光明記 第3話 『になる』と『である』

 赤子がまた、「ふえ」と小さな声を上げた。起きてしまったようだ。姑が「あらあら」と笑って赤子の頭を撫でた。

「抱いてあげてちょうだい。きっとお母さまに甘えたいんですよ。抱いて声をかけてやればすぐ寝ますよ」

 本当だろうかとルムアはいぶかったが、目の前に義母がいるので、逆らえないような気がした。

 子を抱き上げた。

 赤子は柔らかくて頼りない。腕に抱え上げ、胸に引き寄せつつも、どうも不安だった。

 赤子が薄く目を開いた。

 その瞳は、蒼かった。

「寝ないですね」

 ルムアの呟きに、姑が「仕方ありませんね」と答える。

「赤ちゃんには、母親が不安だったりすると、分かるのです。お母さまが不安だと、赤ちゃんも不安に思います」

「わたしのせいでしょうか」

「いいえ」

 どれほど、その言葉を望んだことだろう。

「あなたが不安にならないよう、周りが子供を安心して育てられる環境を用意しなければならないのです。あなたの責ではありませんよ」

 また、涙が溢れてきた。左腕で子を抱いたまま、右手で涙を拭った。

 突然赤子が声を上げた。

 泣き声ではなかった。小さな手を動かし、「あー、あー」と声を出している。

 ひょっとして、自分に向かって何かを言おうとしているのだろうか。伝えたいことがあるのだろうか。慰めてくれているのだろうか。

 強く抱き締め、「ごめんなさいね」と言って苦笑した。

 それを、赤子は笑ったと勘違いしたのだろうか。

 彼女はふと、笑んでみせた。

 ルムアは思わず目を丸くした。こんな表情ができるとは思ってもいなかった。

「可愛いとは思いませんか」

 義母が微笑む。

「性別など関係ありませんよ。あなたも子も無事でいること、大切なのはそちらでしょう。少なくとも、私も今ならそう思えるようになりましたし、ラシードにとってはなおさらそうでしょうよ」

 しばらくすると、赤子は寝た。そしてそのまま、起きる気配を見せなかった。義母はそれを確認し、「私ももう戻りますね」と告げた。

「何かあったらすぐにおっしゃいね。まったく一人で完璧に子を育てられる母などないのですから」

 ルムアは赤子を自分の隣に寝かせて自分も寝た。

 夜明け頃腹をすかせた子がまた泣き出したが、それを除くと、久しぶりにゆっくり寝たような気がした。

 もう少し落ち着いたら、家のこともさせてくださいと言おう。自分は働いていたいのだ。そんなことを考えた。


 ラシードとその母は、二人で向き合いながら白湯を一口飲んだ後、二人揃って深い溜息をついた。

「寝なくていいのですか? 明日も仕事でしょう」

 母の問いかけにラシードが「うーん」と曖昧に答える。今は夜更け、月ももう消え失せつつある頃だ。

「眠れないなぁ……このまま徹夜で出勤するかもしれない。仮眠は少しとろうと思うけど」

「それで平気なの? 怪我をしますよ」

「大丈夫。最近多いから、慣れた」

「あら」

「こんな状態で能天気に眠れるとしたらその方がどうかしている」

 卓袱台の上に茶碗を置き、ラシードは頭を掻いた。

「母さん」

「はい」

「僕はいったい何を守っているのかな」

 母はしばらく黙った。一口、冷めてきた白湯を口に含んでから、ふたたび深く息を吐いた。

「お前は白将軍になったことを後悔していますか?」

「いや、母さん。それは違うよ」

「どう?」

「他の将軍たちは『将軍になる』けど、白将軍だけは『将軍である』んだよ」

 母の表情が曇った。ラシードは苦笑して、首を横に振った。

「母さんのせいでもないし、それがもう僕という人間なんだから、それが良いとか悪いとかは、むしろ言ってほしくないな」

「でも、ラシード――」

「そんなことより、母さん。僕はちょっと悲しかった。僕に兄さんがいたという話、本当に初めて聞く話だった」

 そしておそらく、このような機会がなければ、一生聞くこともない話だっただろう。

「やっぱり、兄が欲しかった?」

 ラシードはすぐに首を横に振った。

「僕が生まれてから一度も、兄さんのために何か、弔いとか、してあげられていないということじゃないのかな。少なくとも、僕はしていない。きっと寂しい思いをしている」

 母の目に涙が浮かんだ。

「どうしてお前はそういうことを言う子なのでしょう」

「母さん?」

「私をなじってくれた方がどれだけ楽なことか」

「母さん」

 「私は酷い母親ですよ」と、彼女は言った。

「ですが、お父さまは。お前には厳しい人でしたが、お父さまは本当に優しい方だったのです」

「知っているよ」

「ですから。お父さまは、あの子のことが忘れられなくて。お前が生まれた時にはあの子が生まれ変わって戻ってきたのだと言ってたいそう喜んで、あの子につけたラシードという名をお前につけてしまったのです」

 ラシードは、「そうだったのか」と苦笑した。

「僕は、兄さんの分もしっかりしないといけないね」

「ごめんなさい」

「母さんが謝ることじゃない」

 「もっと考えないとな」とラシードはもう一度頭を掻いた。

「僕には何ができるだろう」

 今度は母が首を横に振る。

「お前はよくやっていますよ。それ以上何かを新しく始めたらそれこそ健康を損ねるでしょう」

「仕方ないよ。僕が、そうしたいんだからね」

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