マーイェセフィド外伝まとめ
日崎アユム/丹羽夏子
白日記(ラシード編)
白日記 第1話 プロローグ
今日もまた、新米が一人上官にしごかれて泣き出した。
ラシードは、口先では彼を慰めつつ、内心苦々しく思っていた。
白軍兵士は人気職だ。貴族や大商人の子弟ばかりが入隊する。たいていの者はここに来るまで挫折や苦労を知らない。
彼らの上官がどれだけの愛情と労力を彼らに傾けていることか。これからまだ体も育つであろう彼らのために食事内容に口を出し、訓練中に嘔吐したり倒れたりしないよう食事と休憩の間隔を計算し、気温と日照具合にまで気を配る。本音を言えば、そんな暇があったら宮殿の外に見回りに行ってほしかった。
太陽が西の塔の最上階より低くなったため、ラシードは新兵たちに解散を命じた。他の隊員たちは素直に従ったが、目の前でぐずっている少年兵だけは動こうとしなかった。まだ何か言いたいことがあるらしい。仕方なく、聞いてあげることにした。
「君は、年はいくつだったかな」
「次で十八であります」
「学校は?」
「この春エスファーナ大学を卒業しました」
「そう、優秀なんだね。ご実家は?」
「タウリスです」
「そう……、エスファーナに出てくる時、ご両親は何ておっしゃった?」
少年兵が泣き崩れた。ラシードは、しょうがないと自分に言い聞かせて、彼の次の言葉を待った。
脇から声がした。
「何をぐずぐずしている」
振り向くと、ライルが腕を組んで立っていた。不機嫌そうな顔をしている。
「ライル?」
「軍人がこのように人に見られる場所でおいおいと泣くとは何事か。恥を知れ」
少年兵が顔を上げ、涙をそのままにライルを睨みつけた。
「お前らのような肝の据わらん兵士のせいで俺や王本人が苦労しているんだぞ?」
「ですが――」
「わざわざ将軍の手を煩わせるその根性も気に食わない、お前がそうした分将軍の仕事が増えるのにも気づかないのか?」
次の時、ライルはとんでもないことを言い出した。
「そんな暇があったら腹の立つ上官に斬りかかればいいのに」
さすがは実力主義のチュルカ人の王子だ。
少年兵の顔つきが変わった。彼は「分かりました」と頷いて涙を拭った。
「僕は今貴方にとても腹が立ったので、いつかは斬りかかるかと思いますが、それでも構いませんよね」
ぎょっとした。思わず「こらッ!」と怒鳴った。ライルの瞳は蒼いのだ。父親はチュルカ人でも王の従兄である。
しかし、当のライルは平然とした顔で「もちろん」と答えた。
「いつかと言わず、今でもいい」
「いえ、今は宿舎に戻ります。万全の状態でやりたい」
「それならとっとと帰って飯を食って寝ろ」
少年兵がラシードに向かって「失礼致しました」と敬礼する。それから足早に去っていく。ラシードは呼び止めることもかなわず、溜息をつきながら見送った。
「あのねぇ、ライル」
ライルが「なんだ」とぶっきらぼうに答える。
「どうしてあんなことを?」
「別に構わないだろう。矛先は結局俺に来た、白軍の教官をしている兵士も弱くはない」
「そういう問題ではなくてね――」
「お前は腹が立たないのか? ああいう生半可なやつが白軍兵士を名乗る。お前は白将軍以外を名乗ることを許されない」
ラシードは苦笑して、首を横に振った。
「でも、おかげでひとつ分かったよ」
「何だ?」
「彼は大丈夫そうだ。ああやって反発できる子はまだやれる」
今度はライルの方が顔をしかめた。
「辞めるやつがいるのか?」
「残念ながらね」
ラシードは回廊の縁に座った。
すぐそこで、人工の小川がさらさらと流れている。
「ライルの言うとおりだ。彼らは白軍を、かっこよさそうだ、収入もよさそうだと思って入ってきて、挫折を覚える。僕は生まれた時から白軍がどんなものか叩き込まれている。でもその溝にももう慣れたよ。それが白将軍だということだ、と、僕は思っている」
この時間のアルヤ王国の空気は優しい。太陽が現れる暁と、太陽が去る夕方は、毎日やってくる平凡で当たり前だが貴重なアルヤ王国の素晴らしさを感じる時間帯だ。
「お前はそれでいいのか?」
ライルの問いに、ラシードは間を置かずに頷いた。
「将軍を辞めたいと思ったことがないわけじゃない。でも、今は、将軍であり続けようと思っている」
「なぜ」
「そうだなあ……、守りたいものがあって、守りたいひとがいるから、かな」
「ところで」と話題を切り替えた。
「ライルは急にどうかしたのかな。何かあった?」
ライルの肩が震えた。
そうして、うつむいた。
「……シャムシャやルムアと、喧嘩して……」
「つまり――」
「分かった、認める。俺が悪かった。実は、この時間なら白軍が鍛錬しているだろうから、一緒に剣をやっていれば気も晴れるかと思って、来た。それで、手ごろなのを怒鳴った。八つ当たりだ」
