金星記 第11話 「なのにこんなの、あんまりです」
「ぼーうやー。はーいるわよー」
唐突にアミーナの声が聞こえてきたので、グラーイスはぎょっとして顔を上げ、慌てて服の袖で頬の涙を拭った。
「ちょっ、待ってください! 入らないでほし――」
言っても無駄だった。扉の開く音がして、母の声がよりはっきりと聞こえるようになった。
「どぉしたのぉ~? どこか痛いのぉ~? それともママに言えないよーなことでもしてたのかなぁ~?」
顔を見られたくなかった。とりあえず布団に顔を埋めた。
母の気配はすぐそこにある。きっと寝台のすぐ脇に立っていることだろう。
「どっおしったのっ。ご飯よー」
「僕、今日は夕飯いらない」
「あらら」
「珍しい」と言われてしまった。自分は他の家族とは違って繊細なのでそういうこともあるのだ、と言ってやりたかったが、相手が彼女だと思うと、どんな小さな反抗も十倍にも百倍にも解釈されるのは目に見えているので、実行には移せない。
「もう広間に戻って、他のみんなにもそう言ってください。僕は今日はもういいんです、本当に」
アミーナはしばらく黙って自分を眺めていたようだ。何となく視線を感じて、グラーイスは少し居心地が悪いのを感じた。相手が悪い、こっちの分が悪い。彼女に何も言わせずに追い返すのは至難の技だ。そうと分かっているからこそ、マリッダやグレーファスも彼女を遣いに出したに違いないのだが――なんと面倒臭いことか。
ややして、寝台の軋む音がした。柔らかい布団の上にいた自分の体がわずかに傾いた。
「じゃ、ママもご飯いーらないっと」
驚いて、思わず上半身を起こした。
すぐ隣に、彼女も寝転がっていた。
目が合うと、彼女が微笑んだ。
白くて細い腕を伸ばして、グラーイスの頭を撫で始めた。
彼女の香りがした。
大人ぶって振り切り西方大陸へと旅立った日を思い出した。あの日も、彼女は今のように優しく微笑んでいた。
何も、変わらない。まったく揺るがない、温もりが、ある。
そう思ったら、また涙が溢れてきた。
甘えたくなって腕を伸ばした。いつの間にか男らしくなった自分の腕は、彼女の華奢な体を抱き寄せるには充分だ。彼女が嬉しそうに「きゃあ」と笑う。
蒼宮殿から連れ帰られ、しばらく昏々と眠ってからようやく目覚めた日、彼女は、自分の乳が恋しかったらそう言ってもいいのだ、と言った。その時は冗談ではないと思ったが、今は彼女の胸に顔を埋めた。そうしたい気分だった。そうしても、彼女には、怒られない。自分は、存在しているだけで彼女に愛されるに足る存在なのだ。
どれほどの時間が過ぎた頃だろうか。息子の息遣いが落ち着いてきたのを察したのか、アミーナが「ねぇ坊や」と囁いた。
「どぉしたの? ママにはお話したくない?」
グラーイスは一瞬、黙った。わずかの間、ためらった。
顔を上げて、彼女の表情を確かめようとした。
彼女の透き通るようなはしばみ色の瞳が、自分を真正面から見つめていた。こんな風に見つめられたら、ごまかすことは難しい。
拗ねた子供のように下を向く。しかしそれを彼女が叱ることもない。
「ねぇ、母さん」
「はぁい?」
「僕は……、そんなに魅力がないですか? 僕はこれでも結構自信があったんです。なのにこんなの、あんまりです」
言いながら、また涙が零れたのを感じた。アミーナはちょっと笑うと、口づけて吸い取るようにして拭ってしまった。
「とてもつらい想いをしたのね」
そう囁く声が染み渡る。
「でもね、坊や。悔しい想いをすればするほど、強くなれるのよ。だから、大丈夫。いっぱい泣いた分魅力的になるのよ」
「そうかなぁ。もう二十歳なのに……まだ子供だってことが分かりました」
「そう言われたの?」
「……ううん……、そうではありませんが」
「ママはそうは思わないわ。でも、これからもまだ変われると思う。今はゆっくり休んで、のんびり気持ちを整理すればいいわ。焦ることは何にもないの」
「ママがずっと抱き締めていてあげるから」と、彼女は言った。普段なら笑って押し退けるところだが、今日ばかりは感謝した。
また、彼女にしがみついた。いつもは馬鹿にしているが、本当は、母は偉大なのだ。自分は、この人の腹の中から出でたわけである。それを痛感した。
「坊やはママの、宝物~」
アミーナが歌いながら背中を撫で始めた。グラーイスは、その調子外れな歌に、ちょっとだけ笑った。
アイシャは、部屋の真ん中でレナが大人しく人形遊びをしているのを見つけて、息を吐いた。
母の帰宅に気がついたらしい。レナが人形を右手に握り締めたまま立ち上がって「かーさま」と微笑む。
「おかーさま、おかえりなさいっ!」
「はい、ただいま」
レナが駆けてきて足元にしがみつく。そんな娘の髪を撫でる。
「かーさまあのね、レナちゃんね、きょうもイイコしてたよっ」
