金星記 第12話 「夢は大きくはばたけ」

「――と言われたんだよハルーファどう思う!?」

 大真面目な顔で訴えてきた義弟の顔を見つめて、ハルーファも眉間に皺を寄せ、口をあんぐり開けてから、「それは酷い」と答えた。

「えーっ、それはないわ! 信じられない! いくら私でもそれは言わないわよ!」

「だよねだよねだよねっ、僕は間違っていないよねー!?」

 翌日の昼下がりのことである。

 グラーイスはまたハルーファが子供の世話のために空けている部屋に乱入してハルーファに事の一部始終を語り聞かせていた。今日はたまたまユーファがレナと妹を連れて中庭に遊びに出てしまったとのことで、今はハルーファしかいない。

「そんなことがあったの……やってくれるわねアイシャ」

 ハルーファが一人腕組みをして呟く。丸一日経ってようやく復活したグラーイスが、「そうなんだよ、もう本当に僕も困るよ」と力いっぱい訴える。

 気分さえ回復すれば後はどうにでもなるのだ。昨日とは違い今はこうしてぶちまけることに快感さえ感じていた。

「さすがにそれは酷いわね。処女だから何だと言うのよ? むしろ一回産んだことのある女を妻に迎えるべきよ、どこぞの将軍家の嫁じゃないけど体力がない女って子供を産むだけで死ぬもの、産んでも生き残っている女こそ家の繁栄に貢献する良い女よ」

「それも極論だとは思うけれども……でも僕も未経験の女性とそうでない女性にどれくらい差があるかと問われたら答えられないよ。いや、どこぞのスケベ親父みたいに若々しい肌と初々しい反応が好きだと言うのなら分からないでもない。が! 僕は! 年上が! 好きだ!」

「知ってる」

「そして僕の年で年上がーとか言っていると、僕はもう結婚できないかもしれない。僕より年上の生娘なんていったいエスファーナにどれくらいいるんだ……」

 ハルーファが「うーん」と唸って天を仰いだ。グラーイスは反対に頭を抱えて床に寝転がった。柔らかなアルヤ絨毯が気持ち良い。

「アイシャがどうしても年下が嫌だからだめだと言うのならまだしも、そんな、いかにもお前のためだみたいな言い方をされたら、本当に傷つくっ」

「そうね。でも、」

 顔を上げると、ハルーファは意味深に微笑んでいた。

「これで逆に吹っ切れたのではないの? もういいでしょ。癪だけど、あんたが婿入り先を募集すると言ったらエスファーナ中の乙女が殺到するわよ。その辺から適当に運命を感じるのを選んで婿に行けばいいじゃない」

 しかしそれには、グラーイスは「心外だ」と呟いて首を横に振った。

「この程度で諦められるようならそこまで傷つかない。逃げられれば、追うまでだ」

「おお。あんたも男らしいことを言うようになったわね。暑苦しいから私は嫌だけど」

「でも今はちょっといいな。僕も休憩するよ……」

「はいはい、その辺は好きにおし」

 「絶対アイシャでないと嫌だ」と、拳を握り締めて言う。ハルーファは「そこまで」と笑った。

「逆に言えばだよ、ハルーファ、そこまで言うのなら、一度僕と結婚してくれれば彼女が浮気することはないのではないかと思わない? それに、いくら乳母をつけると言っても、子供の成長には産みの母親も必要になることがあるよ。その点では、そこまで自分の娘を愛せるアイシャなら心配ないだろう? おまけに頑固だ、根性がある」

 「言われてみればね」と賛同した。

「あんたみたいなのは、アイシャみたいに腰を下ろしたらどっしり構えて絶対に動かない女が手綱を取っていた方が良いのかもしれないわね」

「さりげなくダメ出しされたような気がする」

 「で、これからどうするの」と問われた。グラーイスは身を起こしつつ「だから、休憩だね」と答えた。

「アイシャにも言われたことだし、他にすることがないから、そろそろ宮殿に帰る支度をしようかと思う」

「することがないからってあんた」

 ハルーファが溜息をつく。

「何のために戻ってきたのか忘れたの? 調子はどうなのよ」

 そう言われると、グラーイスは何となく、それでもなお自分は愛されているのだ、という気分になるのだった。

 自分は、独りではないのだ。この家に戻れば、いつでも愛してくれる人々がいる。

 だが、だからこそ、安住していてはいけないのだ。

「夢は大きく羽ばたけフォルザーニーの子」

 拳を握り締め、呟く。

 自分は、誰も辿り着いたことのない高みを目指すために生まれたのだ。アルヤ王国でもっとも高みにある蒼宮殿こそが今の自分にもっともふさわしい舞台だ。

「宮殿に帰るのが、休憩なの」

 ハルーファが苦笑した。グラーイスは「もちろんさ」と答えた。

「挫折したら帰ってくるから安心したまえ!」

「あんたはまた大きなことを」

 「やれやれ」と言って息を吐くハルーファの表情は優しい。

「そうと決まれば支度をしに部屋に戻るよ。それから父上と母上と母さんに明日にでも戻るつもりだと話をしに行かないと」

「グレフにも一言断りなさいよ、あの人一度拗ねると本当に長いんだから」

「了解!」

 ハルーファがひらひらと手を振った。グラーイスは満足して意気揚々と部屋を出た。


 ハルーファと過ごした部屋から自分の部屋へと戻る前に、グラーイスは少し寄り道をした。レナのために花を取ってやった薔薇園に、だ。

 今年の薔薇は今年にしか咲かない。来年には、また別の薔薇が咲く。それは、同じ品種であっても、異なる美を、異なる生を有している。そしてそれを堪能するのが、フォルザーニー家の者としての務めだ。

