講義第七回「結界というのは、外から中に何かを入れないもの?それとも…」
「それでは今日は早いけどそろそろ帰ります」
「私も失礼します」
「お疲れさまー」
先輩たちが帰るという。自分も帰宅することにしよう。
「私もそろそろ帰ります。先生たちは?」
「ぼく、家学院内にあるんでまだ仕事ですね」
「わたしも学院の近くなの。学院出たら徒歩10分だし、論文書かないと…」
うっわ、無茶苦茶近いじゃないですか。しかし教授の家、学院の中って…羨ましいようなそうでないような。
「わたし朝弱いから教授がたまにマインドメール飛ばして来るのよね、…直接脳内に」
「…そりゃ徒歩10分なのに、始業5分前にいなかったらどうなってるんだと思いますよ…」
「もうわたしも学院内に住もうかなぁ」
「…起こさないですよ」
ちょっと待て。教授たちそれ一緒に住むってことにならないか?
「そ、それってまさか」
「…いや、学院内の居住施設、まだ空きってありますしいいかもしれませんね」
「…冗談です」
確かに学院の中に住むってのはそれはそれでイヤかもしれない。それにしても教授は何ゆえ学内に住んでるのか?稼ぎいいだろうに。まぁ今日の仕事ぷりから思うに、多分研究の虫だからだろう。研究が好きなのは間違いないところではある。
「それでは失礼します」
「お疲れさまです。明日からもよろしくお願いします」
「夜道は気をつけてね」
…元騎士に夜道は気をつけてねって…しかしこの2人、冒険者もやってるということだし決して弱くはないどころか、戦うことになったらおそらく苦戦は免れないだろう(ミスリルの槍持ってる第五位階のマジックナイトと、第六位階の高位魔導師が弱いわけがない)。さらに2人はおそらくパーティメンバーとしても息が合っていると考えられ、連携されるとなると危険度は数倍に跳ね上がるだろう。2対1では99%敗北することになりそうだ。
「き、気をつけます」
万が一にもそうならないようにしないと。最悪の場合連携を断ち切り、各個撃破しかないな。…それでも勝てる気がしない。いやそもそも教授だと、戦いじゃなく違う領域に引きずり込もうとしそうな気もしてきた。そっちだと120%、いや180%勝てない予感がする。
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荷物をまとめ、学院をあとにする。まだ明かりがあちこちについている。もう8時だというのに、研究室だとこれは当たり前なのだろうか?体力に自信があるとは言ったが、短期ではなく長期的なことを考えると不安は隠せない…。教授たちはいつ寝てるんだ?他の研究室の多くも明かりがついている。
学院の内門を出てしばらくいくと、縄で囲まれた畑がある。魔洸灯が道にあるのでそこまで暗くはないのだが…そこに一人の女性がやってきた。
「あら、貴方…確か今日からヘリオス教授のところに所属だったわよね」
一見すると二十代後半位…いやそれより若いだろうか。一体誰だ。
「はい、失礼ですが貴方は…」
「…まぁ、学生さんだとあまり会うこともないわね…私も学生みんな知ってるわけじゃないし」
…いや、見たことがある。しかし、あの写真は若いころの写真じゃないのか?
「マクマトフ学長…なわけはないですよね」
「あらあら、合ってるわよ」
「えっ」
ありえない…確かパレラ・マクマトフ学長は80代のハズだ!
「そ、そんなはずは!生物の教科書に載ってた学長の写真って若い時の…」
「まぁ、それで知ってたのね。勉強熱心なのね」
喋り方と見た目のギャップがすさまじい。寄生生物による進化の研究などの研究の第一人者として知られ、今ではホウライ学院の学長である。しかし若いころとほとんど変わってないじゃないか!?
「こんな遅くまで研究?ヘリオス教授も送る位すればいいのに…」
「いや、大丈夫です」
「ダメよ、女の子が一人で夜遅いと危ないわよ」
…あの、一応自分元軍人なんですけど…なんかここではただの女の子扱いされている。いいのか悪いのかわからない。
「なるべくなら他の誰かと帰りなさい。いいですか」
「は、はい」
「よろしい」
「ところで学長は今まで何を」
「ちょっと畑で研究をね。魔導植物って聞いたことあるでしょ?」
えぇっ?この人まだ現役なのか!
「なかなか時間が取れなくてねぇ…今はこうやって夕方ちょっと研究やれるのがやっと。時間も残り少な…おやおや…」
「それにしても、この縄みたいなもの、なんなんです?」
「そうねぇ…結界、とでも言おうかしら」
結界?この中に一体何があるというのか…?
