金星記 第10話 「仲良くしては、くれないかな?」

 母は強し――グラーイスはそんな言葉を思い出した。そういうところは意外と男の方が繊細なのかもしれない、とも思った。

 グラーイスは、自分の部屋の布団の上に寝転がったまま、「仕事ですから」と言って翌日もやって来たアイシャを見上げて、呆然としてしまった。

「……よ……よく来たね……嫌ではなかったのかい……?」

「繰り返しますが、仕事ですから」

「母上に言って替えてもらう、とかということは考えなかったのかな」

「昨日のレナの件については私も反省するところがありましたので、これでおあいこだと考えております」

 アイシャが仕事道具を引っ張り出しつつ言う。

 「昨日のレナの件、というと?」とグラーイスが問うたら、彼女は「あの後娘から聞きまして」と応じてくれた。

「まさか、グライ様がレナを私の娘だとはご存知でないのに相手をしてくださったとは、思いもしませんでしたから」

「ということは、つまり、僕がレナちゃんを君の娘だと知って声をかけて娘から懐柔しようとしていた、という風に解釈されていたのかな」

「ええ、人質にとられたと思いました」

 何となく予想してはいたものの衝撃だ。いくら自分でもそこまで卑怯なことはしないと言いたいが、それを凌ぐほど卑怯なことはしようとしていたわけである。

 大人しく包帯を替えてもらった。会話はない。当然だ、彼女は仕事だから来たのであり、本当は自分とは会いたくなかったはずなのだ。

 すぐ手の届くところにいるのに、天まで届く壁が築かれたような気がする。

「――母上なら、事情を話せば分かってくれると思うんだけれども」

 アイシャはグラーイスの顔を見ないまま、「そんなに告げ口されたかったのですか」と答えた。

「貴方様にはご理解いただけないかもしれませんが、フォルザーニーご本家の直系のご次男と貧乏貴族の未亡人である私ですと、いくらマリッダ様が女性に甘いお方だとしても、世間が分かってくれないのですよ」

 世間などどうでもいいのでは、と思うのは、たぶん、自分がフォルザーニー家の息子だからだ。フォルザーニーの名をかざせば、一般大衆は黙らせることができる。簡単にそう言ってしまえるほど子供ではなくなった。

「私が一人ならそれでよかったかもしれませんが、レナがおりますので。レナが将来嫁げなくなっては困ります」

 グラーイスは十年以上先の話を持ち出されても困るが、彼女の方は母親として十年以上先の娘の身の振りようも見据えておかねばなるまい。この溝はどうしても今のままでは埋められない。

「それに、明後日には元のサイーダが戻ってまいります。加えて、」

 悲しい。

「ここまでお元気ならグライ様もいい加減蒼宮殿にお戻りになりますでしょ」

 君がここにいるのならここにいる、と言って駄々をこねれば、さらに嫌われること間違いなしだ。元気ではない、恋の病にかかってしまった、と言い出したら、間違いなく軽蔑される。

 アイシャがとどめを刺すかのように言ってくれた。

「ご健康な若い殿方が働かずに何もせず日がな一日寝ておいでだなんて、私は許せません。夫は、働きたくても働けない身になってしまったんですもの」

 それでも、亡き夫のことを今も『夫』と呼ぶのだ。

 アイシャの言葉一つ一つが棘のように痛い。

「その……、アイシャ。忙しいところ申し訳ないけれども、あともう少しだけここにいてくれないか。君に謝りたい」

 アイシャが手を止め、こちらを振り向いた。それに、ほっとした。

 もう選べる手段はなかった。ありのまま素直に話すしかない。

「昨日のことは本当に申し訳なかったと思っている。嫌われても仕方がない。ただ、僕は君のご主人が亡くなっているということを本当に知らなかったんだ。それを言い訳にするつもりはないけれども、僕は死者に対してあのような、礼を欠くようなことを言いたかったわけではないんだよ。それだけは、分かってほしい」

 アイシャがふと、顔を背けた。帰られてしまうかと思ったが、立ち上がりまではしなかった。

「もう二度とああいうことはしないよ。だからその……、そんなに警戒しないでほしい」

「レナが言うんです」

 唐突だったが、グラーイスは自分の言葉を遮られたことを気にかけず、できる限り優しい声で「なに」と続きを促した。アイシャは、自分の腕を擦りつつ、ゆっくり語った。

「レナが泣いて言うんですよ――あまりグライ様を怒らないであげて、と。いったいレナに何をなさったのか、あの子ずいぶん貴方様に懐いているみたいで、もう二度と近づいてはいけませんと言うつもりが、言えませんでした」

「そう……、それは嬉しいけれども……、でも、レナちゃんのことはレナちゃんのことで、君のことは君のことだと思うよ。君まで無理をすることはない」

「レナはまだ四つにもなりませんし、また特別ああいう性格の子ですから、嘘をついたり周りの機嫌を窺ったりということはしません。そんな子が、ああ言うんですもの。貴方様が悪い人ではないことぐらいは、私にも分かります」

 つい、表情を緩めてしまった。

「レナに、私にふられてしまったとおっしゃったそうですね。レナが仲良くしてあげてと言うんです。困ったものですわ」

 そう言うアイシャの表情も、先ほどに比べれば優しい。

 これは、まだ、いける――グラーイスはそう早合点した。まだやり直せる、と思ったのだ。

「仲良くしては、くれないかな? その……、こんなこと、昨日の今日で言うのも軽々しいと思われてしまうかもしれないけれども……、僕は、本気で、君を僕の妻に迎えたいと考えている」

 こんなことをこんなに真面目に言うのは、十三の時にハルーファに駆け落ちを提案した時以来だ。

「今すぐとは言わない、君が亡くなったご主人のことをまだ想っていたいのだと言うのならばそうすればいい。それに、僕はその、君がそこまで言うのなら、そろそろ蒼宮殿に帰る支度を始めようと思うし……。でも僕のことも忘れないで、たまには僕が君の良い返事を待っていることを考えてくれないか?」

 アイシャは少しの間黙った。グラーイスは柄にも無いことを言ったこととアイシャの返事が気になるのとで珍しく緊張して息を飲んで待った。

「グライ様はまだ一度もご結婚なさったことがありませんよね?」

「え? ああ、うん。僕は結構前からもう勝手に僕の中で君を僕の第一夫人の座に据えていたけれども」

「グライ様は、お若いし、アルヤで最高のおうちにお生まれですし、未来がおありですもの」

 グラーイスは、目を、丸くした。

「第一夫人には、どこか、エスファーニー家やデヘカーン家のような大きなおうちから、年下で処女の娘を迎えた方が良いと思いますよ。私は年上で子持ちですもの、第二、第三夫人ならまだしも、第一夫人では問題があるでしょう。グライ様ももう少し、ご自分の人生設計をよくお考えになってください」

 頭ごなしに拒まれるより痛い返事だった。

 グラーイスが何も言えないでいると、アイシャは立ち上がり、「失礼します」とだけ言って頭を下げ、部屋を出ていってしまった。引き止めることも、見送ることも、できなかった。

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