光明記 第2話 かかえこむ

「……わたし、」

「いいえ仕方のないことです」

 視線をさまよわせるルムアの髪を、優しい手が撫でる。

「私は十六の時にここに嫁がされてしまいましてね。夫は本当に優しくて、初めの三日だけは軍人さんなんかではなく王子様に嫁いできた気分でいい気になっていたものです。ところが、夫は帰ってこなくなるし、お義母さまには早く男の子を産みなさいと言われてしまうし、使用人がいないから私も家のことをしなければならないし、なんてところに放り込まれてしまったのかしらと思ったものです」

 上がった心拍数が少しずつ、下がっていく。義母の優しい声音に、泣きそうになる。

「しかも、なかなか子を授からなくて……。気疲れでずいぶん痩せたものでした」

 いつも穏やかで、何があっても動じなさそうな彼女が、と思うと、不思議だった。だが、その言葉には嘘はないだろう。すぐにその状況を思い浮かべることができた。自分も一緒だ。

「三年目にようやく子が産まれたのです。私の場合、一人目の子が男の子だったので、これほど安心したことはありませんでした。これでもう解放されたと思いました」

 そう言えばラシードは五人兄妹の長男だ。

 そう思ったのに、

「ところが、この子が一歳になる前に病気をして死んでしまったのですよ」

 驚いて「え」と呟くと、姑が「実はね」と苦笑する。

「ラシードには一人兄があったのです」

「存じませんでした……」

「そうでしょう。ラシードも娘たちも知らないことです。教えておりませんから」

 「言えませんよ」と彼女は言った。

「私は、その子が息を引き取った時、メフラザーディー家の存続を、ひいてはこんなにすぐ死んでしまう弱い子を産んだことで自分が責められるのではないかということを、心配してしまったのですから」

 その表情は穏やかで優しく、まるでアルヤの母たる北山の女神のようだった。

「なんて酷い母親でしょう。普通の母親であれば、子を失うということ自体を嘆き悲しむものでしょうにね。私は、自分がメフラザーディー家の嫁としての務めを果たせないことに打ちのめされ、打ちひしがれておりました。貧しい実家に帰されたらどうしようかと思いました」

「そんなこと……、」

 でも、分かる気がする。そこまで追い詰められてしまうほど、ここの環境は歪んでいる。彼女が次にラシードを抱いた時、いったいどれほど安堵したことだろうか。

「幸いにもすぐにラシードが生まれて、ラシードが健康で順調に育ってくれたのですが」

 世の女性のどれだけが自分たちを責めるのかと思う。自分たちは、普通に我が子を愛することを許されていない。そう思うと、世界中で彼女と二人きりになってしまった気がした。

 彼女は「でもね」と続けた。

「後から気づいたのですが……、男の子が生まれて育ってくれればよいというものでも、なかったのです」

「どうして……」

「それも、あなたが男の子を生めばすぐ分かることですが――」

 「見ていられませんよ」と、苦笑する彼女の横顔が痛々しく思える。

「メフラザーディー家は偉大なる『蒼き太陽』第一のお傍付きの末裔で、神の子孫なのですから。長男は絶対に白将軍になるのです。それは宿命であり抗うことはできません」

「それは、存じ上げておりますが」

「大変でしたよ。親は息子を白将軍に育てなければならないのですから。まずはせっかく苦労して産んだ子に王のために死ねよと教えることから始まります。三つの頃から剣を教えるのですが、あの虫も殺せなさそうな夫が大事な一人息子のラシードを殴ってまで鍛えている様子をね、見ていなければなりませんでした。王に失礼のないよう早くから読み書き算盤もさせました。私はラシードが同年代の子と遊んでいるところなど見たことがありません。なんて可哀想なことをしているのだろう、私たちはなんと酷い親であることか、よく考えましたよ」

 だが、そうでなければならない。それがさだめというものだ。それが、このアルヤ王国で生きていくということなのだ。

 ラシードの背中を思い出した。彼は常に人に囲まれていたがいつもどこか孤独そうだった。彼はいつも一人で何かを抱え込んでいる。

 初めは、それを分担してあげられないかと思っていた。

 そんなことをしたら逆に彼を揺さぶってしまうことになると気づいたのはもっと最近のことだ。

「あの子もそれを当たり前に思っていたようで、ずっとじっと耐えておりました。それがまた、つらくて。夫もつらかったようです。いつしかお酒を飲むようになっていましたね。自分も子供の頃にそう扱われていたこと、そしてそれが嫌だったことを思い出すようでした」

