光明記 第5話 だいじょうぶ




 時の流れとは往々にして残酷なものだが、時として人に優しいこともある。

 ルムアは、かまどの前に座り込んでいるファルシナの小さな背を眺めて、そんなことを思った。

 香ばしい匂いがしてきた。そろそろよい頃だろう。そう思い、「シーナ、危ないから退きなさい」と告げた。ファルシナが立ち上がり、「はぁい」と甘い返事をした。

 分厚い乾いた布でふたを持ち上げ、鉄板の上の様子を確かめる。ファルシナが小さな手で一つ一つ丸めていった生地が丸い焼き菓子として完成している。ファルシナの小さな顔に笑みが燈る。

「わあ」

「まあ、美味しそうですね。シーナが頑張ったかいがありましたね」

 扇であおいで風を送り軽く冷ました。うち一つを手に取り、「熱いから気をつけなさい」と言いつつ、ファルシナに手渡した。ファルシナが受け取りながら「たべてもいいですか」と聞いてきたので、微笑んで「もちろんですとも」と答えた。

 赤子は思っていたより順調に育った。医者は長く生きないだろうと言ったが、気づいたらもう五歳だ。

 確かに、体はあまり丈夫ではない。一ヶ月の半分近くは熱を出すので布団の上に寝かせておいている。この子の祖母、姑は、彼女があまりにもよく熱を出すので、そのうち死んでしまうのではないかとたまに涙さえ流しているようだ。だが、普段こうしている時は特に何ともない。何の障害もなさそうな顔をして動き回っている。

 これは去年気づいたことだが、実は目がよく見えていないようだ。細かい物、特に本などは顔を近づけて見ていたり、よくつまずいたりしている。それを知った瞬間はあまりのことに食事が喉を通らなかったものだ。今のアルヤに視力を矯正する術はない。けれど、彼女を見ているうちに、まったく見えていないよりはいいか、と思うようになった。もしかしたら見えなくなる日が来るのかもしれない。それでも構わない。危ないものに触れたり危ないことをしたりしないよう、自分が見ていればいいだけの話だ。それに、彼女は、女の子だ。剣を無理にやることはない。蝶よ花よと育ててやればいい。

 彼女の体調の良い今日のような日には着飾らせてやる。可愛い可愛いと誉めそやせば喜ぶ彼女は何とも可愛らしい。

 女の子を育てることは楽しい。

 母親というものは、子を産んだ瞬間になるものではないらしい。子を産んでから次第になっていくもののようだ。

 食の細い彼女が、実際には丸めただけなのに自分で焼いたと思い込んでいる焼き菓子を気に入り、頬張って嬉しそうな顔をしている。その顔立ちは自分によく似ていた。

 菓子とともに髪も一緒に食べてしまいそうだった。結ってやろうと思い、髪を優しくつかんでまとめ、手櫛でそっと梳いた。ファルシナはそれを当たり前と思っているのか、焼き菓子を食べ続けた。

 ルムアは、ふと、六年前、自分はよくシャムシャの美しい蒼い髪でこうしていたことを思い出した。

「かあさま、かあさま」

 ファルシナが手につかんだ菓子を差し出す。

「かあさまもたべてください」

「ありがとう。いただきますね」

 髪を縛り終えたあと、受け取りつつ、ファルシナの頬に口づけた。ファルシナが嬉しそうに声を上げて笑った。

 突然、窓の外から物音が聞こえた。

 ファルシナは窓の方へと歩み寄った。

 危ないからやめなさいと言おうとしたその時、

「おかしー?」

 窓から、少女のような顔をした男の子が、顔を出した。

 ファルシナが笑みを見せた。

「ハーさまぁー」

「あら、あら」

 ファルシナが能天気に「ハーさまがきましたのー」と報告してきた。彼女の従弟――ハヴァース第一王子は、体力のないファルシナからは想像もできない軽々とした身のこなしで窓枠を乗り越え、「きたー」と主張した。

「ようこそ、王子。今日はどうしてここまでいらしたのです」

 ハヴァースが「んー」と口を尖らせる。

「にわであそんでたら、ラシードがおぎょーぎがわるいとおこるんだ。うるさいから、きた」

「あら、それはそれは、ごめんなさいね」

 ルムアはつい、笑ってしまった。

「では、帰ってきたらラシードを叱っておきましょう」

「やったっ。ルムアすきっ」

 足元にしがみついてきたハヴァースを見下ろし、目を細める。

 ハヴァースがこのメフラザーディー家にやって来るようになったのは、去年の春のことだ。シャムシャが、冬に二ヶ月ほどラクータ帝国に出かけた際、ハヴァースをルムアに預けていったのだ。

