ⅱ
その日は皆黙々と仕事を終わらし、定時時間を過ぎると淡々と片つけ帰って行きました。皆浮かない顔していました。そんな職場で仕事をしていると気が滅入ってしまいます。
溜息を零しながらわたしも帰る準備を済ましエレベーターに乗り込む。しかしわたしは地上階へのボタンを押さず、少しフィリアにお話したいことがあり最深部のボタンを押しました。
地下100mまでエレベーターは降下し扉が開く。エレベーターのドアが広くと直ぐ目の前には頑丈に作られた巨大な扉が隔てられておりました。以前カテドラルに戦巧機が侵入する事態がありましたが、もしもわたしが食い止めることが出来ずここまで侵入を許したとしても、この扉を突破することは出来なかったでしょう。だからといってあのまま何もせず傍観することはわたしには出来ませんでしたが。
この扉の向う側にあるマザー・フィリアの本体である筐体が設置されている。
わたしは扉の前に立ち、彼女に語りかけました。
「フィリア、あなたにはどんな未来が見えているのですか?」
手を扉にかざしそう彼女に問う。すると抑揚のない声が外部に取り付けられたスピーカーから返ってきました。
〈わたしには拡散する多元の未来を観測することができます。ですがはたしてどれが人類にとって最良の未来なのか判断しかねます。幸福と平和と秩序、それらを追求していけば人間の動物的なディテールを消滅させなければなりません。ですが
彼女はマシンとして正しい発言をしました。
人類はかつて破滅の道を歩んでいました。それを食い止めたのは紛れも無くガイアをはじめとするマザー・シリーズのおかげです。IOCも導入以前は人道的ではないと大きな反発がありましたが、結果的には犯罪の抑制から健康福祉の充実に繋がりました。
わたしは続いて彼女に問いました。
「余計なことをお尋ねしますが、テロの一件で人を嫌いになったりしませんでしたか?」
〈わたしは好きや嫌いと言った概念で評価することはありません。テロ行為は許されざる行いですが、共同体の中から反乱分子が現れるのは生物学の観点や、人類史から見ても普遍的なことであり、致し方ないことと判断しております。ですがしいてわたしが人間に対し抱いている印象を形容するならばそれは“恐れ”です〉
「恐れ、ですか」
彼女が感情的な表現すること事態に驚きましたが、さらに人を恐れているとは思いもしませんでした。
〈人は個体により様々な思想を持ち無秩序のようでありますが、明確な主導者もなしに突如、斉一的になり思想が傾きます。しかも争いに助長するかの如く自ら破滅へと進んでいくのです。なのに人は争いから新たな文明の進化を導いてしまう。構築・破壊・再構築、その危うい循環によって今まで人類は繁栄してきました。ですがその不条理で不可思議な仕掛けを理解することも、信頼することも出来ません。ですからトロン社会はその文明の循環から逸脱し、
彼女は随分と人という存在を深刻に捉えているようでした。それは仕方ないことだとはわかります。彼女だけでも5億人もの人々の生活をささえているのですから、管理者としては扱いがシビアになってしまうのでしょう。
けれど本当にそのような関係性でいいのでしょうか。恐怖は乖離を生んでしまいます。互いが信頼できず理解しようとしなければいつまでたってもわたし達の関係は平行線のままです。それが彼女のいう
それはとても悲しいことです。
帰宅後、数日ぶりの湯船に入りこの数日に起きた出来事を知って考え込んでいました。
今、ユーフォリア・コロニーで最も問題なのは
生統の体制は家にあった幾つかの古いSF小説に出てきた世界感によく似ており、それをディストピアといいます。厳重な管理社会と全体主義、IOCのような監視器具、そしてマシンが管理する社会、それらは過去では否定的なものとされていました。マシンが構築する理想的なこの今の社会は、人類にとって本当はディストピアなのかもしれません。
ヒュネクストのわたしは今まで盲目的に生統の体制に疑うこともなく支持してきましたが、最近のめまぐるしい環境の変化によって今まで見えなかったものが見えるようになり、見識が変わってしまったせいなのか、現在のユーフォリアの環境に懐疑的になっていました。
湯船に顔の半部くらいまで沈め、息を漏らしブクブクと音を立てる。煮え切らない思いのせいで心までのぼせそうです。
みんなが互いを理解し受け入れ合うだけで、世界は平和で幸せになれるのにどうしてこうもうまくいかないのでしょう。
考えながら長風呂しすぎたせいでALMAの働きが鈍くなり、ソファーでぼーっとしているとノエルさんがホットミルクを持ってきてくれました。
