白日記 第16話 僕の王様
走って玄関に戻り、ハヴァース殿下とまっすぐ向き合って、辞表をお渡しした。殿下は怪訝そうな顔でそれをお受け取りになり、広げなさった。
「……何だい、これ」
「辞表です」
目を丸くなさった。
「え……え? どういうことだ」
「辞任したく存じます」
思えば、ハヴァース殿下にはっきり自分の意志を申し上げたのは、これが初めてのことだった。僕はいつだって殿下のおっしゃることには異議を申し立てずに黙って付き従っていたものだ。
これが、最初で最後だ。
「辞めさせてください」
目を真ん丸になさったまま、「なぜ」と呟くようにおっしゃる。
「どうして急に……」
「僕にはもう戦えません」
「何かあったのか」
「私的なことで、恐縮ですが……」
こんなことを申し上げたら、怒られるかな、と思った。将軍でありながら公私を混同していると言われてしまうかもしれない。できれば申し上げたくなかったし、実は辞表にも辞任の理由ははっきりと書かなかったんだけどね。
ハヴァース殿下が「言え」とおっしゃった。殿下がそうご命令なさるのなら、逆らえなかった。
「妻が死にました」
ハヴァース殿下は少しの間黙られた。ややして、「いつ、どうして」とお訊ねになられた。僕は、今度は素直にすぐお答えした。
「殿下がたとエザフ学長にお会いしていた時です。その前日から産気づいて苦しんでいたそうですが、長い間子が下りてこなかったために、出血と産みの苦しみに耐えられず」
「子供は」
「死産でした」
「エザフ先生とお会いした時、お前はそのことを知っていたのか?」
「はい」
そうお答えした瞬間涙が溢れた。
ナディアが死んでから初めて泣いた。初めて、すごく悲しくて悔しくてつらいのを認識した。
ナディアはすごく苦しんだだろうな。体力もないし、初めてのお産だったし、不安だらけだっただろうな。僕に近くにいてほしかったかもしれないな。大丈夫だよ、頑張れ、って言ってほしかったかもしれない。でも僕は戻らなかった。ナディアは僕に会うこともなく逝ってしまった。
子供も苦しかっただろうな。それから、とても寂しい思いをしているだろうな。生きてみたかったよな。僕も、抱き締めて愛しているよと言ってあげたかった。その時点では僕はあの子の性別さえ確認していなかった。
本当に僕も死のうと思ったのもこの瞬間だ。ナディアと子供と三人で過ごしたくなったんだ。それはきっととても幸せなことだろうと思ったんだ。
もうだめだ、と思った。僕はもうだめだ、戦えない。白将軍として生まれた僕にとって、戦えないということは生きていけないということだ。
あの日斬ったサータム人のことを思い出した。彼らも帝国に帰ったら家族がいただろう。彼らの両親は今すごく悲しんでいるだろう。
ナディアは、名も無き歩兵も斬れる人はきっと誰でも斬れるのだ、と言っていた。僕は、天罰が下ったのだと思った。
もう生きていけない。
「ラシード」
名前を呼ばれたので、一応「はい」と返事をしておいた。でも、もう、何かがだめだった。涙を拭うことさえしなかった。これから先の返事はすべていいえにしようと思った。
「どうして言わなかった」
肩をつかまれた。僕は、殴られるかな、と思った。でもそれもどうでもよくなっていたので、何も申し上げなかった。
「どうして今の今まで何も言わなかったんだ!?」
肩を揺すられた。それでも、僕は何も申し上げなかった。
「どうしてっ」
次の時、
「言ってくれなかったんだ……っ」
抱き締められた。
びっくりした。ぶん殴られると思っていたのに。
殿下の髪から、殿下のお母上であらせられる第一王妃様が使っておいでの乳香の香りがした。
僕は、知っている。
ハヴァース殿下は本当にしっかりしておいでで精神的にとてもお強い方なんだけど、当時はやはりまだ十代だ。とてもつらいことがあった時などは、人臣の前では笑ってお過ごしになられるが、後で王妃様のところへ出向かれる。王妃様に甘えて、慰めていただいて、とても長い時間をかけてご自分を立て直される。王妃様がいらっしゃったからこそあの重責の中でもご自分を保っていられたに違いない。
つまり、殿下から王妃様の香りがする時は、殿下の御心が大打撃を受けて一度沈んだ後なんだよね。それこそ食事さえ手につかなくなられるくらいのことがあった証拠なんだ。
「何かあったのですか」
お訊ねすると、「分からないのか」とおっしゃられた。
「セータは三時間だ」
「何がです」
「僕は今日まで待ったんだ。今日までお前を待っていてやったんだ。お前が自分から何か言ってきてくれるまで耐えようと思ってっ、ずっとずっと待っていたんだ」
今度は僕の方が目を丸くさせられた。
「どうして言ってくれなかった。僕はそんなに信用できないか? 僕はそんなに専制的でお前の話さえ聞けない男か」
「殿下……?」
「僕は……、僕は、知っていたよ。お前がどれほどナディアを愛していたか。お前がどれだけ我が子の誕生を待ち侘びていたか。それから、この一年半でお前がどれほど明るくなったことか。僕は子供が生まれたら本当に盛大に祝おうと思っていたんだ。ラシードをちゃんと笑えるようにしてくれたナディアに心からの礼を述べようと思っていたんだ」
「なのに」とおっしゃる声が震えている。
「お前から一番大事なものを取り上げるつもりはなかったんだ……!」
僕は、思った。
ああ、この人は、本当に良い王になろうとなさっているんだ。
「すまなかったラシード。許してくれとまでは言わない――言えない。けれど、図々しいようだが、お願いだから辞めないでくれ」
いいえ、とは、言えなかった。殿下の温もりが温かくて、逆らえなかった。
「戦ってくれなくてもいい。家にいても何もする気にならない時だけでもいい。宮殿にいてくれ。何もしなくていいんだ、いてくれればいいんだ。いつか、いつかきっと僕がやっぱり白将軍であれてよかったと思わせてみせるから」
そのお言葉が、その時の僕にとっては、すごく優しく聞こえた。
「お前以外のアルヤ国民全員が幸せになっても、お前一人が不幸なままだったら、僕も不幸だ」
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