 シャムシャは、ルムアがそうされると喜ぶということを、知っているのだ。

 二ヶ月でルムアの手料理の味を覚え、また、ルムアは甘やかしてくれる人だということを学習したハヴァースは、何かあるたびにここに来てはルムアに甘え、ファルシナと遊んで帰るようになった。

 ハヴァースは、「ちょうだい」と言ってファルシナの方に手を出した。ファルシナが笑顔で「はいどうぞ」と言って菓子を差し出した。ハヴァースがそれを受け取ったあと、ルムアに向かって「もらった」と報告してくる。わざわざ報告されなくても目の前で見ていたわけだが、ルムアはそう言わずに「よかったですね」と笑った。

 なんと可愛らしい子たちだろう。

 宮殿からメフラザーディー家の邸宅まで、大人の足で三十分だ。小さな彼の足では一時間弱かかると聞く。だが、ラシードに鍛えられている彼はそれを何とも思わない。しかも、道程は単純で、武家屋敷街だからか治安も良い。

 ルムアは、仲良く皿の上に菓子を並べ始めた二人を眺めて、目を細めた。

 宮殿に上がれないからと言って、シャムシャの子の世話をさせてもらえないわけではない。子はそのうち歩き回るようになるのだ。自分が行かなくとも、ハヴァースが来る。

 廊下、つまり家の中から、「こら! 殿下!」と怒鳴るラシードの声が聞こえてきた。ここに逃げてきたことはもう分かってしまっているようだ。ハヴァースが「たいへん」と言って動き出す。

「かえる」

「はいはい、また今度ゆっくりおいでなさい」

「あ、でも」

 ハヴァースがまた手を出した。

「かーさまととーさまのぶんはある? かーさまが、かーさまもルムアのやいたおかしをたべたいとすねるから」

 ルムアは笑ってしまった。

「今日のお菓子はシーナが焼いたのですよ」

 言いつつ、菓子を三つとって包んだ。シャムシャの分と、セフィーの分と、彼自身のためのお土産だ。

 彼女はけして自分のことを忘れているわけではないのだ。

「はい、ハーさま」

 手渡して、微笑む。

「宮殿に帰ったら、お母さまにお伝えくださいませ。ルムアは、いつでも、あなたさまのことを思っておりますと」

 ハヴァースが無邪気に「わかった!」と頷いた。

 彼はふたたび窓から出ていくつもりらしかった。一度窓の方へと向かって歩き出した。

 すぐに身を翻して、「わすれてた」と言って駆け戻ってきた。

 どうかしたのかと思って見ていると、

「またね」

 彼はそう言ってファルシナの唇に口づけだ。

「きゃっ」

 ファルシナの頬が赤く染まった。

「あ……あー……」

 とりあえず、ラシードには黙っておいた方がいいだろう。娘を溺愛している彼のことだ、機嫌を損ねるに違いない。

「とーさまとかーさまのまねーっ」

「ハーさまのえっちっ!」

「だいじょうぶ、大人になったらシーナをおきさきにもらうから」

 ルムアが笑っているうちに、ハヴァースは窓から出ていってしまった。残されたファルシナが一人で赤い頬を押さえて呆然としている。そんな様子を見ていると身悶えしてしまう。

 彼は、はたして、成人として認められる十年後も同じことを言ってくれるだろうか。とりあえずファルシナを王妃になってもいいような女性に教育しなければならないだろう。

 夢は広がる。

 部屋にラシードが入ってきた。荒い息で「ハヴァース殿下を見なかった!?」と訊ねてきたので、「今お帰りになられましたよ」と答えた。ラシードが疲れた様子で「宮殿に戻るね」と言い、ふたたび出ていく。ファルシナが「いってらっしゃあい」と手を振った。

 アルヤ王国は今日も平和だ。太陽の恵みがあるからだ、と思うのだが、ルムアは、今夜ラシードがもう一度帰ってきた時には、白い軍神様がエスファーナを守ってくれているからだと言うことにしよう、と思った。

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