白日記 第14話 すぐそこに見えたはずの未来
いつの間にか真っ白になってしまった髪をターバンに包んだ、痩身の壮年男性――エスファーナ大学のエザフ学長がやって来たのは、それからすぐのことだった。
彼は二、三人の学生を伴って部屋に入り、王子お二人に向かって略礼をした。
「お久しぶりです、エザフ先生。やはり西洋政治哲学の研究の第一人者であるあなたでしたか」
エザフ学長は溜息をついた。
「お父上はおいででないのか」
「はい。私が参りました」
「御年十七の王子にお相手願うことになろうとはな」
そのしわがれた声が悲痛な叫びに聞こえる。
「殿下はこの国が西洋諸国にどう評されているのかご存知か」
「お聞かせ願えますか」
「得体の知れない無能な魔術師が玉座に座り、政治は軍人がやっている。貴族はラクータ帝国にぺこぺこ頭を下げて私腹を肥やし、庶民はからからに渇いた大地にしがみついていて国中にいる馬の一頭も養えない」
「悔しいとはお思いにならぬか」と申し上げ、表情を歪めた。
「奴らはアルヤ王国を専制国家だと思っておる。私が五十年愛し続けた花の都を砂漠と一緒だと思っておる」
ハヴァース殿下が「先生」と苦笑なさった。
「ですがアルヤが王の絶対的な権限のもと非民主的な政治を展開しているのも事実」
「いかにも」
「しかしここで一つお聞きしたい」
エザフ学長の眉間に寄った皺が深まった。
それでも、ハヴァース殿下のお姿は堂々としていてご立派なものだった。
「もし父上が退位なさってその後を誰も継がぬとなった時、誰がどのように国をまとめますか。議会から代表者を選びますか? 議会は王と姻戚関係にある貴族で構成されています。民衆に普通選挙で選んでもらいますか? 一般民衆のほとんどは読み書きができません、学のない彼らは政治を他人事であると思いいざとなったら太陽と軍神がどうにかしてくれると思い込んでいます。太陽がだめなら軍神にお願いしますか? 軍事政権には否定的ではありませんでしたか? それとも、あなたがやりたいのか」
エザフ学長は口を薄く開け、唇を震わせた。
そんな彼を、ハヴァース殿下はまっすぐ見つめていらした。
「もしも本当に今のアルヤに王が要らないのなら、父上が退位なさった後私は王位を継がないと約束しましょう。でも、教えてください。私がやらなかったら、誰がやってくれるのですか。誰がサータム帝国に抵抗してくれますか? 誰が民衆を導いてくれますか? 誰が政治の責任をもってくれますか?」
「……それは……、協議の上で……」
「あなたがた知識人が決めるんですか? アルヤの九割を占める商人、職人、農民たちの意見はいつどうやって聞くんですか?」
「権威である先生ならご存知でしょう」とハヴァース殿下がおっしゃる。
「アヴァロン王国は共和制を採用した結果どうなりましたか。議長が実権を握り多数の人間を殺したにもかかわらず結局国内が混乱して最後は王政を復活させましたね。ブルジオンは共和制にどうやって移行しましたか。貴族と王と軍人が政治の頂点に交代して君臨し混迷を極め都は血の海に沈みました」
エザフ学長は、目を見開いたまま、止まった。
「アルヤ人にとっての王とは何ですか。国民のほとんどは神の子孫であり太陽の化身であると信じていますね。私は、そんな彼らのすべてを、人生や人格を――人としてのすべてを投げ捨ててでも守ると誓いました」
殿下のお言葉に迷いは一切なかった。
「もしもアルヤ王国に住まう百万の民が幸福で満ち溢れるというのなら、廃太子だろうが斬首だろうが何だって受け入れましょう。ですが、」
その堂々としたご様子は、まさに王だった。
「あなたがたのなそうとしている革命は、上から押し付ける革命です。あなたがた上流階級のための革命でしかありません。それに見合うだけの価値を感じられないのです」
このお方は、アルヤ王国国王なのだ。
「それでもあなたがたが武器を捨てないのなら、私はアルヤ王国軍を総動員して徹底的に弾圧します。戦場でお会いしましょう」
そしてそれに、我々武官たちは従うだろう。それは、間違いない。
「もう一度お聞きします。あなたは、王のいないアルヤ王国が、どうなると思いますか。あなたは、王のいないアルヤ王国を、どうしていきたいのですか」
エザフ学長はしばらくの間黙った。
やがて、その頬を涙が静かに伝った。
「あと、三十年」
膝を折り、床についた。
両手で顔を覆った。
「あと三十年、遅く生まれたかった……。貴方様の御世に生きたかった」
「そうおっしゃってくださいますか」
ハヴァース殿下が頬を緩め、優しく微苦笑をなさる。