 そして、そのさだめは繰り返される。

「あの子が将軍になりたくないと言ったのはたった一度だけです。十二の誕生日の頃でしたが、これは夫が殴って黙らせました。将軍になってから辞めたいと言ったのはやはりたった一度だけ、十八の時、最初の妻のナディアが難産で亡くなった時でしたね。あの子は仕事中で最期に立ち会えませんでした。夫はもう亡くなっておりましたし、私もあんまりにも可哀想で、放っておいたのですよ」

 ルムアも、その最後の話の時代は覚えている。母とともに宮殿でシャムシャの傍にいたからだ。あの時は、幼心に彼の元気がないことを気にして、どうにか慰めてやれないものかと思ったものだが――まさかそんなことがあって落ち込んでいたのだとは知らなかった。

「そんな姿を見ていると、言えませんね。お前には兄がいたのですよ、とは、ね」

 白将軍にならなくてもよかったかもしれないのだ。

「そのうち、男に産まないであげたら、もっと自由だったかもしれないのに、と思うようになりますよ」

 男の子を産めたところで、逃げる場所などどこにもないのだった。

 うつむいたルムアを、姑が、また、抱き締めた。

「つらいでしょう。可哀想に。我々はあなたも巻き込んでしまったのね」

「いえ……、そんなことは――」

「でも、だからこそ」

 母の匂いがした。

「開き直って甘えてちょうだい。いくら我がままを言ってもいいのです。できる限りのことはしてさしあげますからね。余計なことは何もしなくてもいいように、私と娘たちで家のことは全部しますから。何でも言っていいのですからね」

 ルムアはそこで初めて、そうだったのか、と認識した。

 本当は、本当に、優しくしたかっただけなのだ。

 義母の胸に顔を押し付けた。ルムアの母親はその巨乳をはち切れそうな女官服にむりやり押し込んでいたものだ。ラシードの母親は、痩せていて、あまり柔らかいとは感じられない。けれど何か似ている気がする。

「私たちには、いくらでも当たって構いませんから」

 背を撫でる手も優しい。

「赤ん坊にだけは、やめてちょうだい。この子が悪いわけではないのです」

 今になって、自分のしようとしていたことを思い出した。

「まだ何の準備も済んでいないのに、大変な難産をして、つらかったでしょう。しかも女の子で、お医者さまには体の弱い子になるとまで言われて……、あんまりにもルムアちゃんが可哀想で、私もどうしていいのか分かりませんでした。ごめんなさいね」

「いいえ」

「でもね、ルムアちゃんは知らないでしょうけれどね。この子が生まれた時のラシードの様子と言ったら!」

 いまさらになって子はどうしただろうと気になった。

 義母の肩から少しだけ顔を出す。彼女の肩越しに赤子の姿が見える。柔らかい布団の上で眠っている。目尻に涙を浮かべたまま、眉間に皺を寄せていた。あまり安らかとは言いがたい表情だ。

「今だから笑える話ですけれども。きっと、ナディアを――最初に貰ってきた嫁のことを思い出したんでしょうね」

 ラシードは今の今まで一度もその彼女の話をしなかった。ルムアは最近になるまで彼の結婚が二度目だということすら知らなかった。

「ナディアは初産で大変な難産をしましてね、ひどく出血して亡くなってしまったのです。赤ん坊も死産だったのですよ。そしてその時ラシードは仕事中でした。今回もでしたね。でも、ルムアちゃんとこの子は、よく頑張りましたね。二人とも今生きてここにいてくれます。そのことをラシードがどれだけ喜んでいることか」

 ラシードは何も言わないけれど、

「お産の後、ルムアちゃんが疲れ切って休んでいる時、あの子が真っ青な顔をして帰ってきましてね。聞くと、陛下が目を覚まされてまず許可をいただいて、後片付けもろくにせずに走ってきたんだそうです。おかしいでしょう。仕事仕事のあの子が、いったいどんな顔で陛下に申し上げたのかと思うと! 私はその話を聞いた時、一も二もなく帰してくださった陛下のお人柄を感じましたよ。ナディアの時のハヴァース殿下の対応を思うと、女王さまの方が我々にとってはありがたいようですね」

 ルムアはつい、「わたしのシャムシャさまですもの」と言ってしまった。彼女が誇らしくてならなかった。もっと彼女を褒め称えてほしかった。

 そんなルムアを見て、義母が微笑んだ。「やっと笑ってくれましたね」と言われた。ルムアははっとしてうつむいた。

「初めてこの子を抱いた時、あの子は良かったと呟いたきり泣き出してしまいましてね……よっぽど嬉しかったんでしょうねえ、私は親でありながらあれほどあの子が感情的に泣くところを見たことがなかったのですから」

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