白日記 第15話 辞表のおもみ
次の朝が来て、ハヴァース殿下とセターレス殿下がそれぞれ満足なさったご様子で「おやすみー」とおっしゃってお部屋に戻られた瞬間、僕は家に走った。もう我慢ならなかった。一刻も早く家に帰りたかった。早くナディアと子供に会って安心したかった。
辿り着いた我が家は静かだった。赤子の泣き声が響いていてもいいはずなのに、怖いくらいに静かだった。
家の中に入ると、玄関で三女のレティシアが僕を寝ないで待っていた。レティシアは僕の姿を見るや否や僕の手首をつかみ、「早くこちらに」とだけ言って引っ張った。
心臓は耳元にあるのかと思えるくらいに強く脈打っているのを感じた。
レティシアは僕を北の部屋に導いた。そこは普段は使われていない部屋だった。僕らの寝室ではない。どうしてこんなところに――訊けなかった。
怖かった。その衝立の向こうで何が待っているのか、知りたくなかった。
レティシアが衝立を退けた。僕はその向こうを見たくなかったのに。
部屋の中にはかすかに香が焚かれていた。薄暗い中に窓掛けと窓掛けの隙間から入る朝日の光が一筋だけ差し入っていた。
がらんとした何もない部屋の中央に、寝台が置かれていた。白い敷布がぴんと張られていた。
そしてその上に、顔も含めた全身に布を掛けられた誰かが横たわっていた。
凹凸でそれが女性であることを認識した。
布から亜麻色の髪がはみ出て白い敷布の上に広がっていた。
泣き声が聞こえてきたので振り向くと、母と一番上の妹がそこに座り込んで泣いていた。
何が何だか、理解できなかった。
布をつかんで引いた。
ナディアの白い顔が出てきた。
ナディアはもともと色白だったけど、その時は唇まで青白くて、何か異様な空気が漂っていた。まるで人形のようで不気味だった。まるで、生きているものではないかの、ようだった。
「ナディア……?」
ナディアのすぐ左、僕から見て右に、もう一つ小さな山があるのに気づいた。それにも布が掛けられていたので、それもそっと取り去った。
布の下から出てきたのは、ナディアがいつか縫っていた、我が家の色である白地にナディアの実家の色である緑の糸で刺繍をした産着に包まれている赤ん坊だった。なんか、青黒かったような気がする。薄暗かったからはっきりとはしないけどね。
生まれたばかりの赤ん坊なら、じっとはしていられないものだと思っていたんだけど、その子はぴくりともしなかった。なんだか、不気味だった。
でも、そうしてあげないと、と思って、抱き上げた。
冷たかった。
「……母さん」
赤子を抱いたまま、振り向いた。それから、ずっとナディアについていたはずの母にそう尋ねた。
「何が、どうなったの?」
母が自分の口元を押さえながら泣き崩れた。妹は自分の涙を拭うことなく母の肩に手を置いた。
「ナディアは本当に、本当に頑張ったのですよ」
自分で訊ねておきながら、その先を聞きたくなかった。
「最期まで、最期の最期まで、お前に会いたがっていましたよ」
ごめん、その後はちょっと記憶が曖昧だ。
二、三日くらいだったと思うけど、僕はしばらく何にも考えずに家の自分の部屋に引きこもって寝ていた――と思う。何も考えたくなかったし、目の前で何が起こっていたのか認識したくなかったから、布団の上で目を閉じてぼーっとしていたんだ。そうすると、いつの間にか寝ている。それの繰り返し。
何にも考えたくなかった。
その間のことで僕が憶えていることは二つだけだ。
翌朝、母に「仕事は?」と訊かれて、「行かない」と答えたこと。
いつのことははっきりしないけど、いつか、たぶん夕方辺りに、母に「せめて食事だけは取ってちょうだい」と言われて、「面倒臭い」と答えたこと。
本当に、憶えていないんだよね。
だいたい僕は乾いた血で褐色になっている軍服で帰ってきたというのに、いつ着替えたんだろうね。母さんが着替えさせてくれたのかな。
もちろんナディアと赤ん坊の遺体も放っておいた。アルヤは乾燥しているからなかなか腐らないんだよね、助かった。母や妹たちがまめに香を焚き世話をしてくれていたそうなんだけど、僕は知らない。母が言うには何度も様子を見に行っては死んでいることを認めたくなかったのかすぐに自分の部屋に逃げ帰っていたそうだけど、馬鹿だね、僕の部屋ってつまりナディアと二人で使っていた寝室だよ。
仕事に行く気にはなれなかった。
僕はもう二度と戦えないと思った。
白将軍はその立場上守護神という代名詞をよく用いられるけど、守護神である僕はいったい何を守っているのだろう。ナディアも子供もいないのに、僕はいったい何のために戦うというのか。
僕個人を愛してくれるナディアがいなくなったら、僕にはもう白将軍としての僕しか残っていない。けれど戦う気も――白将軍としてやっていく気も失せたら、僕には存在価値がなかった。生きていること自体が無駄であるような気になった。
生きていく気が失せた。死のう。
少しずつものを考えられるようになってまず認識したのがそれ。
三日目か四日目、もしかしたら五日目かもしれないある夜明けに、いい加減何かしようかなと思ってまず初めにしたことは、辞表を書くことだった。
辞表と言っても、遺書みたいなものだ。