「そう……ありがとう。お母様、本当に嬉しい」
床にしゃがみ込んでレナを抱き締める。レナが嬉しそうに笑って「ぎゅー」と言いながらしがみつき直す。
「ごめんね……お留守番ばっかりね」
「んーん、んーん、レナちゃんね、ユーファちゃんといっぱいあそんでたしね、グロルさまともあそんでたしね、ねこちゃんもいたしね、だいじょーぶよっ」
「あら、そうだったの。グロル坊ちゃまにもいつかちゃんとお礼をしなければね」
「えー? レナちゃんいっぱいありがとーってゆったよ?」
「お母様からも言いたいの。言いたいからいいのよ」
「んー……そっか」
身を離して、レナと向き合った。レナは人形を抱いたまま大きな瞳でアイシャを見上げていた。
頬を撫で、「もうお着替えして、お布団に入りましょうか」と囁く。レナが「おかーさまもー」と笑って言う。「そうね」と答えて立ち上がり、着替えを納めた籐の篭の方へ歩いた。
「おかーさまはきょう、なにしてたの?」
「何してた、って……、ずっとお仕事よ? レナちゃんを置いて遊びに出かけたりはしないのよ」
「そぉなの? つまんなくなぁい?」
「そうも言っていられないの」
レナがアイシャの手をつかみ、「かぁさまもたのしいといいねぇ」と言った。アイシャは苦笑してレナの手を離し、代わりにもう一度抱き締めた。
「レナちゃんは楽しいのね……よかったわ、本当に」
「レナちゃんおかーさまもたのしいのがいいー」
「そうね……楽しく過ごせたらいいんだけど――」
そこまで言ってから、アイシャは「そうだわ」と呟いた。
「お母様、今日ちゃんとグライ様とお話してきたわよ。レナちゃんが怒るから」
レナが首を傾げた。
「グライさまおゲンキでた?」
アイシャは苦笑した。
「――かどうかは、分からないけれど」
「そぉなの……おゲンキいっぱいでるといいねぇ」
「そ……そうねぇ」
「それでね」
次のレナの言葉に、アイシャは心臓が跳ね上がったのを感じた。
「おかーさま、グライさまとケッコンする?」
「えぇ!?」
アイシャの大きな声に反応して、レナの方が目を丸くして驚いた顔をした。
「何を急に言い出すのこの子は!」
「えー……だって、グライさま、おかーさまにふられちゃったんでしょ? それでね、ナカナオリしたんでしょ? そしたら、ケッコンしないの?」
アイシャは頭を抱えた。
「あのね、レナちゃん。仲直りしたからと言って結婚するとは限らないの。グライ様はお母様にふられました。それで終わりです」
「えぇー? つまんないのー」
「つまらないとかそういう話ではありません。大人の世界は難しいのです」
レナの服に手をかけつつ、眉間に皺を寄せた。
「お母様はもうレナのお父様と結婚したでしょ。だからもうしないの。結婚は一回だけなの」
「でもぉ……」
「何が、でも、なの。レナのお父様だけでいいんです」
「いないもん」
レナが口を尖らせる。アイシャが目を丸くする。
「おとーさま、もぉいないもん……。レナちゃんとあそんでくれないの」
「ユーファちゃんのおとーさまはユーファちゃんをぎゅってしてくれるのに」とうつむく。
「レナちゃんのおとーさま、レナちゃんのこと、ぎゅってしてくれないもん。レナちゃんもうグライさまのがいいな」
「そんな言い方……、お父様は、あんなにレナのことを可愛がってくださったのに。レナが生まれた時は、毎日ぎゅってして、ちゅってしてくれていたのよ」
「レナちゃんがうまれたとき?」
「レナが赤ちゃんだった時よ。今よりもっと小さかった時」
レナが首を傾げる。
「わかんない」
アイシャが沈黙すると、レナは慌てた様子で歩み寄ってきて、アイシャのすぐ目の前で「おゲンキなくなったの」と問うてきた。
「レナちゃんのせい? レナちゃんのせいなの?」
「違うわ……、レナちゃんは何にも悪くないの。ただ、お母様はレナちゃんがお父様のことを忘れてしまうのがすごく寂しいの」
「さみしいの?」
「そう」
「レナちゃんずーっとおかーさまといるよ。だから、おゲンキだして」
「ありがとう」
レナを抱き締めた。レナはレナで、慰めたいのか、短い腕を伸ばしてアイシャの頭を撫でようとしている。
「ごめんなさいね……」
「うぅん、うぅん、レナちゃんだいじょーぶ」
「でもね、レナちゃん。本当にね、お母様はもう結婚しないのよ。それに、グライ様のお嫁さんは、お姫様でないとだめなの。お母様はお姫様ではないから、グライ様のお嫁さんにはなれないわ」
腕の中で、レナが黙った。
「さ、早くお着替えして、お布団に入りましょう」
アイシャがそう言ってレナを離すと、レナはやがて「はぁい」と答えた。アイシャはもう一度「ごめんね」と呟いてから、レナに寝間着を着せ始めた。
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