「なるほど」
相手があの少年だったからよかったもののと、ラシードはまた溜息をついた。
だが、よくよく考える。
ライルは彼と二つしか変わらない。年のわりにはしっかりしていると思う。そんな彼が思わず八つ当たりをしてしまいたくなる事態とは、いったい、どんなことがあったのだろう。
しかも、あの、ライル以上に年齢に見合わぬ落ち着きを身につけているルムアが絡んでいるらしい。
「どうして喧嘩になったのかな」と、声を抑えて問うた。
ライルが眉間に皺を寄せてうつむいた。
「……お前、だから、言うが。誰にも、言わない、な?」
ラシードは「もちろん」と頷いた。ライルが視線をさまよわせる。
「シャムシャが、だらしない恰好でだらだらしていたから、女のくせにそんな恰好でうろうろするなと怒鳴ったら……、女のくせにとは言うが、童貞のお前に女の何が分かるのだ、と」
それは恥ずかしくて悔しい思いをしたに違いない。
「それで、お前もそんな口を利いているが、それならお前は男の何が分かってそんな口を利くのか、と、大喧嘩に」
「そう……僕も、陛下が男の何をご存知なのか、知りたいような、知ってしまったら場合によっては切腹であるような……」
ラシードの女王は口が悪すぎる。兄たちにそれで良いと奨励されてきたためであろうか。しかも相手が男だとなおのこと容赦しない。
だが、ルムアは大人だ。彼女は王とは異なりその辺を分かってくれていると思ったのだが、
「ルムアとも喧嘩になったの?」
ライルが「ルムアとは喧嘩と言うよりは」と小さな声で答える。
「控え室に逃げたらたまたまルムアが茶を淹れていて、シャムシャと何かあったのかと根掘り葉掘り訊いてくるから、しぶしぶ事のあらましを説明した。初めは慰めてくれたんだ、シャムシャはちょっと分かっていないところがあるから気にするなと」
ルムアはそうだろうと頷いた。
「それで、その……、」
どんでん返しが続いた。
「俺がうっかり、誰か相手をしてくれないものか、と呟いたら、一転そんなことを言う奴に女を抱く資格があるかとはたかれて……」
「うわあ……」
ルムアらしかった。ラシードはライルから目を逸らした。
「俺は、そんなに、だめか……?」
何と言葉をかけたらよいものか。
自分が二十歳の時は何を考えていただろう。ほんの五年前なのにずいぶん昔のことのように感じる。いつだったか、裁判大臣をしているエスファーニー卿が、去年のシャムシアス四世即位前後で突然老けてしまった気がする、と語ったことがあったが、自分もあの一年で十年近く経た気になっているのかもしれない。
「なぁ、ラシード」
ライルの瞳が自分の方を向いていることに気づいて、ラシードは「なに」と優しく微笑んだ。まだ少し言いにくそうにしながら、「お前はどう思っている」と訊ねてくる。
「何について?」
「というのは、つまり――」
初めは、彼が昔アルヤ語を満足に話せなかったことを思い出し、何か分からない単語や言い回しがあるのだろうかと思った。だが、次に、小さな声で「お前は気にならないのか」と言われて、首を傾げた。
「結婚しなくて。……女を探さないで」
思わず遠くを見てしまった。
「ライル……ひょっとして、僕を仲間だと思っている?」
ライルが驚いた様子で「違うのか?」と言ってきた。そう見えるのかと落胆してしまった。
しかし、よくよく考える。ライルがアルヤ王国に来たのは六年前である。知らないのも無理のないことだ。
あれは、もう、七年も前の話なのだ。
道理で年を取った気分になっているわけだ。
「実は、僕、結婚したことがあるんだ」
ライルが目を点にした。一拍間を置いてから、「はあ!?」と叫んだ。
「でもお前は独身だと――」
「今はね」
「今はね、って」
「逃げられたのか」と、真面目な顔で訊かれた。
思わず笑ってしまった。
「そうだったら、よかったなぁ」
「よかった? どういうことだ」
「死んだんだ」
もう、七年もの歳月を、彼女なしに過ごしてしまったのだ。
「七年前、僕は妻に死なれているんだよ」
ライルが悲痛な表情を浮かべて黙った。ラシードはそんな彼を可愛らしく思った。
「その時が、僕が最後に将軍を辞めたいと思った時だ」
アルヤ王国の夕べは涼しくて優しい。去っていく太陽の姿を見送りながら語らうことの優雅さといったら、他国ではけして味わえないものだろう。
「君がアルヤ王国に来る前――彼女が僕の隣にいた頃。この蒼宮殿はどんなところだったか、少しだけ、教えてあげよう」
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