金星記 第9話 「好きな女の子にふられちゃったんだよ」

 しばらく部屋でそのまま一人反省会を開いていたのだが、一人で悔いているだけでは気が滅入る一方だということに気づいたグラーイスは、部屋を出て庭を散歩し始めた。

 ようやく日が傾き始めた今の空は美しかった。空が橙から紫まで移ろっている。これも太陽の力なのか、と思ってしまうのは、自分もアルヤ人だったということか。

 そんなに妻思いの優しい夫なら、今すぐアイシャの前に化けて出て、自分のことはもう忘れなさいと諭してほしかった。それとも、アイシャを深く愛していたらしいその夫も、アイシャは勿体無い、いつまでも自分のものにしておきたいと思って取り憑いているのだろうか。

 ハルーファは知っていたのだろう。ハルーファは、アイシャが未亡人であることを知っていて、自分には伏せたのだ。彼女なりにアイシャに気を使ったのか、はたまた自分に試練を授けたつもりだったのか――いずれにせよ意地が悪い。ここまでこじれてしまったら、さすがの自分もどうやっていけばいいのか分からない。

 それでも、何とかアイシャとの仲を修復したい、せめて、アルヤ人の大半がサータム人にするような、生ごみを見るような目で自分を見てほしくない、と思ってしまう。

 思っていたより重症だ。

「うー……」

 母たちのお気に入りの薔薇園の前に通りかかった、その時だった。

「グライさまぁ?」

 甲高い声が聞こえてきた。

 声のした後ろの方を振り向いた。

 ハルーファに相談に行った時いた下女の娘が立っていた。相変わらず、子猫のような可愛らしい顔立ちに、飴細工のような栗色の髪をしている。

 グラーイスは苦笑して、「サラーム、レナちゃん」と応じた。子供の相手をしている気分ではなかったが、だからと言って無視して去るのもアルヤ紳士らしくない。

 レナが小走りで歩み寄ってきた。

 視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。

「レナちゃんはこんなところで何をしているの? もうすぐお夕飯の時間だよ、レナちゃんもお父様やお母様と食事をしないといけないでしょう」

「レナちゃんねぇ、おかーさまがおゲンキないからねぇ、お花あげるの。アミーナさまがねぇ、お花すきなのとってきていいよってゆったからねぇ、いっちばんキレイなお花とっておかーさまにあげるのよ」

 だが、相手は薔薇である。この小さな幼女の柔らかい手が棘で傷ついてしまうだろう。心配になったらグラーイスは、「ここのお花はトゲトゲがついているから、誰か大人に取ってもらった方がいいな」と言った。レナが「うーん」とうな垂れた。

「でもね、でもね、レナちゃんがおかーさまにあげるの」

「大丈夫、レナちゃんが持ってきたというだけで、レナちゃんのお母様はきっと大変な大喜びをするよ」

 「そうかなぁ」とレナが上目遣いをする。グラーイスは微笑んで、「そうだとも」と応じた。こんなに可愛い娘が自分のために薔薇の花を取ってこようとしたことを知って喜ばない親などいない。また、本当にこの可愛い娘を愛していたとしたら、自分のために薔薇の棘で怪我をしたとなればきっとつらい。本末転倒である。

「じゃー、グライさま、とってー」

「え、僕? うーん、誰か庭師のおじさんがいてくれたらいいんだけども……、僕にうまく取れるかなぁ……」

「でも、オトナー」

 先ほどのアイシャとのやり取りを思い出せば思い出すほど、大人ではないと思う。だが、小さなレナには分からないのだ。

 立ち上がり、「どのお花がいい?」とレナに訊ねた。レナが薄桃色の薔薇を指し、「これー!」と答えた。「これかな」と言ってその薔薇の前にしゃがみ直す。レナがそのすぐ隣に真似してしゃがみ込む。