 座り込んで薔薇の眺めを楽しんでいると、どこからともなく小さな軽い足音が聞こえてきた。

 音のする方に目を向けた。

 同時に、「サラーム」と声をかけられた。

「あれ、レナちゃん」

 真面目な顔をして隣に座り込んできたのは、忘れるはずもない、アイシャの一人娘のレナだ。

「サラーム? どうかしたのかい?」

「グライさまおっかけてきたのっ!」

「ユーファは?」

「ユーファちゃんおへやでおひるねって!」

「レナちゃんはお昼寝はしなくていいのかな」

「レナちゃんねむないの! レナちゃんはグライさまとおしゃべりするのよ」

 グラーイスはつい、笑ってしまった。彼女が自分とのお喋りの最中で眠ってしまったら自分が部屋まで運んでやらなくてはならないだろう。それはそれで楽しそうだ。アイシャには申し訳ないがレナが望んでいるのだから仕方ない。

「僕とお喋りを? レナちゃんみたいに可愛いお嬢さんにそう言ってもらえると、嬉しいな」

「ホント?」

 レナの大きな栗色の瞳が輝く。その色はアイシャと同じだ。顔立ちこそ似ていないが、レナとアイシャは同じ色合いをしていた。

「グライさまレナちゃんとおしゃべりうれしい?」

「もちろんだとも。で、何のお話だろう?」

「あのねっ」

 笑顔を作って短い腕を伸ばした。それから、グラーイスの服の袖をつかんだ。

「レナちゃんグライさまのおよめさんになったげるよー!」

「何だって!?」

 レナにとっては、予想外の反応だったのだろう。悲しそうな顔をしたので、グラーイスは慌てて「いや嬉しいけれどもね」と訂正した。

「急だから驚いたよ。どうして僕のお嫁さんになってくれる気になったのかな、ぜひとも聞かせてほしい」

 彼女は「うんとね」と一生懸命説明し始めた。

「レナちゃんのね、おかーさまはね、グライさまとケッコンしないんだって。なんでってゆったらね、おかーさまね、グライさまのおよめさんは『オヒメサマ』じゃなきゃダメってゆうのよ。でもね、ほら、レナちゃんはおかーさまの『オヒメサマ』じゃない! レナちゃんならおよめさんなれるね、っておもったの」

 グラーイスはつい、吹き出してしまった。レナがまたもや心外そうな顔をした。

「そう、レナちゃんのお母様、そんなことを言ったんだね」

「うん。きのうおはなししたの」

 レナは真面目な顔をしている。グラーイスは子供の考えることは面白いと思いながらそんな彼女を眺めた。

 南部や東部の貧しい家庭では、家を継げない娘は、こっそり殺してしまうことがあるらしい。アルヤ王家に娘を嫁がせて繁栄の足がかりをつかんだ歴史を持つフォルザーニー家からすれば言語道断の風習だが、この大都会エスファーナでも、貧しい家では娘は悲惨な扱いを受けると聞く。

 だが、そうでない愛情と経済状況が豊かな家では、とても貴族とは呼べない庶民の家でも、親は娘を『うちのお姫様』と言って可愛がる。

 何となく、レナを抱き締めて「レナちゃんはお母様のお姫様」と囁いているアイシャの姿が浮かんだ。

 アイシャは王侯貴族の姫君のことを指して言ったに違いない。しかしそんなことなどレナに分かるはずもない。

 レナは真剣な顔でグラーイスの返事を待っていた。気づいて、グラーイスはレナの頭を撫でた。

「気持ちは嬉しいけれども……、レナちゃんはまだ小さいからなぁ。三つでしょう?」

「もーすぐよっつ!」

「あと二十年くらいしたら考えるよ。グライ様は女性は二十歳からだと思っている」

「にじゅう……? にじゅうって、にとじゅう?」

 グラーイスから手を離し、自分の両手を広げて見た。どうやら両手の指の数だけは数えられるらしかった。

「残念だけど、レナちゃんのおてての指とグライ様のおてての指を全部合わせた数になるね」

 グラーイスも手を広げた。レナが「いっぱいー」と悲しげな顔をした。

「ま、それくらい時が流れたら、レナちゃんもきっと今日のことなんか綺麗さっぱり忘れ去って本当に気に入った男と結婚していることだろう」

「えぇー」

「残念でした」

 レナが頬を膨らませてうつむいた。グラーイスはそんな彼女の頬を突いて遊んだ。

 やがて、彼女はまた顔を上げた。

 力強い声で言ってくれた。

「じゃあ、おかーさまをグライさまの『オヒメサマ』にしてよー。そしたらおかーさまがグライさまのおよめさんになれるでしょー?」

 グラーイスは目を丸くした。

 レナの目は真剣そのものだ。

 ややしてから、グラーイスはふと、吹き出した。

「レナちゃんに言われてしまうとはね」

「えっ? なになに?」

「レナちゃんの言うとおりだ、ということだよ」

 レナが嬉しそうな顔をした。それに満足して、グラーイスも微笑み返した。

「それでは、レナちゃんに約束しておこう。よく聞いていてほしい。あのね――」

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