「何かから守るための、ですか?」
「あなた、お名前なんだったっけ」
「レイチェル・シュヴァリエです」
「そう、シュヴァリエさん」
真顔になった学長がこちらの目を見つめる。
「結界というのは、外から中に何かを入れないもの?それとも…」
「それとも…?」
学長は軽く息をついて、そして続ける。
「中から外に出さないためのもの?」
言われてみれば封じ込めるための結界なら、そういうこともできるだろう。
「何を、出さないのですか?」
「そうねぇ…今となっては、出さないなんてことも必要なくなったわけだけども…」
一体何のことやら。
「ここはね、私の研究の場だけど…ヘリオス教授には結構手伝ってもらったわね」
なんだかうまく韜晦された気がしてきた。とはいえなんとなくはわからないでもない。教授には、何かが過去にあったのだと思う。何かまではわからないが。
「とにかく、気を付けて帰るのよ」
「は、はい。学長も。それでは失礼します」
早足で歩いて自分の部屋を目指す。なんだかいろいろ疲れてしまった。明日からの研究生活が不安6割、期待4割と言ったところである。
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研究室暮らしが始まって一週間が過ぎた。
日々、各種サンプルから遺伝子を抽出したり、文字列に置き換えたりする。遺伝子は4種類のパターンから成り立っている、これは市井の学校でも現在は教えることである。もっとも、最近はある種の生物で6種類のパターンを持っていることが発見されたようだ。通常あり得ることではないから気にすることはない、とチェイン先輩はいう。
フランシス先生や教授が彼女の研究を見るのは勉強になる、と言っていたことともあり、こうして見学させてもらっている。
メ…ロワイエ先輩の方はよくわからない研究をしている。何やら一生懸命何かを培養しようとしている。教授は「アイデアとしては面白いけど難しいと思います」と言ってはいるが、止めろとは言わないようである。フランシス先生曰く「無生物系で細胞内を再現する、簡単じゃないわよ」とのことである。何を培養しようとしているのやら。
遺伝子の塩基配列を解析するのがもっとも得意なのはフランシス先生で、多分これだけでも仕事として食べていけるということである。実際、他の生物学科からも依頼を受けている。教授はというと、時々自分でも解析はしているようだが、それより論文執筆に集中している模様である。教授、部屋にいることが多い。そしてヴィジャ板を猛烈な勢いで操作して、時々紙に焼き付けている。頭の中に文章ができているのだろうか。早い。
そろそろ昼飯の時間だなあ、と思って食堂に行こうとした時である。部屋から出てきた教授が凹んでいる。フランシス先生と何やら話している。
「Reject食らいました…」
「『Mystic biology』?ヘリオス教授…やっぱりあの系列はムリよ…」
「うーむ…『神殿』の影響強いとこはぼくダメですかねぇ」
「だから『Magic』に出そうって言ったのに。やっと読めた魔法生物mitochondriaの全遺伝子でしょ!」
「いやいや、『Magic』はさすがに厳しいんじゃないですか…『Magic genetics』にしたほうがいいかなぁ…」
「いけると思うんだけどなぁ…教授がそう言うなら…」
「魔法生物mitochondriaって遺伝情報あるんですか!?」
…そこからか、という顔で教授がこちらを見る。
「…葉緑体、mitochondriaのどちらにも遺伝情報あるのは知ってますよね?」
「さ、さすがに知ってます…」
「魔法生物mitochondriaとmitochondriaですが…後で部屋で話しますね。ひとまず、みんなでお昼いきません?」
グギュルルル…誰だ今の腹の虫?
「ロ…あ、いやぼくおなかすいちゃって…」
フランシス先生が顔赤くしてる。朝ちゃんと食べてるのか?
