――人類が滅亡してから数千年が過ぎた世界、血管のように複雑に張り巡らされたパイプに覆われた地下都市では、AIの管理者の下で人類達が都市を増設するために日々働かされていた。みんな何の為に働き続けているのか知らずに、そして管理者さえも遥か昔に与えられたその義務の意味を忘れていた。そんな錆と埃に塗れた地下都市にいた二人の男女はこの都市の上層にあると真としやかに囁かれている『楽園』へと自由を求めて都市からの逃走を謀ろうとするが、管理者の手先や迷宮のような地下都市が彼らの道に立ちはばかる。それでも尚、二人は互いに助け合い、支えあい、そして遂に彼らは上層へと通ずる梯子を登りきった。見上げると果てしなく高い蒼がどこまでも広がっており、足元には扁平状の緑が遥か遠くまで生い茂っていた。ついに彼らは『楽園』へとたどり着いたのだ。二人は互いの存在を確かめるかのように手を握り合った。

 流れだしたエンドロール、『楽園の殻』という題名が表示される。

 球状のスクリーンホログラムから出ると、ノエルさんは随分見入っていたのか疲れを吐き出すように深く息を吐いた。

「どうでしたか、見た感想は?」

「久しぶりに映画館で見たけどすごい迫力だったね。まぁストーリーはありきたりだったけど、これが登場する人もその声も、背景から何もかもが全部一人の人によってレンタリングされたものっていうんだから凄いよね」

 ディストピアから逃避をテーマにした作品は手垢がつくほど使われたよくある作品でした。それでもこの作品が評価されている理由は一人で製作したからだそうです。

「最後の壮大な景色を見た時は感動したな。ルルはどういうところに感動した?」

「えっわたしですか? わたしはえっと……主人公がヒロインを庇って攻撃を受けるシーンですかね。やっぱり世の女性はあのような男性に惹かれるものですから」

 わたしは笑って誤魔化した。

 正直、わたしは感動なんてしていませんでした。彼らがどうして逃走したのか、生命活動の危険を晒してまで何故自由を求めたのか、果たしてエンディングが終わった後の画面の外で彼らは本当に幸せになれたのだろうか。

 わたしにはわかりませんでした。

 それでもこうして映像作品を彼と見に来た理由は、偏に共感覚というものを養うためです。わたし達がこうした娯楽作品に触れる理由は大抵、知的好奇心からなるものであり、なので面白さを理解しているわけではないです。わたしが小説を嗜むのも同じことが言えます。それでもわたしが架空の物語に惹かれるのはやはりそこに心があるからなのです。

 架空の物語といえどそれは作者の純性なる妄想の産物ではなく、作者が現実の社会からインプットしたものを消化しアウトプットされたものであります。そして作者の心の中で育まれた思想は文化的遺伝子ミームとなり、創作物に包装され多くの人々の心に文化的遺伝子ミームの種が運ばれます。無論、それが全ての人の心に根を張るわけではなく、作者の思想と似た思想を持った心が温床となりやすく、そうして無意識下で次々と人から人へと新たな文化的遺伝子ミームの継承がなされるのです。

 この文化的遺伝子ミームと言うのは厄介なもので社会を促進させる事もあれば、停滞または後退を促すかもしれないマインドウィルスでもあるのです。文化的遺伝子ミームは心から心へと流布される形而上のものですから勿論データ化出来るわけなく、どうしても心で判断しなくてはならないのです。ですから福音監査官エヴァンジェルでもあるわたしにとって創作物は興味的な対象でもありますが、それと同時に警戒しなければならない対象でもあるのです。

 この作品を作った作者が気になりデータベースで検索すると、目を引く記事を見つけた。


 ――『楽園の殻』は現在のユーフォニア・コロニーを比喩したものであり、トロン社会に対して懐疑性を抱いてもらうために啓示した作品である。我々は自由や意志をマザー・フィリアに捧げ、それと引き換えに平穏な生活を頂いている。事故も犯罪も最小限に抑えられ、安定した衣食住を誰しもが所持しているが一方で我々はIOCの装着を義務つけられており何をするにも何処に行くにも記録され見張られている。まるで首輪を付けられた犬だ。彼らは私たちのことを愛してくれているのだろうがその愛はあまりにも看過しすぎていて少しばかり息苦しくも思える。何より今のままでは人としての尊厳は疎か、自主性までも欠落してしまっていることは明白なことだろう。だから私は多くの人が人としての本質を思い出してくれるようにこの作品を制作した。どうか私の心の声が届きますように。

