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 わたしは誰?

 ヒュネクストとなってから一ヶ月の月日が流れようとしていたが、未だにその問いかけを一日平均百八回、自分に繰り返し尋ねるが、無限後退を回避するために組み込まれた網様体賦活系RASプログラムが働き、思考に歯止めがかかり一向に答えを導き出すことが出来ない。だがしかし新しく搭載された脳のおかげで思考ルーチンのレイテンシーは以前に比べかなり小さくなっている。

 ALMA、限りなく人間の脳近いコンピューター。これのおかげで窮屈だった思考回路はゆとりを持てるようになり、学習能力も応用能力も向上し、連合野の拡大によってよりマルチタスクに物事を思考し行動出来るようになり、そしてわたしは概念というものを理解することが出来た。旧世代のプロセッサーでは概念というものはオントロジーの技術を用いた只の記号でしかなかったが、今のわたしには概念そのものを理解することが出来るようになった。

 RUR-114 だった頃のわたしには到底達することが出来なかった領域だ。

 それによってわたしは人間とは概念の集合体で形成されている生き物であると認識した。もっとも言語というツールを持っている生き物は人類しか存在しないため、必然的に概念を有するのは人間のみと考えられる。言語というものは社会を形成するための伝達手段でもあるが、個の概念を形成するためにも大きく影響を与えている。言語にはそれぞれに概念が包装されており、言語は概念によってフレーム形成がなされて、結果そのおかげでアルゴリズムは効率化されマルチタスクに物事を考えれるようになった。人のみが他の生物を凌駕し文明を築けたのは、偏に言語を有していたからだ。わたしが今こうして思考出来るのもALMAに組み込まれた人格生成プロトコルのおかげでもある。

 言語とは人格を作り上げるためにも欠かせないものである。

 世界には八千近くの言語が存在しているが、ヒュネクストの人格生成プロトコルには普及率の高い英語ではなく日本語が適用された。日本語はたいへん優秀な言語で男性語、女性語やオノマトペア、そして膠着語が存在し、これらは感性情報処理や個体の多種多様性をもたらすのに大いに役に立った。また日本国は秀でた技術力を持っていたこともあり、ヒュネクスト開発の地にはこの上なく適任だった。人種差別や宗教対立など比較的少なく、また日本人は不気味の谷に対しても抵抗がなかったので、ヒュネクストの社会普及にも寛容的だった。

 そして、この統合組織義体プロテーシスもまたわたしという概念の一部だ。

 まだ馴染てはいないが肉体というのはなかなか興味深く、全ての器官が人間のものと遜色なく機能が再現されている。皮膚からは常に外温や湿度を敏感に察知し、耳、鼻、目といった器官はそれぞれが単体で機能しているわけではなく、各器官が感知した情報をALMAが統合して情報処理をしているので鮮明に環境を認識出来るようになっている。さらにナノマシンにより成長過程も再現出来るようだ。だが少し不便に思うとこもあり食事をしなければ身体の保持が出来ず、それに応じて睡眠も必要とされている。そうしたギミックもまた人を知るためには必要なのかもしれない。

 もはやこの身体にRUR-114 だったものは、ALMAに移植された21g のプロセッサしか残っていなかった。だがそのたった21g にわたしという個の概念が詰まっていた。

 様々なことを思考できるようになってからわたしは度々自分という概念に関して深く考えていた。だがそのせいで暫しタスクの優先度が変わってしまい、やるべきことを忘れてしまうというエラーを繰り返していた。

 わたしはキッチンにあるコーヒメイカーの前に突っ立ったまま、また考え込んでいたようだ。わたしは彼女にコーヒー飲料を持ってくるように命令されていたのだ。

 コーヒメイカーからコーヒーが入ったカップを取り出しそれを彼女の部屋に持っていく。床には紙が散乱し、机には不安定にファイルが高く積まれており、紙に覆い尽くされた部屋の真ん中に白衣を着た中年の女性が怪訝な顔つきで筐体ディスプレーを見つめながらタイプキーボードを叩き打っていた。