 棘に触れないよう慎重に一本を取りつつ、ちらりとレナの方を見た。レナはどうやらずっとグラーイスを見上げていたらしく、しっかりと目が合ってしまった。

「グライさまもおゲンキないの?」

 グラーイスは苦笑して、「レナちゃんとお喋りしていたら少し元気になったよ」と答えた。レナが「よかったぁ~っ」と嬉しそうな顔をした。

「どうしておゲンキなかったの?」

「好きな女の子にふられちゃったんだよ」

 レナが「きゃーっ」と嬌声を上げた。

「コイしたの? ちゅってした? ねぇちゅってした?」

「レナちゃん、まだ四歳でしょう。おませだね」

「レナちゃんみっつよ!」

「ならもっと早い」

「グライさまのえっちぃーっ」

「どこで見、いやえーっとその、何も知らないくせにそう大人の事情に口を出すのではありません」

 レナが「えっちー、えっちー」と騒ぎ出した。グラーイスは手折った薔薇の棘を慎重に折りつつ、子供だからといって油断するのではなかった、と後悔した。

「はい、どうぞ」

 ようやく支度できた薔薇の花を一輪、レナに手渡す。レナが受け取って「ありがとぉー!」と答える。その笑顔が嬉しくて、手が植物の汁だらけになったが、それだけの価値はあった、と思えた。

 思えば、自分はもう二十歳だ。アルヤでは十六歳から二十歳前くらいで花嫁を迎えるので、蒼宮殿に乗り込むと言い出さなかったら、自分にも一人くらい子があったかもしれない。レナくらいの大きさの子供がいてもおかしくはないのである。

 レナが薔薇の花を眺めて、「きれいー!」と喜んでいる。こんな娘がいれば毎日が楽しいかもしれない。

「レナちゃん、ありがとう」

 レナを抱き寄せた。レナが薔薇の花を持ったまま、「うひゃ」と呟いた。

「レナちゃんのおかげでグライ様は元気が出てきたよ」

「ホント? おゲンキいっぱいでた?」

「ああ、いっぱいね」

「よかったぁーっ!」

 ちょっと身を離すと、レナが満足そうに笑っていた。つられて微笑んでしまった。

 その、次の時だった。

 突然、レナの華奢な腕を、後ろから伸びてきた大人の女性の腕が強く握り締めた。そして、強引に引いた。レナが「ひゃあっ」と悲鳴を上げた。

 グラーイスも驚いて顔を上げた。

 腕の主はアイシャだった。

 アイシャは、真っ青な顔に、走ってきたのであろうか荒い息をしていた。

「まさかこんな卑怯な真似をする方だとは思っていなかった……! 失望しましたわ!」

「ちょっ、ちょっと待ってアイシャ」

「私に直接何かをしてくるならともかくこの子からつけ入ろうだなんて」

「落ち着いてくれないか、話がよく見えない」

「黙っていようと思っていましたがやはりちゃんとマリッダ様にお話します、これはもう我慢できません!」

 慌てて立ち上がり、「落ち着いて」と言って聞かせようとした。だがアイシャは興奮しているらしく聞く耳を持たない。

 アイシャの足元でまだ腕をつかまれたままのレナが不安げな顔をしている。子供の前で自分たち大人がこんな状態では絶対に良くない、とグラーイスは思うが、アイシャは止まらなかった。

「よりによってレナに声をかけてくるとは思っておりませんでしたよ」

「何のことを言われているのか僕には分からないよ、僕は絶対に逃げないし君が気が済むまで怒ってくれてもいいから、一度深呼吸をしてくれないか」

「そんな落ち着いてだなんて――」

 泣きそうな顔で二人を見上げていたレナが、まさに今この瞬間から泣き出しますというような声で、呟いた。

「おかーさま、おこってるの? おかーさま、グライさまがキライなの……?」

 グラーイスは目を丸くした。思わずすっとんきょうな声を出してしまった。

「レナちゃんの母親ってアイシャなの!?」

 とうとう耐え切れなくなってしまったらしいレナが、声を上げて泣き始めた。

 アイシャも、グラーイスがレナをアイシャの娘であると認識したのがたった今であることに、ようやく気づいたらしい。彼女は一度黙り込み、戸惑ったように視線を迷わせてから、レナの手首を握り締め直した。

 レナとアイシャを交互に眺めた。あまりにも似ていない。これで一目で母娘だと理解しろと言う方が無茶だ。

 泣きじゃくるレナを挟んで、グラーイスとアイシャの間で時間が止まった。

 ややしてから、アイシャがレナを手を引き、「戻りますよ」と言った。レナがしゃくり上げながら「グライさまは」と言ったが、アイシャはそれを無視した。

「失礼致します」

 アイシャがレナを引きずるようにして歩き出す。レナは何度か何とも言えない悲しげな目でグラーイスを振り返ったが、グラーイスには何も言えなかった。

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