金星記 第13話 「僕は、絶対に、諦めないんだからね!」

 グラーイスは、蒼宮殿から届いた手紙を読み返して、また、笑ってしまった。何度読んでも笑いがこみ上げてくる。おかしいのと、愛しいのと、ほんの少しだけ悔しい。たいへん複雑な気分だ。

 グレーファスが「ライルくんからの手紙?」と訊ねてきた。グラーイスは「そう」と頷いた。

「まったく、何年アルヤ語圏に住んでいるのやら。このままでは彼は一生アルヤ語のつづりを知らないまま過ごしそうですよ」

 手紙をたたんで封筒へしまう。

「チュルカ語にはこの文字に当たる音がないから難しいんでしょうね。この一件が片付いたら、セフィーだけでなくライルも呼んでお勉強会をしようかと思います」

 ライルからの手紙が届いたのは、数日前の午後のことだ。グラーイスが、翌日蒼宮殿に戻ることを告げるため、父の部屋に向かっていた時のことである。ちょうど廊下で遭遇した兄に呼び止められ、この手紙を渡されてその場で読み始めた。

 即刻予定を変更するはめになった。

 ライルの手紙は、シャムシャがセフィーとの結婚を決めたこと、しかも早まって自分に報告する前にセターレスに対して結婚を宣言してきてしまったことを報じていた。

 セフィーを王家に嫁がせ王妃に仕立て上げようと目論んだのは自分だ。しかし、そのグラーイス自身も、ここまでとんとん拍子に話が進むとは思っていなかった。シャムシャの猪突猛進ぶりは想像をはるかに超えている。なぜセターレスに言ってしまう前にまず自分に言ってくれなかったのかと思った――には思ったが、「いないヤツはどうでもいい!」と言ってライルを振り切るシャムシャの姿がすぐに頭に浮かんだためグラーイスは考えるのをやめた。

 グラーイスは――否、ナジュムは、すぐさま筆を執りライルへの返事を書いた。本文の本題は、必ずフォルザーニー家が後援するから焦らずに待つこと、とは言えシャムシャの気の短さを考慮して当家では今週中には決着をつける予定であること、などなどである。最後に、親愛なる女王陛下のおかげで僕の仕事は増えた、次の出仕はもう少し後になりそうだ、とも付け足した。

 遠くから、ハルーファの「ちょっとグレフーっ、早く衣装見てーっ」という声が聞こえてきた。グレーファスが「はいはい今行きます」と言って手を止めた。ハルーファは婚姻の儀で『セフィーディア姫』の親族の女代表として出ることになったのだ、準備に気合を入れているらしい。グレーファスは「呼んでいるのでちょっと見てくるよ」と溜息をついた。グラーイスが「えーっ」と顔をしかめる。

「ちょっと兄上っ、僕をこのまま放置していくおつもりかっ」

 今衣装合わせをしているのはハルーファだけではない。白い衣装の裾を抱き、下には下着しか身につけていない姿で、グラーイスが「兄上は僕とハルーファのどっちが大事なんですか!?」と叫んだ。グレーファスが珍しく弱った表情で「それは父上と母上のうちから好きな方を選べと言われるより選びがたいね!」と答えた。

「誰か手伝いを呼ぼう! ねっ!」

 結局、それだけを言ってグレーファスは部屋から出ていった。廊下から、「誰か! 誰か着替えを手伝うように!」と言う声は聞こえるが、それに対する返事は聞こえない。これは期待できそうにないと判断したグラーイスは、抱えていた衣装を床に投げ捨て、とりあえず下を穿けばいいだろうと白い筒袴を探した。

 グラーイスがようやく下着を覆い隠せた辺りで、ようやく誰かが「はーい」と返事をした。

「どなたのお手伝いをすればよろしいので――」

「こっち! 僕!」

「グライ様ですか」

 声の主に心当たりがある。

 振り向いたら、案の定、そこにアイシャが立っていた。

 彼女は「あらあら放り出して、大切な衣装が汚れてしまいます」と言って衣装を掻き集めた。グラーイスは余計な手間を増やしてしまったことを申し訳なく思って「すまない」と言った。