白将軍に限らず将軍というのは、この国では、文字どおりの終身雇用制だ。特に王のために死ぬことを義務付けられた白将軍にとって辞表は重い意味を持つ。
書きながら、僕は、何もかもを捨ててナディアのところに行きたい、と考えていた。それしか考えられなかった。
今日は朝のうちに宮殿に辞表を出しに行って午後にナディアの葬式を出し、夜に改めて僕もナディアと子供と一緒に葬ってもらえるよう遺言状を書こう。それから一晩かけてゆっくり片づけ、夜が明けたら宮殿に白い神剣を返しに行こう。そうしたら後はもう死ぬだけだ。
僕が自主的に部屋を出て、「母さん」と声をかけると、母は泣いて喜んでくれた。が、次に僕が「僕の軍服は? ちょっと宮殿に上がろうと思うんだけど」と言ったら、彼女は険しい顔つきをした。
「いいのですよ、もう少しお休みなさい。お前にはまだ休息が必要です」
僕は苦笑した。白将軍としての生き方しか提供してくれなかった親が不思議なことを言うなあ、と思ったっけね。
「いや、すぐに帰ってくるつもりだよ。陛下や副長に挨拶をしたらすぐに下がる。ナディアと子供を葬ってやらないといけないから」
母は僕を抱き締めてまた泣いた。この人にそうして抱き締められたのはどれくらいぶりだったかな。
これももう最後だ。
と、思ったのに。
玄関の方から妹たちの甲高い声が聞こえてきた。珍しいことだった。うちの大人しい妹たちが大騒ぎをしている。
「あら、どうしたのかしら。お客様かしら」
母が顔を上げ、涙を拭いつつ、驚いた声でそう言った。僕も、不思議に思ったのも半分、可愛がってきた妹たちとの最後の会話をしたいのも半分で、「僕が様子を見てくるよ」と言って母から離れた。
玄関に行き、そこに広がっていた光景を見た時、僕は絶句した。驚愕した。本当に、本気で腰を抜かすかと思った。
玄関で、一番上の妹と、こともあろうかハヴァース王子が、口論をしていたからだ。
何から手をつけたらいいのか分からなかった。とりあえず妹を黙らせるべきなのか、上の妹の隣に立って王子を睨みつけている他の妹たちを下がらせるべきなのか、ハヴァース王子を玄関に立たせっぱなしにしておくなんてとんでもない、家に上がっていただくべきなのか、と言うかそもそもなぜ王子がここにいらっしゃるのか――頭の中が真っ白になった。
「あ、いた」
ハヴァース殿下が僕に気づかれ、こちらをお向きになった。あまり気づいていただきたくなかった。
「ラシード、お前にはまず妹たちを教育し直す必要がありそうだ」
一応微笑んでいらしたが、その頬は引きつっている。
「前代未聞だ。僕はひとの家を訪ねて入るなと言われたことなどいまだかつてない、今日が正真正銘生まれて初めてだ。ましてや若い女性にこうもあからさまに嫌そうな顔をされるなど」
長女が毅然とした態度で「入っていただきたくなかったからです」と答えた。次女、三女、まだ十歳の末っ子まで、同じような態度で「姉様の言うとおりです」と唱和した。
「僕はねラシード、ずっと不思議に思っていたんだよ。君の妹たちは皆ご母堂に似て綺麗な顔をしている、しかもよく教育されていてしっかりしているし剣や馬も習わせるから体も丈夫だ。なのにどうして世のアルヤ貴族は口を揃えて『メフラザーディー家から嫁は貰うな』と言うのかと。今分かった。無理です!」
残念ながら、一番目はフォルザーニーの分家に、二番目は白軍の若くして出世した僕の直属の部下に嫁ぎました。あ、三番目のレティシアは余っているよ、欲しかったらあげる。いいからいいから遠慮しないで。
「殿下が兄上とお話をなさりたいとおっしゃるので、私は殿下には今の兄上にお会いしていただきたくありませんと申し上げました次第です」
一番上の妹が、ハヴァース殿下を押し退けるようにして言う。僕はやっぱり、余計なことを、と思った。
「実は、僕はこれから宮殿に上がろうと思っていたんだ。殿下ともお話しさせていただきたいと思っていた」
妹たちが顔を見合わせた。みんなそれぞれ顔にまずい、やってしまった、これは後で怒られるぞ、と書いていた。まぁ、可愛い妹たちだよ。
「し……失礼致しました。ごめんあそばせ」
一番上の妹は、そう申し上げると、顔だけは涼しげな表情のまま、服の裾を摘まんで早足で逃げ出した。下の妹たちも、「それでは私も」「ご機嫌よう」と言って姉に続いた。ハヴァース殿下が引きつった笑顔で、「僕は寛大だから気にしませんよ」とおっしゃる。僕は溜息をついた。
「お入りください殿下。妹たちに茶を用意させます」
「もうここでいいよ。ラシードもどうして僕がここにいるのか分かっているだろうし、午後に予定があるから長い話は宮殿でしたい」
そうか、殿下は僕を連れ戻しにおいでになったのだ。僕が宮殿に戻ることを前提にお話しなさっているのだ。
僕は苦笑して、「少々お待ちください」と申し上げ、自分の部屋に走った。殿下はきょとんとした目でそれを見送ってくださった。
机の上の辞表をつかんだ。
僕の王はこの方なのだから、辞表はこの方にお渡しすべきなんだ。
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