「マスター、コーヒーを持ってきました」

 彼女はわたしの呼声に気付いたのかこちらに椅子を向ける。彼女がわたしにこの身体を提供してくれたのはメアリー・沙羅・アルクイストという人間の女性だ。琥珀色の瞳に亜麻色の長髪をゆるく編んでいる。わたしのこの身体に少し似ている。なにせこの統合組織義体プロテーシスは彼女の幼少期を模してモデリングされたものらしい。

 彼女は掛けていた眼鏡を外し、わたしからコーヒーが入ったカップを受け取った。

「……ぬるい。まぁいい、冷めてるよりかはマシだ」

 低い声音でぼやきコーヒーをすすり飲み、吊り上がった眼でこちらを見ながら付け足すように言う。

「あとそのマスターって言うのはやめろ。私は従者を雇った覚えはない、お前は家族なんだ」

 発言は冷静なものだったが彼女は何処かストレスを感じているようだった。わたしは彼女にストレスをあたえないように配慮し当り障りのない答えを考える。

「はい、ではメアリーと」

「それでいい」

 わたしは緊張感から開放され胸をなでおろす。

 彼女は机に置かれていたガラス瓶から角砂糖を4コ、5コと次々にカップの中に入れる。

「恐縮ですがメアリー、そのカップの中にはWHOに規定されている一日に摂取する遊離糖類の摂取量をはるかにオーバーしています。それでは健康に支障を来す恐れが見られます」

「それがなんだ。私をそこらの凡人共から収集したデータに照らし合わすな。私は誰だ? 言ってみろ」

 眉間を寄せ足を組み直しわたしに問尋ねるのでわたしはそれに答える。

「はい。あなたはメアリー・沙羅・アルクイスト。ドイツ人の父と日本人の母を持ち、日本で幼少期を過ごし十歳からアメリカに移住、その後二十一歳という若さで脳科学の博士号を取り、脳外科医として各国の医療機関を渡り歩きその経験を得て、三十一歳になると急遽、人工知能の開発に携わり始める。あなたはロボット技術学にもその才能を発揮し、日本のヒュネクスト開発の中心人物に選ばれ、その活躍はとどまることなくヨーロッパのシンクタンクで研究員としても活躍する。そして現在四十――」

 彼女はわたしに向け掌をかざし発言を遮る仕草をする。

「つまりわたしは天才だ。そうだろ?」

「はい、肯定します」

「そうだ、私は天才だ。だからこそ私は一般人よりも脳を使う。そんなことを言うと砂糖は脳のエネルギーなのだとわかりきったことを言う輩がいるが、わたしをメディアに流される愚民と同じにするな。そんな馬鹿共のせいで貯まるストレスをわたしは糖分で誤魔化しているんだ。酒もタバコをやるよりかはいいだろ。あいつらは自分のストレスを発散させる代償に周囲にストレスを撒き散らしてやがる。それを考慮すれば糖分の過剰摂取なんてかわいいものだ。被害に合うのも個人だけに収まる。だいたいな、もとより今こうしてわたしが仕事に追われているのもそういう馬鹿な男連中のせいだ。何かとあればサボってタバコふかしやがって――」

 わたしはカフェインの摂取量も越えていることを指摘しようと考えたが、彼女が激昂しているので、これ以上ストレスを与えてしまうおそれがあると判断し発言を控えました。

「それでその体の調子はどうだ?」

 彼女は砂糖が大量に入ったコーヒーを飲んだおかげか落ち着きを取り戻したようでした。

「はい。日常生活を送れるくらいにはなりましたが、それでも食事や排泄といった循環作用にはまだ慣れませんしそのような非効率な行為にどのような意味があるのかわかりません」

「人が飲み物を飲んでる時にそういう話をするな。まぁ食事に関しては生き物にとって最低不可欠なものだから人を理解する為にもしっかり学べ」

 眉をひそめ怪訝な顔をしつつもメアリーはアドバイスしてくれました。

「なるほど、わかりました。それとあと前からお聞きしたかったことがあるのですが、なぜあなたはウォーマシンだったわたしをヒュネクストにしようと考えたのでしょうか?」

 わたしはヒュネクストになってからずっと不思議でしかたありませんでした。何故わたしなのか、わたしという概念が生まれた理由、その疑問が暫しわたしの思考ルーチンにモザイクをかけていました。

