光明記 第4話 おなかがいっぱいになるまで

 それからの数日で、抱いて揺すってやると赤子の泣き方、声の上げ方に変化が出ることに気づいた。

 ヌーラの言葉を思い出した。やはり、知識として知っているのと実際に自分で産み育てるのとでは、まったく違うらしい。

 胸に抱き寄せて見つめていると、赤子も眼球のうちのほとんどに色が着いているのではないかと思われるほど大きな瞳で、見つめ返してくる。時には、小さな柔らかい手で、自分の胸や腕を叩いたり、服を握り締めたりする。そんな様子を見て、どうして今までもっとこうしてゆっくり向き合ってみなかったのだろうと思った。


 それから数日後の夕方のことだった。

 乳を与えてしばらくしたら赤子が安らかに寝たので、そっと自分の傍らに下ろして、ルムア自身は窓から外を眺めていた。

 窓から入ってくる風は、初夏の夕べを彩る涼風だ。美しきエスファーナの夕べ――それもこれも我が太陽の力なのだと思うと、ルムアは誇らしい気持ちだ。

「ルムア」

 戸口にかけられたすだれの向こう側から、ラシードの声がした。ルムアは驚いて顔を上げた。まだようやく日が暮れ始めた頃である。白将軍である彼がこんなに早い時間に帰ってこれるわけがない。

「何かあったんですか」

 胸騒ぎを覚えて立ち上がった。

 だが、ラシードは、落ち着いた声音で、「入ってもいいかな」と訊ねてきた。

「大丈夫ですが――」

「入るよ」

 ラシードがすだれを払って入ってくる。

 彼は白い軍服のままだった。まだ帰ってきてすぐのようだ。背負った白銀の神剣が窓から斜めに差し入る陽光で黄みを帯びて見える。血の臭いはない。

 ルムアは彼が腕に何かを抱えているのに気づいて、覗き込みながら「どうしたんですか」と訊ねた。彼は嬉しそうに目を細めた。

「とりあえず、座りなさい」

 不安を感じつつも、言われるがまま寝台に戻って座った。ラシードも軍服のままその隣に座り込み、抱いているそれに向かって優しく微笑みかけた。

 それは、王家の色である蒼い布に包まれていた。金糸で大きく刺繍されているのは、日輪を表現した王家の紋章だろうか。

「ルムア、腕を出して。抱いてさしあげなさい」

「え?」

 腕を出すと、ラシードがそれをそっと差し出した。

 ルムアは目を、丸くした。

 ラシードが差し出したそれが、赤ん坊だったからだ。

「えっ」

 だからと言って受け取らないわけにもいかない。震える手で抱き取る。

 軽い。自分の娘と同じくらいだ。首は一応据わっているらしい。

 赤ん坊は、目を、開けていた。

 ルムアは言葉を失った。

 赤ん坊の瞳が、蒼かったからだ。

 ラシードが微笑んで言った。

「ハヴァース王子だ」

 腕が震えた。落としてはいけないと強く抱き締め直した。

 自分は、今、シャムシャの子供を抱いている。

「ハヴァース、王子」

 シャムシャが息子にそう名付けたことは知っていた。聞いた瞬間は、なぜそのような忌まわしい名をつけるのかと、もう二度とその名を持つ王が出ないよう封印してもいいのではないかとさえ思ったものだ。だが、こうして腕に抱いて名前を呼んでみると、そんなことはとても些細なことであるように感じた。ただ、可愛い。ただひたすら、愛しい。

 ハヴァース王子は大きな蒼い瞳をぐりぐりと動かしていた。不思議なものを見るよう目でルムアを眺めている。

 左腕で抱いたまま右手で額を撫でると、笑顔を見せてくれた。おそらく、自分が無意識のうちに彼に微笑みかけたから、反射的に微笑み返しただけだろう。そう思っていても、胸が締め付けられるほど嬉しい。

 忙しなく宙をさまよっていた手が、やがて、ルムアの胸に叩くようにして触れた。

 服の胸をつかんだ。

 それで、落ち着いたのだろうか。「あー、あー」と声を出し始めた。

「何ですか? どうなさいました」

 これほどまでに愛しい存在があるだろうか。この子は今ここで生きているというただそれだけで自分の愛を得るに足る巨大な存在なのだ。

 ずっと、夢に見ていた。シャムシャの子供をこの腕に抱きたいとずっと思っていた。

 夢が、今、叶ったのだ。現実のものとなったのだ。

「よかった」

 ラシードが言ったので、ルムアは顔を上げた。ラシードは安心した様子で笑んでいた。

「陛下に最近ルムアに元気がないと相談し申し上げたら、殿下を預けてくださったんだ。今夜一晩我が家でお世話してさしあげて、朝僕が家を出る時に一緒にお連れするようにと」

