光明記(ルムア編)

光明記 第1話 いらないこ

 また、赤子の泣き声が聞こえてきた。

 ルムアは自分の両耳を押さえた。

 もう、聞きたくなかった。

「どうして……? さっきお乳をあげたばかりでしょう……?」

 今は深夜だ。この家の人々はすでに寝静まっている。騒いではならない。

 ここはエスファーナの新市街、高級住宅街の一角、メフラザーディー家の邸宅だ。

 気が狂いそうだった。

 ルムアは蒼宮殿から一歩も出たことがなかった。そのため、初めのうちは、初めて会う人、しかも今日からいきなり家族にならなければならない人々を前にして、どう振る舞えばいいのか、戸惑い、不安に思っていた。

 予想に反して、ラシードの母親や妹たちはルムアをちやほやした。宮中でしてきたように働くことを禁じられ、家事はほとんどせずに過ごした。働くことを生きがいと考えて生きてきたルムアにとっては拷問であった。だが、優しくしてもらっていることに変わりない。何もできないことに苛立ちつつ、子供さえ産まれてくれればと思い耐え忍んでいた。

 その親切心の裏側に気づいたのは、子供が生まれてからのことだ。

 誰かにラシードの息子を産んでもらわなければならない。ルムアが王女だろうが娼婦だろうが関係ない、誰でもいい、何でもいいから早く次の白将軍を産んでもらわなければならない。そうでなければこの百五十年王家のために忠節を尽くしてきたメフラザーディー家が断絶する。

 ルムアが産んだのは女の子だった。

 あれだけ切望したのに、なぜ、男の子でないのか。あれだけ悩んで、苦しんで、つらくて痛い思いをしたのに、なぜ、白将軍になれる男の子でないのか。

 しかも、ルムアは十月十日を待ち切れず、言われていたより二ヶ月早く小さな赤ん坊を出産した。産婆や医者にはうまく育たないかもしれないといわれた。何もかもがめちゃくちゃで台無しだ。

 出産直後、初めて義母に娘を見せた時の彼女の微妙な反応が忘れられない。

 ちなみにその日ラシードは留守だった。宮中でセフィーが癇癪を起こしてシャムシャに流産させかけるという事件が起きたからだ。

 宮殿にいた頃はずっとラシードと一緒にいたような気がしていた。いつでもどんな時でも彼に守ってもらっているような気がしていた。だが、ラシードが守っているのは『蒼き太陽』であるシャムシャであり、自分はたまたまシャムシャにいつもくっついていただけに過ぎない。

 ラシードは朝早く出勤し、夜遅く帰宅する。騒動があれば夜中にも出ていく。ルムアはここ半月会っていない。

 白将軍とはそういうものだ。

 先ほど擦れ違った義妹のレティシアが、ついさっき帰ってきたと言っていた。強いて会おうとはしなかった。きっともう寝たことだろう。

 子供が生まれて以来、彼は別の部屋に寝泊まりしている。他の誰でもなくルムアがそうしようと言ったのだ。ラシードが夜中に呼び出されて動き始めると、赤子も起きて泣き始める。せっかくラシードがゆっくり休めるはずの晩にも、赤子は意味もなく泣いて彼を起こしてしまう。ルムアがもう子供と離れてくれと言ったらラシードはあっさり了承した。

 今夜も、ついさっき母乳を与えたはずの赤ん坊が突然泣き始めた。

 ルムアはもう放っておくことにした。どうせ少ししたら泣き疲れて寝るだろうと思っていた。

 今夜はいつまで経っても泣き止まなかった。

 いったいどれだけ騒いだだろう。あまりうるさいと家人が起きる。

「お黙りなさいよ」

 ずっと振り回されている腕をつかんだ。けれど赤子はそれを振り払うように手を振った。生意気な、と思った。

 もう嫌だ。

「分かりなさいよ……! 女のお前が皆さまにご迷惑をおかけすることなんて許されないんですからね……!」

 手の平で赤子の小さな口を鼻ごと塞いだ。一瞬、これでは息ができないのでは、とも思ったが、それでもいいかと思った。

 殺してしまおう。女の子は必要ないのだ。

 静かになった。赤子の手足がひくりと動いた。

 要らないのだ。

 しかし、

「何をしているの!?」

 横から腕が伸びてきて赤子を取り上げた。

 ルムアは、寝台の上に座り込んだまま、呆然と赤子のいた辺りを眺めた。もう何かを考えるのがつらかった。ただ、火がついたようにふたたび泣き始めた赤子が、次第に静かになっていったのを聞いていた。

