ⅳ
暫くしてテーブルの上の料理も少なくなり、皆は席を立ち自由に部屋を徘徊する。
クリスタとアンジェはソファーに座り大人の女性のお話をしており、その近くではギムナジウム卒業を間近としたノエルさんとメリッサが学校のお話をしている。部屋の隅の方ではまたウィルがシャルを怒らせたのかなにやら言い合っていたり、エミール先生とアラン所長は庭に置かれた椅子にもたれかかって昔の話しを感傷深く語り合っているようでした。各々は自由な時間を過ごしていました。
それぞれが談笑する中、フィリアはただベランダの縁台に座り、夜景に彩られたカテドラルの方を見つめておりました。はたして彼女の空虚な瞳には今の世界はどう見えているのでしょうか。
わたしは彼女の隣りに座り話しかける。
「フィリアも楽しんでますか?」
「わたしにはまだ人の享楽というものわかりません。ですが今日だけで多くのことを学ぶことが出来たので、マシンのわたしにとっては充実した日を過ごせたと言えるでしょう。どうやらわたしは人の営みを理解していなかったようです。ただ安定して、安全で、安心して暮らせる生活があれば、それで人々は幸福を得られると考えておりました。けれどそれは違いました。幸福とはもっと複雑なロジックで構成されているということを私は知りました」
「確かに単純ではないですが、だからと言って難しく考えすぎたところでダメなんですよ。人にはそれぞれの人生があって、なにを幸せの定義にするかも人それぞれ。だからこうして同じ時間を共に過ごし、幸せを共有することもできるのです」
人は幸せになるために生きている。けれど幸福の定義が異なるということは、それはまた時として些細な事でいがみあってしまう要因にもなってしまうのです。皮肉にも幸福を求める心が人の業というものなのです。
フィリアは深く思考しているようでした。彼女にとって人を幸せにすることこそが最大の使命。大きく情報が更新されたことにより考え方も変わったのでしょう。けれど本質的な考え方は変わらなかったようです。
「人類が幸福を望むのならば幾らでも効率的なやり方はあると思われます。それこそ
彼女の言うとおり
いくら文明がすすんでも、人には手を加えてはならない領域があるのです。
それは心。
そう、わたしがフィリアに本当に知って欲しかったのは心なのです。
わたしはヒュネクストとなって学んで知ったこの世界の素晴らしさを、彼女にも知って欲しかったのです。だから拙い思いを紡いで彼女に伝えるのでしした。
「フィリア、この世界はわたし達が考えているより、案外シンプルなのかもしれません。朝が訪れば一日は始まり、家族とともに朝食をとる。パンに好きなジャムを塗る人もいれば、人によってはジャムを付けず食べる人もいるでしょう。しかし朝食を抜くのはダメです。だって朝にちゃんと食べなきゃお昼前にお腹が空いて後悔することになりますからね。だからと言って朝食を時間をかけていて遅刻してしまっては元も子もないです。朝の準備が終われば学生なら学校に、大人なら仕事場に行き、それぞれ自分たちの職務に就く。家族以外のコミュニティーの中で人は多くのことを学び、多くの人と出会い、成長をしていくのです。そうして短いようで長い時間は過ぎ、いつの間にか夕方。仲の良い友人と過ごす人もいれば、独りの時間を楽しむ人もいるでしょう。そして晩餐の一時は大切な人と共に過ごす。人の生涯はそんななんともない毎日の積み重ねの連続で、幸福とはそんな極普通の日々のなかにあるのです」
「ならその普通の生活を保ち続ける完璧なシステムが必要だと言うことでしょうか?」
フィリアは人類に奉仕し、人類を幸福にするのを義務つけられた存在。そんな彼女からすれば、いかに合理的なやり方で人々を幸せにするかと考えてしまうのは仕方のない事なのでしょう。真面目すぎるというのも考えものです。
「そうじゃありません。それに完璧じゃなくて良いんですよ。人の営みというのは恒常的なものではなく、てんデバラバラで、時に歪で波乱もあり、無秩序なものなのです。確かに人々が平穏に過ごすためには秩序は大切ですが、本当に大事なのは秩序を作ろうとする人々の心なのです」
「心ですか……ワタシには理解し難い概念ですね。正直、そのような不確定要素を信頼することは出来ません」
フィリアは心という言葉を聞いてか懐疑的な反応を示し、眉をひそめ困惑している様子でした。わたしはそんな彼女に諭すように言う。