「そうだったのですか」

 やはり、彼女は自分の欲しいものをすべて与えてくれる、世界一の君主なのだ。

「素敵なお母さまでよかったですね」

 王子は、ルムアの服の胸をつかんだまま、機嫌がよさそうに声を出している。分かっているのかいないのか――そんなところがまたルムアの最愛の主君に似ていてよい。

「じゃ、僕は着替えてくるよ。またしばらくしたら様子を見にくる」

 ラシードがそう言って立ち上がった。ルムアは「はぁい、行ってらっしゃい!」と明るい声で見送った。


 しばらくの間、王子はルムアに抱かれて大人しくしていた。

 ややしてぐずり出したので、ルムアは彼の口に自分の乳首を含ませた。

 彼はためらうことなく強い力で乳を吸い始めた。

 乳を吸いながら、小さな手が、さらに求めるかのように、乳房を押す。

 その様子を見て、ルムアは、幸せだ、と思った。自分はシャムシャの子に乳を与えることができるのだ。

 ふと目をやると、すぐそこに、我が子が布団の上に転がるようにして寝ていた。いつの間に寝返りを打てるようになったのだろう。彼女は先ほどより少し左に動いていた。

 彼女を眺めて、自分はおかしい、と思った。普通の母親なら、我が子を抱き乳を与えてこそ、幸せを感じるものだろう。だが、自分は、自分の娘に乳を与えている時より今の方が充足感を得ている。自分はきっと異常だ。

 不意に王子が口を離した。急だったので、ルムアは驚いて「どうしました?」と訊ねた。生後二ヵ月の赤子が返事をするわけはないのだが、小さな手でまだしっかりとルムアの乳房をつかんだまま蒼い瞳で自分を見つめている様子を見ていると、彼に何かを訴えられているように感じた。

「ごめんなさい。何でもございませんよ。お腹がいっぱいになるまでお飲みになっていいのですよ」

 言葉が分かるのだろうか、それとも、ルムアと目が合って安心したのだろうか。王子がふたたび、しかし目だけはまだルムアを見上げたまま、今度はおそるおそる乳首に口を近づけ、吸い始めた。ルムアは苦笑した。今はあまり後ろ向きになるようなことは考えない方が良いと感じた。

 そのうち飽きた顔で口を離した。そんな様子でさえ可愛らしい。

 彼はしばらくの間声を上げていた。しかしルムアがそれに何となく返事をしているうちに満足したのか、勝手に眠りについてしまった。憎めない。顔立ちは、特にすっきりした目元などはどちらかと言えばセフィーに似ているように思える。それでもルムアはこの子は母親似だと確信して喜びを感じた。

 眠ってしまっても離したくなくて、ずっと抱いていようとした。

 このままこの王子をずっと世話していたいと思った。

 腹が減ったら乳を与え、排泄をしたらおしめを替え、暑い時には風を送り、寒い時には自分の縫ったおくるみで包んでやりたい。やがて果汁を与え、噛み砕いてやった食物も与え、動くようになれば広い安全な部屋を確保し、決まった場所で排泄するように教えなければならない。言葉を教え、本も読み聞かせよう。上等な服を着せて外に連れ出し、太陽の恵みを与えるのだ。男の子だから剣も習わせ、年頃になったら花嫁も探して――

 赤ん坊の小さな泣き声が聞こえてきた。自分の娘の方が泣いていた。甘美な妄想が打ち砕かれたのは残念だが、確かにそろそろ彼女にも乳を与えなければならない時間だ。

 寂しく思いながらも、王子を娘の隣に下ろした。

 その瞬間、はっとした。

 自分の娘の方が早く生まれたのに、大きさが、変わらない。

 抱き上げて、ぞっとした。

 自分の娘の方が軽い。

 急いで、先ほど王子に与えていたのとは反対の乳首を与えた。娘はすぐにしゃぶりついたが、吸う力は弱い。

 この差が自分の罪なのか。

 シャムシャはハヴァース王子に乳母をつけることを嫌がり、自分の母乳を与えて育てているという。愛情豊かに赤子の世話をしているシャムシャの姿が浮かんだ。

「ごめんなさいね」

 涙が溢れた。

 自分はいったい何をしているのだろう。

 赤子が乳を吸っている。

 自分がハヴァース王子に母乳を与えられる体になったのはこの子を産んだからだ。この幸福はこの子が生まれてくれたおかげで享受しているのだ。

「ごめんなさいね……ありがとう」

 自分より酷い母親はいないだろう。

「ごめんなさい……」

 子が大人しく乳を吸っているのが唯一の救いだ。

 そのうち、娘は乳を吸わなくなった。そのまま眠ってしまったらしい。彼女が乳を吸っていた時間は王子が乳を吸っていた時間より短かっただろう。そう思うと身が引き千切られるようだ。

 震える手で、娘を王子の隣に下ろした。二人が並んで安らかに眠っている様子はまるで双子のようだった。そう言えば、二人は同い年に当たる。しかも、二人とも、目が蒼い。血のつながりで言えば従姉弟同士だ。

 この国では、目が蒼いということは非常に特別な意味を持つ。それだけで連帯感、親近感を覚えることもあれば、疎外感、孤独感を味わうこともある。

 目が蒼い者には、同じく目が蒼い仲間が必要だ。

 ハヴァース王子の友人になれる可能性のある子を育てるということは、重要なことだ。

 自分は最低だ。

 シャムシャは偉大な王だ。とても大切なことを考えさせてくれる。

 自分はもう、蒼宮殿には帰れないだろう。

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