 声が聞こえなくなってから、ゆっくり、顔を上げた。

 すぐそこに姑が立っていて、赤子を抱いてあやしていた。

「よしよし、もう大丈夫ですよ、おばあちゃまが来ましたからね、もう泣くのではありませんよ」

 姑が優しく揺すっているうちに、赤子は黙った。母親の自分では泣き止まないのに、姑がすれば泣き止んでしまうのか。悔しい。

 姑を起こしてしまった。今、彼女に迷惑をかけている。

 自分の方が消えてしまいたかった。

「ルムアちゃん」

 次の時だった。

 ルムアは硬直した。

 今度は自分が彼女に頭を撫でられたからだ。

「せっかく苦労して授かった姫にどうしてこのようなことをするのですか」

 ルムアには答えられなかった。怒られる、呆れられる、軽蔑されると分かっていて答えることなどできない。

 ふと、セフィーの顔が脳裏をよぎっていった。

 セフィーはなかなか質問に答えられない子だった。自分は何をしても怒られると思い込んでいたためだ。今なら気持ちがよく分かる。

 涙が溢れた。

 こんなに惨めだと思ったのは初めてだ。

 だが、セフィーは自分を惨めだとは思わなかっただろう。ルムアが自分を惨めだと思えるのは、惨めでない状態を知っているからだ。

 ありのままでいられた蒼宮殿に帰りたい。

 姑が溜息をつく。

「疲れてしまったのね。やはり乳母をつけましょう。あなたはまだ若過ぎますから」

 ルムアは慌てて首を横に振った。メフラザーディー家は慣習的に子に乳母をつけない。息子だったらともかく娘のためにその慣例が打ち破られるのは嫌だ。それに自分がまだ子供であると思われたのが腹立たしい。自分には本当は何でもできるはずなのだ。

「大丈夫ですよ、我が家の古い慣習など、気にしなくて。そのようなことよりも大切なことがあるでしょう」

 早く乳離れをさせて次の子を――今度こそ男の子を産め、ということだろうか。もう二度と産みたくないのに、と思うが、それも口には出せない。この家からも追い出されてしまう。

 追い出された方がましかもしれない。向こうはせっかく子供を産む道具を手に入れたのにいまさら手放せないと思うかもしれない。

 姑は、ルムアを眺めつつ、赤子を布団の上に下ろした。

 それからそっと、ルムアを抱き締めた。

 ルムアは驚いて顔を上げた。

 懐かしい、母の感じがした。

「どうしたのですか、話してちょうだい。お願いよ、あなたは何にそんなに困っているのです。言ってちょうだい」

 ほんの一年前までは自分がセフィーにそう言っていたのだ。

 セフィーはどれだけ怖い思いをしただろう。自分は考えれば言葉を選ぶことができる。セフィーは、うまく話すことができない。今もだ。

「お義母さまは、お一人で、五人もの子をお育てになったでしょう」

 姑は、ルムアの背を撫でていた手を止め、「いいえ」と応じた。

「私も初めての子の時はどうしたらよいのか分かりませんでした。今はもう亡くなられたラシードのおばあさま、姑に助けていただいてばかりでしたよ」

「でも――」

「ああ、そうですね」

 彼女が突如、溜息をついた。

「どうして忘れていたのでしょう。私も最初はそうでしたね。私が一番あなたのことを分かってあげられるはずでしたのに、ごめんなさいね」

 「単純なことでしたね」と彼女が言うので、ルムアは眉間に皺を寄せ、彼女の顔を眺めた。

 彼女は悲しそうな顔をしていた。

「この子が男の子でなかったことについて、あなたは苦しまなくてもいいのですよ」

 思わず目を、丸くした。

 ばれてしまった。

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