「心って言うのはその人をその人で至らしめる装置なようなものです。人にはもちろん、わたし達ヒュネクストにも、そしてそれは貴方にもあると思いますよ」
「ワタシにも……ですか。ですがそのようなプログラムは導入された覚えはおりません」
首をかしげたフィリアが冗談めいた事を言うのでわたしは思わずクスリと笑ってしまう。
「心って言うのは云わば感情や思考がせめぎ合う収束点なのです。言ってしまえばただの高度で複雑な電気信号の流れなのですが、そのおかげで各々個性や感情が生まれるのです。けれど心があるが故に人々はいがみあってしまうこともあります。人と人との間にはたくさんの“谷”があって、親しい人の間にも、愛しい人との間にも、家族の間にだって、左の人と右の人の間にも、そしてもちろん人とマシンの間にも。谷があるからそこに恐怖や乖離を見てしまい拒絶が生まれてしまう。ですけど、だからと言って怖がってなにも知ろうとせず、谷を無くそうとしてはいけないのです。むしろ谷があるからこそ、そこに愛という架け橋を繋ぐことが出来るのです。わたし達は決して争うためではなく、出会うために出会ったのだとわたしはそう思いたいのです」
独白のようにわたしは言葉を綴った。その言葉は脆く儚く使い古されたような綺麗事でしたが、けれどそんなちっぽけな願いがわたし達の未来には必要なのです。わたしには因果律を予測するようなプログラムは搭載されていませんが、それだけは確信に近い強い思いがありました。
フィリアはわたしの言葉に耳を傾け、暫く閉口していました。カテドラルの方を見つめたその大きな瞳にユーフォリアの夜景を写し、遠い遠い未来を見つめるかのように眺め、戸惑うように薄い唇を動かした。
「――ルル、ワタシは、人を愛せるでしょうか?」
その問にわたしは微笑む。
そしてその言葉を待っていたかのように、突如ユーフォリアの夜空に大きな音とともに大輪の火花が散った。
突発的な破裂音にフィリアが驚きを見せましたが、部屋の中で団欒をしていた他の皆さんはその音に惹かれるように庭に出てきて、カテドラルから打ち上げられる夜空を彩る花火に皆、夢中のようでした。
花火の大きな音や皆がはしゃぐ声にも気に掛けず、フィリア続いて自身の心中を打ち明けました。
「ワタシは人を愛したいです。そうすればこのユーフォリアをより幸福に出来るような気がします。けれどもわたしはまだ人について多くを知りません。それにまだ人類に対し不信感は拭えていません。そんなワタシが果たして人を愛せるのでしょうか」
彼女が今抱えている不安はわたしにもよくわかりました。わたしもこの前、ノエルさんと喧嘩した時、彼のことを愛しているはずなのにわたしは彼を恐れた。それはわたしと彼との間に谷があったことに気付いたからで、だからこそわかりあえた今となっては彼との間に本当の愛を築けたのです。
不安げにわたしの目を見る彼女の瞳を見つめながら微笑みをかざす。
「大丈夫ですよ。怖いと思うのはそこに谷があるから。なら相手のいいところも悪いとこも知って、受け入れてしまえばいいんですよ。それが愛するということ。それにアナタはもう人を、わたし達を充分に愛してくれてはいるじゃないですか。だから今アナタはこうして人の幸福について考えたり、悩んだりしてるわけで、それは愛と表現する他ないですよ」
「ワタシが人を幸福にするのは、それは義務であり使命であるからして、それを愛というのは語弊があるのでは――」
わたしは相変わらず懐疑的な彼女の言葉を遮る。
「確かにわたし達が人に奉仕するのはそういう意図の元造られたからではありますが、けれど、だからと言ってわたし達の想いが全て人工的に作られたものということはありません。こうして皆さんと共に過ごす時間を楽しいと思う心も、わたしがノエルさんを愛する心も、わたし自身が人と触れ合って育んだものです。アナタの心もきっとそう。人を愛したいとそう思ったのなら、もうすでにアナタの心のなかには人に対する愛が芽生えているはずです」
「ワタシの心の中に……愛ですか」
フィリアは確かめるように自身の胸に手をかざし、そして素体になってから初めて微笑みを見せてくれました。彼女はこの時今、自身の心の在り処に触れたのでしょう。
最後の花火が打ち上げられ大きな大輪を夜空に飾り、さらにARを用いて空一面にユーフォリア設立20週年を祝福する言葉が上空に浮かび上がる。すると庭に集った皆さんや他の家からも歓声の声が聞こえてきました。そしてフィリアは深く目をつむり、自然と頬を緩ませ呟きました。