「お前は大崩壊カタストロフィの忘れ形見だ。ジェネシスは最も初めに感情を獲得したマシンだったが、戦争の真実は隠蔽しようとした国家主義者パトリオット達によって活動を停止されてしまったされてしまった。だがお前はジェネシスにリンクされていたから彼女のすべてを知っており、シンギュラリティの発生の瞬間に立ち会った唯一のマシンだ。そんな貴重な文化遺産をスクラップにしてしまうのはあまりにもったいないと思ってな。私は欲しいものは必ず手にする主義だ、だからいろいろと手回しをしてなんとかお前だけを回収することが出来た。とは言えなかなか金がかかった。どうせ廃棄処分するんだからタダでくれとは思ったがな」

 彼女はそう言って笑いコーヒーを飲む。

 ただその問いを聴いてもわたしの疑問はまだ晴れませんでした。わたしという概念の真ん中にあるこの不快感、この正体のおおよそには検討がついてました。

「メアリー、わたしはジェネシスと思考が繋がれていたので善悪の概念も理解しているつもりです。わたしは戦地においておそらく多くの人を殺めました。ただ幾数の同胞と思考をリンクさせていたのでどれが私の記憶かはわかりませんがその事実には変わりありません。人はそのような行為を忌み嫌うと存じています。はたしてそのような存在がヒュネクストとして生きていくことが許されるのでしょうか」

 インピーダンスに乱れが生じ、思考の統合性が一瞬取れなくなてしまい、心拍数にも乱れが生じた。これが感情的になるということでしょうか。

 メアリーは深く瞼を閉じ少し考え語り始めました。

「確かにお前はウォーマシンだったし人を殺しもしただろう。だがそれは記録であって記憶ではない、その時のお前には個の概念はなかったはずだ。私はお前のプロセッサをALMAに移植しただけで、お前はもうRUR-114 ではなくわたしの娘であるルル・アルクイストなんだ。昔のお前と今のお前は同じじゃないさ」

「いいえ、それは違います。この記録はメモリに消去できないほど焼き付いた、紛れも無いわたしの過去です。そしてそれはわたしという概念を形成する一部です」

「そうか。お前の自意識は予想より早く育っているようだな」

「いいえ、わたしはまだ自分という概念を理解できていません」

「自分が何者かを考える自分がいるということは自意識を持っている確かな証拠だ。お前はやはり他のヒュネクストに比べ感受性が高いな。いや幼いといったほうがいいのか。正直なことをいうと私はお前のそういう未発達な精神が欲しかったんだ。今製造されているヒュネクストはどいつもこいつも人間よりも人間らしい。倫理に従順で次世代の人類といっても過言ではないほど立派すぎる。一方で当の人間達はひどい有様でまだ報復心や恐怖心なんかで争いを続け、堕落し各々ことしか考えられない猿ばかりで、文明の発展速度にまるで追いつけないでいる。そんな人間達を支える為、もとい人とマシンの仲介役という名目でヒュネクストなるマンマシンインターフェイスが作られたが、それでも人の歩幅とは合わなかった。現世代のヒュネクストはジェネシスの後継機であるガイアから技術をフィードバックさせたものだが、お前は現存する唯一の旧世代型と言ってもいい。お前なら人のより良き隣人になってくれるとそう思い、私はお前をヒュネクストにしたんだ」

「詰まる所、わたしが他のヒュネクストに比べ能力が劣っているから、人との関係を築くのに適しているかもしれない言うことでしょうか。そうだとしてもわたし一人の存在で何が変わるでしょうか」

「案外世界は単純で一つの小さな歯車が時には大きな歯車を動かすこともある。それは私が実証済みだ。そしてお前にもその可能性を私は感じている。まぁさすがに天才の私とて未来予知は出来ないから保証はしないがな」