「そ、そうですよ教授、お昼行きましょうお昼」
「…ちゃんと朝食べましょうね」
「…はい」
寝坊したのかフランシス先生…
「シュヴァリエさんって細いわよね、ちゃんと食べてる?」
「フランシス先生も無理なダイエットとかしてませんよね」
「してないです」
食堂で、パンとシチュー、魚のフライとサラダの定食をとってきた。フランシス先生とチェイン先輩はサンドイッチとサラダか。
「結構多いわよそれ」
「軍時代だとこれだと少ない位でしたよ」
「…絶対軍とかヤダ」
…従軍魔導師も結構肉体派だからなぁ。
「お待たせしました」
教授はというと、なんだこれ?ライスは知っているが…その上に茶色い粘ついた液体が乗っているようだが…中に人参や肉が入っている。
「『天空の棺』には想像以上に大量の様々な情報がありましてね。これ、古代人が食べてた料理を再現したものです」
「なんでも『curry』とかいうやつらしいわ」
なんかいい匂いするな。今度食べてみよう。
「…『天空の棺』との交信成功以来、人類、おっと我々は想像以上に様々なことを知れました」
「お待たせー」
「ロワイエ先輩、コレは?」
「あーコレも教授のと同じく、古代人が食べてたやつらしいわ。らーめん?とかいうの」
「古代人が残したもの以外麺は色々あるんですけどねぇ。豚肉載せた麺って、美味しいんだろうか」
「教授もまた頼んでみれば?」
「そうしますか」
学食はかなり安い。小銀貨一枚出せば余裕で釣りが来る。外食だと小銀貨一枚だと流石に厳しい。外に食べに行っている人たちもいるようだが、学食派は少なくない。
「学食、人多いですね」
「まだまだ『天空の棺』の料理食べられるところ多くないからね」
そう言う事情もあるのか。物珍しさで割と多くの人たちが学外から学食に来ているようだ。ホウライで変なことやってるのなど気に留めない蔡都民も、古代料理には勝てなかったようである。
「結構量ありましたねカレー」
「学院の男子向けでしょ、そりゃ多いわよ」
「ぼく学生の頃、二食食べたりしたことありましたよそういえば」
「えー…でも教授太ってないわよね」
「流石に今はそこまで食べませんけどね。運動もしてますし」
「太ってないオークって…」
「…普通のオークが太ってるように見えるのって体型のせいですからね。体脂肪率は人間と同等かそれ以下です」
「教授は?」
「…前に計った時12%位でしたね。今はどうかなぁ…」
身体むちゃくちゃ絞ってるじゃないかオーク!自分より体脂肪率低いとは。
「…そ、そんなに体脂肪率低いとは…」
「ダメですよシュヴァリエさん。女性の方が体脂肪率高いのは普通ですから」
教授に窘められる。
「そうそう。ムリなダイエットはダメよ、体調崩すわよ」
「まーそうよね」
「…食べても太らない人はいいわね」
…フランシス先生のメガネを見る目が怖すぎる。
「だから健康のためにもフィールドワークをですね」
「…えーん」
「ヘリオス教授ってたまにオーク通り越してオーガですよね」
チェイン先輩の言うこともわからないでもない。
「オーガやウルク・ハイと比べたらぼくなんて子豚ならぬ子オークですよ…」
「教授そこまで大きくないしねオークにしちゃ」
「…もっとも戦って負ける気はしませんけど」
小声で教授が恐ろしいことを言う。まぁ自分もオーガ程度が相手で負ける気はしないが、苦戦は強いられるだろう。
「オーガとか魔法使えないんだからそりゃそうなるでしょ」
フランシス先生のツッコミが冷たい。
「そういうことです。さてと、戻りましょうか。フランシスくん、論文の見直し手伝ってもらえますか?」
「もちろん」
しかし教授、たまに武闘派な発言するなぁ…冒険者の資格持ってるっていうのならわからないでもないが。
「あ、そうだ。ちょっと論文のさわりで皆さんにお話しときたいことが」
「mitochondria間で共通の並び、ですか」
一通りの論文の説明を聞いた後にチェイン先輩が切り出す。
「そうです。非常に類似した並びが存在します。おそらくmagistic chain reactionのための遺伝子が存在すると思われます」
「mitochondriaもそうだけど、幾つかの遺伝子は核に移行しているわ。そして魔法生物と生物の核内で違った並びはこれらmitochondriaの相違とも関係してるの」
よくそこまでわかったなあ。
「厄介なのは『天空の棺』のデータは再試必須なんですよ。まあ各論文誌の気持ちはよーくわかります。自分で調べたわけじゃない過去の遺物に全面的信用はちょっとおけません」
「けど、とっかかりにはなるから『天空の棺』データを無視ってわけにもいかず、各論文誌も頭が痛いでしょうね」
「…一種のオーパーツですからアレ。まさか残ってた古代の遺産が現代より優れてる、なんてことがあると普通思いますか?」
「でも教授、大破壊なんてものがあったんだから古代の文明が今以上でも不思議ないでしょ」
まぁそこはロワイエ先輩の言うとおりではある。
「そうですね。ただ、今の今まで残ってるなんてことがあるとは思ってませんでしたけどね」
「そこよねー」
こうして教授たちは論文の修正、私たちは再び実験に戻った。
夕方である。
「お先に失礼します」
ドアを少し開けて、教授たちに挨拶する。
「お疲れ様でした」
「また明日ねー」
論文を熱心にチェックしている教授と先生なのだが、ちょっと距離近いっていうか先生当たってますよね。なんか二人ともあまり気になってないようだけど。ちょっと先生が不用心なのか教授が鈍感なのか、はたまたそれが普通で気にならなくなったのからわからないが、近すぎる。いろいろ。
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