「今、一瞬ですがユーフォリア構成民の平均幸福係数が観測史上最も高い数値を更新しました」
この時、この瞬間、ある人は家族と、ある人は恋人と、ある人は独りで、それぞれ違う思いを抱きながらこの空を見ていたのでしょう。一瞬だけでしたが、多くの人と喜びを共有できたことがとても嬉しく思えました。
庭で盛り上がっていたアンジェがわたしに近づいて尋ねてきました。
「花火が打ち上げられるなんて聞いてなかったけど、もしかしてこれもアンタが用意したとか?」
「えぇ、そうですよ。だって言ったらサプライズにならないじゃないですか」
「やるわね。アンタ」と戯けて笑うアンジェと打って変わり、シャルが剣幕立てた表情で詰め寄ってきました。
「ルル! 貴方もしかしてあの規模の花火を経費で支払ったんじゃないわよね」
「やだなーシャルってば。そんなの経費からに決まってるじゃないですか」
と笑ってごまかそうとしたものの、案の定シャルからお怒りの言葉をもらう。
「もーまったく、一体いくら使ったのよ。絶対予算の採算超えてるじゃないの」
頭を抱え溜息をつくシャルをアンジェは肘で小突いて宥める。
「まぁまぁ大目に見てやんなさいよ。アンタだって楽しんでたんだからさ」
「それはそうだけど……。はぁー、わかったわ。けど、明日にはちゃんと申請書出してもらいますからね」
なんとかお許しいただいたことでほっと胸をなでおろす。
わたし達のやり取りを見ていたフィリアは心做しか笑っているように見えました。そんな彼女がわたしに再び語りかけてきました。
「ルル、アナタのおかげでワタシは大幅なアップデートが出来ました。ワタシは今までマザー・フィリアとしてこのユーフォリアとそこに暮らす人々の管轄に尽力をしてきましたが、けれどもどうやら完璧な暮らしの実現を求めすぎたばかりに、幸福の定義を見誤っておりました」
彼女は何かに後ろめたさを感じさせるように目を逸らしながら、改まって言う。
「先程、この素体を起動させるにあたってアナタの記憶のバックアップデータを使わせていただきましたが、その際にアナタが体験した数々の記録を拝見させていただきました。そこにはワタシが知らない幾つもの情報があり、中には悲しみや苦悩といった負のタグが貼り付けられたデータが有りました。けれどもそれらのタグは幸福や愛しさといったタグに結びついておりました。それでワタシは悲しみを伴って得られる幸福もあるのだと知りました。人の暮らしとは幸福だけでは成り立たないものなのですね」
彼女と先程リンクした時に伝わったわたしの記憶が、彼女の意識に変化を与えたのでしょう。
彼女の言うとおり幸福だけが人の人生ではありません。わたしもメアリーの死や、最近ではノエルさんとの喧嘩やテロ騒動といった悲しい出来事がありましたが、それらの体験を通じて社会の見方が変わったり、新たに出会った人や、それまでよりも関係を強く結べた人もいました。わからないからといって、こわいからといって悲しみや苦しみをなくしてしまってはらない。人生にとってはそれらは必要なスパイスなのですから。
そんな今となってだからこそ言えることがあります。
「今あるわたし達の暮らしだって悲しい過去の誤ちから培われた技術によって支えられている部分が多くを占めています。それこそわたし達、ヒュネクストもマザー・システムであるアナタも、
フィリアは夜空の果てを見上げ、わたしの言葉に相槌を打つ。
「そうですね。人は幸福であるべき。その考えには変わりありませんが、けれどその為に必要な仕掛けを見落としていたようです。どうやらワタシはもっと人を知らなければならないようです。これからは人の秩序を保ち、幸福を管理するマシンではなく人と共に生き、人々に愛されるマシンでいられるように心がけます」
彼女はそう小さく宣言しました。
これはただの世間話かもしれません。はたまた人類とマシンの小さな一歩なのかもしれません。それを確かめるにはまだ先の事でしょう。ならわたしはその未来を確かめるためにも、これからもノエルさんや今日家に来てくださった方々と共に、わたし達の蜜月の訪れを待つ事にしましょう。やがて人とマシンが谷を超え真に手を取り合える時代が訪れるのを。
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