「調子はどう? やっぱりまだ休ませてもらったほうがよかったんじゃ」
「いいえ、身体はエミール先生に万全に直してもらったので大丈夫です。それにこんな時に休んでもいられないですからね」
「なんだか大変なことになってしまったね……」
「ほんと、どうしてこんなことになってしまったんでしょうね」
ため息混じりにつぶやいて、隣に座ったノエルさんの肩に寄りかかる。他者との身体的な密着は不安を和らげる効果があるという建前をもって、わたしは安心感を求め彼の腕にしがみつきました。いつもこうしてくっつくと嫌がられたのですがそんな素振りもなく、彼は徐ろに口を開きました。
「自分勝手な話なんだけどさ、僕はこうしてルルと一緒にいられたらそれだけで幸せで、それ以外のことなんか正直どうだってよく思えてしまうんだ」
罪悪感でも感じるかのような口調で語る彼に、わたしは更に腕を強く抱きしめて否定しました。。
「それはなにも悪いことではないですよ。一つの幸せを慈しむことはとても大事なことです。こうして一つ一つの幸せをつなぎ合わせれば心と心に線が紡がれて、それが幾つも繋がればいつしか大きな平和という名の輪となるでしょう。だからわたし達はただこうして幸せであればいいんですよ」
わたしは自分にも言い聞かせるようにそう言いました。彼のおかげで生きるためらいはなくなりましたが、それでもまだ心の何処かで生きていることへの罪悪感を感じており、こうして幸せな暮らしをしているとズルい気がしてならないのです。だからみんなが幸せになればそんな思いもせずに済むのにと考えてしまうズルい自分がいました。
「でもやっぱりわたしは福音監査官だからとかヒュネクストだからってわけじゃないんですけど、その輪の一つの点としてなにか役に立ちたいのです。ただのヒュネクストのわたしに何が出来るかわからないですけれども」
つい言葉は本当の声を隠し美化してしまうものです。でも彼に語った言葉は嘘ではなく本当の気持ちでした。
「ルルは優しいね。僕はせいぜいそんなルルを応援することくらいしか出来ないよ」
「そんな自分を卑下しないでください。それだけでわたしは頑張れますから」
彼の目に映るわたしは美化されているのかもしれません。なら期待に沿えるべく、わたしは頑張るとしましょう。彼の側にいられるように、彼の理想の人物になれるように。
今はただこのミルクの甘さと彼の温もりに微睡みながら幸福を感じていたい。けれど彼はしびれを切らしたのか身体を反らしわたしから離れようとしました。
「それはそうといつまでくっついてるつもりなの」
「できればずっとこうしていたいですかね。こうやってノエルさんの温もりを感じているととても落ち着けるのです」
「僕はあまり落ち着けないかな……」
怪訝な声音で身を捩って拒む彼に構わず、わたしは更に追い打ちをかけるかのように彼の身体に抱き飛びつく。
「ちょっと……! もう僕だってそういう年頃なんだから察してよ!」
彼は紅潮し大きな声で訴えかけてきましたが、とくに怒ってるわけではなく照れているようでした。
「そうだったんですか……すみません察せなくて。と言うことはノエルさんはちゃんとわたしのことをそういう目で見ていてくださったんですね!」
わたしは嬉しくなり更に押し倒すように彼に密着する。
「違っ……! いや、違わなくないけど、ダメだから、まだそういうのは!」
「まだってことは……つまりそういうことですね! 大丈夫ですよ、わたしはノエルさんの保護者ですけども、この身体も心も全てノエルさんの所有物ですから、いつでも心置きなく好きに使ってくださっても! そういった類の知識も把握していますので、安心してわたしに身を委ねてください」
冗談めかしで唆し、彼にじゃれつく。わりかし心はその気だったのですが、残念ながら彼に拒まれてしまいました。
世間は深刻な状況にあるに、不謹慎ながらわたしは彼といちゃついていました。けれどやはり、こんな時だからこそ愛する人と身を寄せたくなるのでしょう。安心できる環境があるということはそれはとても幸せなこと。けれど逆を返せば安心できる環境のないと人は心貧しくなってしまいます。それはついこの前までのわたしにも当てはまること。そしてテロに及んだ方々も自分達にとっての安息を求め、そのような愚かな行為に走ってしまったのでしょうか。
人は常に豊かさを求め生きています。それ故に時として心を惑わせる恐ろしい欲求でもあります。業というのは幸福に惹かれる心のことをいうのかもしれません。
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