                  人類保護団体Human Rights Watch所属 アリーア・ベルンシュタイン

 HRWですか、なんだかきな臭い名前が出てきてしまいましたね。言語検閲ワードセキュリティに引っかからないように言葉選びはしてるようですが、反社会的な発言とも見て取れることも出来ます。しかしながらそれだけの理由で表現の規制をしたとなれば大衆の反感を買ってしまうかもしれません。まぁ彼らの狙いはそこかもしれませんが……

 辟易した溜め息を吐き、かぶりを振って濁った意識を払拭する。

 いけませんね、プライベートなのに仕事関係の事を考えてしまうなんて。

 拡張現実オーグメント・リアリティに散らばったテキストデータを手で払いのけると、わたしの行動に疑問を覚えたのかノエルさんが尋ねてきました。

「どうしたのルル?」

「いえ、なんでもないですよ」

 そう言って両手を振って誤魔化した。彼の目には先ほどのわたしの行動は何も無いところで手で空を払うように見えたでのしょう。彼は拡張現実オーグメント・リアリティを搭載していないのでわたしの目に見える世界がわからないのでしょう。

「ノエルさんはARつけるの嫌なんですか? コンタクトレンズみたいに目に被せるだけでいいですし、あるとなにかと便利ですよ」

「ああいう身体に身にまとう類の物は嫌いなんだ。違和感というか拒絶反応を起こしてしまうんだよ」

「相変わらずのアナログ主義なんですね」

 ノエルさんは首を傾け思いふけるようにうんと唸る。

「そういうわけじゃなく単に必要だと思ってないだけなんだよ。確かにあると見えている世界の情報が増えて便利になるんだろうけど、それが目まぐるしくも感じるんだ。機械を頼ったところで早く大人になれるわけでもないし、情報や知識が増えてもそれに心は追いつかないからね。だからARは子供の僕にはまだ早いと思うんだ」

「そういうもんなんですか」

 わたしからすればノエルさんはARや電子書籍を使いこなしている同い年の子供達と比べると充分大人びているように思えるました。

「そんなことはともかくお腹すいたしそろそろなにか食べに行こうよ」 

「そうですね。せっかくお出かけしに来たんですからたまには外食もいいですね」

 時刻は一時をまわっており、少し遅めの昼食を取ることにしました。

 レジデンツ広場の噴水が見えるオープンテラスのレストランに席を取り、適当にセットメニューを頼むと、パンがいっぱいに詰められたバスケットとオーブンでパリパリに焼かれた鶏むね肉のステーキが出てきた。肉厚で豪快なボリュームとは裏腹にレモンとバジルソースの爽やかな香りのおかげで食が増す。

 二人は合掌していただきますと唱えた。この儀式的にも思える行為はメアリーに教えて貰った彼女が育った土地の風習のようなもので、生命を頂く事に感謝する生命信仰アニミズムの様な解釈もありますが、育てた人や調理した人に対しての感謝の念も含まれていたりします。要はどういった過程で食卓に料理が運ばれているか認識することがこの行為の真意だとわたしはそう解釈しています。

 メアリー曰く、食事作法でその人の心がわかるのだとか。例えば店員さんに対して横柄な態度の男は女に対する態度もでかいとか、食べ方が汚い人は育ちが悪いとか自分の話しかしない男はナルシスト云々かんぬん、若干男性に対する不満も含まれていますが的を射ていると思います。まぁそんな自分にも他人にも厳しい性格だったので彼女は一度は結婚したものの、直ぐに離婚してそれ以降ずっと独身だったのでしょう。

 それらを踏まえてノエルさんの食事作法を見ると上品で申し分ないものでした。

 彼はスライスしたパンの上にジャガイモのラグーと適当に切ったチキンステーキをのせ小さな口に運ぶ。

「うん、凄く美味しいよこの料理。ルルも早く食べなよ」

 微笑んで彼が奨めてきたのでわたしもナイフとフォークを持ち、柔らかなステーキを切り分け口に運ぶ。表面はパリっと高温で焼かれているので中の肉はすごく柔らかく噛みしめると肉汁の甘さが口の中に広がる。