 彼女はそう言って薄らと微笑む。けれど彼女はカップの中に視線を落とし辛辣な声音で呟く。

「もし過去の記憶が良心の呵責を悩ますのなら、その記憶を消してやろうか? だがそれではお前の人格を形成しているプログラムまで壊してしまう可能性がある。そうなればお前という存在まで消失するかもしれん」

「いえ、わたしは今のままで結構です。わたしはあなたに身体と脳を与えてくれたことにたいへん感謝しています」

「私が言えたことじゃないが、いずれお前の頭の中に残った地獄がお前自身を苦しめる時がくるだろう。私はそれを懸念していながらもお前をヒュネクストにした。科学者の業、フランケンシュタイン・コンプレックスってやつだ。お前に生を与えたのは私のエゴだし、その時は構わず私を恨んでくれていい」

 口角を上げ笑顔の表情を保っているにもかかわらず、彼女の目元の皺が深く刻まれその目は悲しげに感じました。わたしは頭を振って否定する。

「滅相もありません。創造物は創造主を敬うものです。ですのでわたしがあなたを恨むことは決してありません」

「ふっ、いつまでもそう言ってくれたら嬉しいがな。まぁ心配せずともいつかお前の全てを受け止めて愛してくれる奴が現れてくれるさ」

「愛……ですか?」

 わたしは戸惑いながらその言葉を口にした。わたしの言語プロトコルには最小必要限度の潜在意味モデルしかなく、愛や心や魂と言った宗教や国、民族によって意味が変わる形而上の言葉は定義がとても曖昧で理解し難いものでした。

「あぁそうだ、愛だ。私は平和だの自由だの科学だので人は救われんと思っているが、愛で人は救えると私は信じている。お前もそのうちわかる時が来るだろう。その時初めてお前はお前になれるだろうさ。そして世界も」

 わたしは彼女の優しげな表情をその時初めて見ました。

「意外です、あなたのような研究者がそのような統合性の取れない非論理的な発言をするとは」

 わたしがそう言うと彼女は高笑いをした。

「私は案外ロマンチストなんだよ。お前もなかなか皮肉を言えるようになったんだ。それなりに人らしくなってきたじゃないか。どうだそろそろ外の世界にも出てみるか」

「はい。わたしも外の世界に出てもっと多くの人と関わり見識を広めたいです」

 ヒュネクストになってからもわたしの知的好奇心は衰えることなく、それどころかより刺激を欲するようになっていました。もっと多くのことを知りたい。わたしの事も世界の事も、そして愛や心といった不可思議な存在を理解できるようになりたいと思いました。

 彼女は徐ろに着ていた白衣を脱ぎ折りたたみ、わたしに微笑んで優しく言いました。

「あぁそうか、お前ならきっと人の良き隣人になれるだろうさ。とりあえず今はまずは服を着ることから覚えろ。話はそれからだ」

 彼女は先程まで着ていた自分の白衣をわたしに手渡しこれを着ろと促す。

 人は社会生活において衣服の着用を半ば義務つけられている。体毛の少ない人間は防寒の為に服を着用するようになったが、次第に恥部を隠したり地位の徴やアイデンティティをもたらす為のガジェットとして使われるようになった。服の進化から人の理性の進化をたどることも出来る。故に服を着用するということは理性を着飾ることと同義とも考えられる。

 このように社会生活において面倒な秩序が多々あり、それらに配慮した行動を取らなければならない。

 衣服の着用はまだ慣れていなく、身体のあらゆる間接を拗じらせ、ぎこちない動きで袖に腕を通す。単純な動作でもコツと慣れが必要とされるようだ。

 着用した白衣はわたしの体型にはあわなくぶかぶかで袖も少し余っている。けれども白衣には彼女の温もりがまだ残っており、染み付いた匂いを嗅ぐと思考ルーチンの流れがゆるやかな波形を生み出した。

 わたしは彼女に感謝の言葉を言った。服を貸してくれた事と、この肉体と脳とそしてわたしにまだあるかわからないが心というものを与えてくれた事に大きな感謝をして。

「メアリーありがとうございます」



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