「すぐに済ませますからね。はい、手を挙げて」

 きっと普段からレナにこういうことをしていて慣れているのだ。今の自分はレナと同じ次元なのだ。逃げ出したくなるが肩に衣装をかけられた今そうするわけにはいかない。

 グラーイスが大人しく黙って言われるがままにしていると、アイシャが「戻られるのですか」と訊ねてきた。慌てて「なに」と問い返す。

「私はただの下働きですから、詳しい事情までは存じ上げませんが。蒼宮殿で何かあったのですね」

「ああ、そうだね、別に家の者にまで隠すつもりもないのであとで母上かハルーファに聞いてくれればいいと思うけれども――端的に言うと、国王陛下が御成婚なさることになった。そしてそのお相手が、我が家が推薦した女性なんだよ」

「まあ、おめでたいことですね」

 「でも、内密にしておくべきでしょうか」とアイシャが問うてきた。グラーイスは、そういうところにもきちんと気を回してくれる彼女に、感謝した。

「本当は、君にもきちんと説明しておきたいんだけれども……、ちょっと複雑な話なんだ、こんな慌しい状態ではなくもっとゆっくり話をしたい。話をややこしくしたのは僕なのだから、僕自身が説明した方が分かってもらえるとは思っている。でも、僕は今自分の処理能力の限界に挑戦しているんだよ、いっぱいいっぱいなんだ」

 アイシャがふと、笑った。

「それは、私のせいでしょうか」

 グラーイスは頬が熱くなったのを感じた。自分は彼女の手の平の上で踊っているのではないかとさえ思えてきた。

「はい、お支度が済みましたよ」

 最後に肩を払った後、彼女が一歩離れる。あれだけ気まずく思っていたのに、離れられればそれはそれで寂しく思うのだから自分の心理も複雑だ。

「それで、蒼宮殿に戻られるわけですね」

 静かにそう言われて、グラーイスが「ん」と苦笑する。

「今回は婚姻の儀の段取りの打ち合わせだから、場合によってはもう一度この家に帰ってくることもあると思うけれども……、いずれにせよ、近いうちにまた蒼宮殿で暮らす生活を始めることになると思う」

 あのライルが、手紙を書いてきたのである。

 ライルは今でこそアルヤ人と変わらぬ程度までアルヤ語で会話できるようになったが、読み書きは今もそう得意ではなく、自分の名前以上に長いものは書きたがらなかった。それを押して、自分に手紙を書いてきたのである。それも、つづりの間違いはともかく、一応体裁としては序破急の整った長文だ。

 しかも、最後に、追伸、と称して、彼はこんなことを書いていた。

 ――体の調子はどうだ。いつ頃戻る予定だ。調子が悪いのならふたたび宮殿で生活しろとは言わないが、連絡だけでもよこすのはどうだ。

 そちらが本題なのだろう、などという意地悪は言わないでやるつもりだ。

 自分が西方大陸に旅立つと言ったら泣いて嫌がった少年の頃の彼を思い出す。

「僕の王子様が僕を恋しがっている。すぐにでも会って抱き締めてやりたい」

 拳を握り締めた。

 馬にて共に参ることは叶い申し上げぬが、私は私なりに我が戦の場にて御君が為に舞ってご覧に入れん――この世で唯一の我が君。

「僕は、やるよ。君にも胸躍る最高の舞台を見せてあげよう。君には僕の隣でこの国が動くところを見てほしい」

 そう言うと、アイシャは少し、驚いた顔をした。

「期待して待っていてくれないか。僕はきっと大きなことを成し遂げて、もっと大きくなって、君にも認めてもらえるような男になってみせるからね。きっと君から僕を選びたいと思えるような男になる。君はもう僕に付きまとわれる心配をせず、自然とその時が来るまで心穏やかに待っていればいい。君がそう思ってくれる日が来たら今度こそ君を引き取る。もちろんレナごとだ」

「グライ様……」

「僕はね、絶対に、愛も忠義も家も夢も全部守り通すよ。やりたいことのためにこの家を捨てたりしないし、ライルのために君を捨てたりもしない。だから、君も、レナや自分の信念を捨てることなく、ただ時が来るのを待っていればいい。僕も全部だから、君も全部で公平だ。その上で、きっと僕もと言わせてみせるから。僕は、絶対に、諦めないんだからね!」

 グラーイスは、「よし」と呟くと、そのまま部屋を出た。アイシャの方は振り返ることもしなかった。

 もう焦ることはない。彼女に認めてもらえるまで、何も恥じることのない自分を貫き通せばいい。だから、振り返る必要はない。

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