「うーん、やっぱり調理法が違うだけでこんなにお肉の味って変わるんですね。ここは石窯で作ってるらしいので一気に中まで火が通って肉汁が無駄なく封じ込められていてるから、だからこんなにも美味しく出来るんですね。美味しい料理を食べる度、常々身体があってよかったなって実感させられます。機械の身体では味覚を理解できても『美味しい』という概念は理解できませんからね」

「意識したことなかったけど『美味しい』と感じるメカニズムってなんだろう。べつに食べれるか食べれないかの判断できればそれだけで生命維持は出来るだろうに、どうして美味しいか不味いかの判断価値が生まれたんだろう」

「例えばお腹が空いた時に普段何気なく食べていた物が美味しく感じたり、走って汗をかいた時に飲む水が美味しく感じるのは、本能的な欲求が満たされたことによって報酬として『美味しい』と感じるんです。それ以外の時に人が美味しいと感じるのは五感や幼少期に食べた物の経験、それからどういった過程で料理されているかや、食材の価値などの情報をに包括して脳が美味しか美味しくないかの判断をしてるのです」

「案外、人の価値基準って単純なんだね」

 ステーキを切り分けてフォークを突き刺し持ち上げる。

「そうですね。今食べているこのお肉だってもし人工肉だ、って言われて出されれたら、食べてみても味は同じでもそれだけで美味しいかどうかの判断基準が変わってしまいますからね。今こうして丁寧に調理された良質な食材を噴水の見えるお洒落なオープンテラスで食事をしている、といった状況が無意識的に美味しさを引き立たせてくれる大事な因子ファクターだったりするんですよ。そしてそこに愛する人がいれば尚更、です。なにげない幸せ達が美味しさの正体なんだとわたしはそう考えています」

「美味しいものが食べることにより心は豊かになり、そして生活を幸福だと感じることが出来る。“美味しい”というクオリアは自分の今の立場を確認させてくれる仕掛けでもあったんだね。当たり前のように食事をしていたけどこんなにも大切な行為だとは気づかなかったよ」

 ノエルさんはナイフとフォークを持った両手を止め、儚げな目でテーブルに並べられた料理に視線を落とし、低い声音で呟きだしました。

「もしも僕がメアリーさんに引き取られずまだ孤児のままだったなら、こんなちゃんとした食事を摂れていたかもわからないし、それどころか食事をしても美味しいと思うことさえもなかったかもしれない。だからってわけじゃないけど今こうしていられることが幸せなんだと思わなきゃね」

 薄く微笑み彼はステーキを口に運んでよく味わうように食べた。

「ノエルさん……」

 彼はメアリーに引き取られる以前の記憶が一切ないのでした。なんでもバルト海にあるとある島で衰弱した姿で倒れているとこを現地の人に救われ、その後病院に保護されていたところを、偶然仕事で出張していたメアリーが連れ帰ってきたのでした。

 わたしなりに彼の過去について調べようと努力したのですが、わかったことは血液型がA型であることと技術を用いた推測ですがおそらく11月生まれだということだけで、DNAの検索データベースにも一致する記録はなく、親が誰なのか、人種さえもわからずじまいでした。

「やっぱりまだご自分の過去の事が気にしてますか」

 わたしの問に彼は笑顔で言う。

「そんなこともう気にしていないよ。なくしてしまった5年間はこの10年間でルルが埋めてくれた。だから過去の事はもういいんだ。それよりも今こうして美味しい料理をルルと一緒に食べれられる幸せを大切にしていたいんだ」

 彼の言葉にわたしの心を打ち振るわされました。本当に人の成長というのは早いもので、いつの間に彼はこんなにも大人になったのでしょう。背だけではなく心も追いぬかれてしまった、そんな気がしてしまいました。

 わたしは今をちゃんと生きているのでしょうか。それはきっと嘘、わたしの心はまだ過去のしがらみに囚われたまま。罪の檻の中で赦しを乞うている。

「すごいですねノエルさんは。知らないうちに大人になっていくみたいで、すこし寂しくもありますけど……」

「……ルル?」

 心配そうにノエルさんがわたしの顔を覗き込む。わたしはかぶりを振って誤魔化すように笑ってみせました。

「いえ、なんでもないです。わたしも今とても幸せですよ、あなたがそばにいてくれるから」

 そう、彼がいてくれるから。

 だからわたしはわたしでいられる。なのにわたしは彼に隠し事をしている。それを知られたらきっとわたしはわたしでいられなくなってしまうから。

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