彼から目を逸らしながら「ではそういうことにします」と応じた。

「お前は、つらく、なかった、のか? すぐに宮殿に戻って」

 なぜか動揺している様子だ。少し心配だったが、とにかく嘘はつかない方が良いだろうと思いそのまま答えた。

「いや、さっきも言ったけど、一年くらいは『白軍の長』としての仕事はしなかったよ。『白将軍』としての最低限のこと、たとえば陛下や殿下のご公務の際にはお傍にお控えするとか、ハヴァース殿下の監視――じゃなかった護衛とか、くらいかな。大して役には立たなかったけどね。本当にいただけだった」

「まあ……、アルヤの将軍は神剣を持って立っているだけで一般人にはその背中から後光が見えてくるらしいからな」

「後光かあ。なんか他の将軍の顔を思い出したら泣けてきた」

 今度は、「再婚はしないのか?」と訊かれた。あまりにも身に染みる質問に一度たじろいだ後、「僕のところに嫁ぎたいと言ってくれる女性が……」と小さな声で答えるはめになった。「すまなかった」とライルが顔を背けた。

「今は、つらくないのか?」

「大丈夫だよ。こうして話せるくらいには」

「そう、か……?」

「もう、七年になるし、ね。あまり悲しんでばかりいても、ナディアや娘が向こうで心配するといけないから」

 「それに」と、笑みを浮かべる。

「それから一年後に、いつまでも喪に服していても仕方ないと思えるような事件が起こったんだ。それが僕にとっても一つの転機だったんだけど……、何だと思う?」

「え? 一年後? 六年前か?」

 ライルが「何だ?」と首を傾げた。「分からないかな」とラシードはからかうように応じた。

「また反王政派が?」

「エザフ学長の投降で完全に沈静化しましたよ」

「ハー兄とセータ兄がまた何かをやらかしたとか」

「そんなものは日常茶飯事過ぎて計算に入れていません」

「え、何だ? 思いつかない」

 回廊の奥から声が聞こえてきた。

「ラーイルっ!」

 歌うようにライルの名前を呼んでいる。

「隠れてなーいで出ておいでっ!」

 ライルが「あの野郎」と呟いた。ラシードは思わず声を上げて笑ってしまった。

「僕が慰めてあげるから光栄に思って出てきたまえー! お夕飯ですよー、今夜は君の大好きな羊肉のポロウですよー」

「ほら、ナジュムが迎えに来たよ。戻ってお食事を」

 ライルが渋い表情で「何が、慰めてあげる、だ」と言いながら立ち上がった。それから、「ラシードは」と訊ねてきた。ラシードも、「そうだなぁ」と言って立ち上がる。

「勤務時間はもう終わったので、僕も家に帰って夕飯です」

「そうか、よかったな」

「本当にね。深夜にもう一度出勤しなくてもいいように陛下とナジュムの見張りをよろしく頼みます」

「……努力する」

 とうとう見つかったらしい。回廊の方からナジュムの「あ、発見」と言う声が聞こえてきたので、二人は揃って振り向いた。すぐそこにナジュムがいつもの能天気な笑みを浮かべて立っていた。

「まったく、ずいぶんと仲良しなんだね。僕もまぜてくれればいいのに」

 ナジュムが「ラシードに愚痴を聞いてもらっていたのかい?」と問うてくる。ライルはそれに「うるさい」と返しながら回廊の方へ上がった。

「ラシード」

 名前を呼ばれたので、脇に置いていた通常使用の何の変哲もない長剣を拾い上げつつ、「はい?」と答えた。

 ライルは、恥ずかしそうな、少し照れた様子で「その」と小さな声で告げた。

「話してくれて……、ありが、とう」

 ラシードは、目を細めてライルを眺めたあと、敬礼した。ライルもそれに敬礼で応じた。

「あとっ、例の話はくれぐれも内密に!」

 シャムシャとルムアが知っているのにこれ以上誰に知られたくないのだろう、と思ったが、一応「分かっているから」と答えた。すぐさまナジュムが「何がだい? 君が童貞だという話かい?」と言ってきた。何もかもが台無しだ。ライルの頬が引きつる。

「ではラシード、また明日ー!」

「ナジュムはあまり失礼なことを申し上げないように!」

 ライルとナジュムが何やら騒ぎつつ回廊の奥へ消えていく。ラシードはそんな二人の背中を微笑ましく思いながら見送ったあと、もう一度敬礼して「ライル殿下に置かれましても、お変わりがなくて何よりです」と呟いた。

 そうして、北の塔を見上げた。

 今頃、あの方のところにも食事が運ばれているのだろうか。

 自分の大切な、至上の王のもとにも。

 心だけは、今でもずっとハヴァースのための白将軍だ。

「貴方様の妹君は、自分が必ずや守り通しますゆえ」

 それが、今の自分にできる最後のことだ。

 もし今もナディアが生きていたとしたら、彼女は今のこの状況について何と言ってくれただろうか。

 一人で首を横に振った。

 過去にもしは禁物だ。

 何より、過去に死んだ女性にいつまでもすがってしまっていたら、今いるあの娘に失礼ではないか。

「まったく……、女の子はいつ大人になるのかな」

 ラシードは溜息をつきつつ、帰り支度をするために自分の執務室の方へと向かった。


「なぁ、ナジュム?」

 いくら考えても答えが出ないので、ライルは隣を歩くナジュムに改めて声をかけた。ナジュムがすっとんきょうな声で「何だい?」と応じる。

「六年前、蒼宮殿でも何かあったのか?」

「六年前、蒼宮殿で『も』? 何かあったのかい?」

「いや、ラシードが、な? 六年前、ラシードが考え方を変えるような事件が発生した、と言っていたんだが……何があったのかと」

 ナジュムは一瞬目を丸くした。それから大きく頷き、「ああそう」と呟いた。

「分からないのかい? 忘れてしまったのかな」

 ライルも驚いて目を丸くした。つい、「俺も関与しているのか?」と訊ね返してしまった。

 大きな声を上げて笑い出した。

「よーく考えて――思い出してみたまえよ」

 また首を傾げたライルに、ナジュムが「君だよ君」と答えを提示する。

「君が蒼宮殿に来たんだよ。六年前には他には何にもない!」

 ライルは一度黙った。しばらく考え込み、ややしてから頬を真っ赤に染めた。

「俺はまたそんな大それたことを……」

「お、また難しい形容詞を使うようになったね、六年前君にアルヤ語を教えるはめになった僕としては嬉しいよ」

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