「先日孫が生まれたのです。この子が九人目の孫になります。私はこの九人の孫すべてが可愛い。私はあの子たちみんなが将来誇りと希望を持てるようなアルヤを用意してやりたい」
「それは、私の望みでもあります」
「毎晩寝ないで考えておりましたよ。髪が真っ白になるまで考えておりました――今のご質問にいつでもお答えできるようにね。だが口から出てこない。なぜだか分かりますか」
「なぜです?」
「貴方様の目を見て、自分の過ちに気づいたからです」
「目が蒼いからではありませんよ」と、口元を歪めていびつな笑みを作る。
「老いた私は考え過ぎてしまっていて、若い貴方様でもご存知の一番基本的なことを忘れてしまっていたことに気づきました」
僕は、無礼な、と思ったけど、殿下はそんなことなど微塵もお考えにならなかったようだ。殿下はちょっとだけ笑われて、こうおっしゃった。
「私は髪が蒼くなくても有能な王であればアルヤ王国を強く豊かにできることを証明したい。しかしおっしゃるとおり、私はまだ十七の若造です。その、先生が考え過ぎたと言ういろいろなことを、経験不足の私に聞かせてください」
エザフ学長が弾かれたように顔を上げた。それから、「聞いてくださるのか」と呟いた。殿下は笑顔で頷かれた。
「もちろん、許したわけではありません。エスファーナは混乱したのですから、それ相応の罰を受けていただきます」
「覚悟の上です」
「大学を辞めてエスファーナを離れていただきます」
一瞬エザフ学長は拳を握り締めたが、次の殿下の「父上が退位なさったらまたエスファーナに戻っていただくので、ご自宅は処分なさらないでください」というお言葉に、また、目を丸くした。
「そんなことなど――」
殿下は首を横に振られた。
「私が王になったら、私が道を誤った時、私を叱ってくれる大人がいません。先生が私を見張ってください」
「よろしいのか」
「あと、大切なお孫さんたちに累が及ばぬよう私がどうにか父上や裁判大臣をごまかします」
「おお」
エザフ学長が震える手を伸ばした。
僕は一度剣の柄に手をかけたが、ハヴァース殿下は動かれなかった。
学長の手はハヴァース殿下の服の裾をつかんだ。
それから拝むようにうつむき、歯を食いしばりながら涙を流した。
「ハヴァース三世万歳……! ハヴァース三世の御世に栄あれ」
「よしてください」とおっしゃりつつ、ハヴァース殿下はしゃがみ込まれ、エザフ学長の肩をつかまれた。僕は剣から手を離して、ほっと胸を撫で下ろした。
まったく、この王子はいつもこんなふうに派手なことをなさる。でも太陽の一のお傍付きである白将軍の僕にとっては、それがどうも誇らしい。ご様子を拝見するだけで、僕は嬉しかった。
でも、その半面、心配でもあった。この国はようやく体が育ったばかりの年若い青年の両肩にいったいどれだけの荷を背負わせようとしているのだろう。僕は、白将軍として、その荷物を少しでも分かち合えているだろうか。
ちらりとセターレス殿下の方を窺った。セターレス殿下は何でもないようなお顔で「平気だろう」とおっしゃった。「俺がついているから」とのお言葉だ。どこまで本気でいらっしゃるのか、と思うと同時に、また一つ安心した。少なくともハヴァース殿下はお一人ではない。
「立ってください。さっそくお話を聞かせてください」
ハヴァース殿下はそうおっしゃってエザフ学長を立たせられた。
「僕には時間があります。その時間をアルヤ王国の将来のために使えるのならばこれぞ本望」
だが、このお言葉を聞いた瞬間、僕はまた血の気が引いたのを感じた。
「かしこまりました。では場所を移しましょう、このような狭い場所に貴方様のようなお方がいるべきではない」
「よろしくお願い致します」
殿下には時間がおありかもしれないが、僕にはない。ナディアが待っている。
学生たちが扉を開け、エザフ学長が「こちらへ」と言って歩き出した。ハヴァース殿下も歩き出しなさりつつ、セターレス殿下に「セータおいで、お前も一緒にお聞きしなさい」とおっしゃった。セターレス殿下が「了解」と申し上げなさって後をお追いになる。
「ラシードも来るだろう?」
まさか、僕は家に帰りたいです、とは、言えなかった。
アルヤ王国の未来に、関わるんだ。それは僕の子供のためにもなるんだ。そう自分に言い聞かせ、僕は「はい」とお答えした。
大丈夫だ。大丈夫である、はずだ。
「お供致します」
帰りたかった。
結局、僕が家に帰れたのは、翌日になってからのことだった。
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