ⅱ
両腕を上にうーんと声を上げながら引き伸ばし、ベットから這い出て洗面所へと向う。顔をゆすいで歯を磨き、鏡に映る自分の顔に注視すると細菌数や肌質、健康状態などが数値化されたパラメータが
鏡に映っているのは少女の姿。肉体年齢は16歳に設定されいる。琥珀色の瞳に亜麻色の長髪。顔立ちは目が大きく小鼻に薄い唇とやや幼い感じの童顔で、身長は158cm と少し小さめ。この
実に自己愛主義者の彼女らしいなとふと笑みが溢れる。もちろんわたし自身もこの身体を気に入っています。以前のわたしには身体の有無に何の意味があるのかわかりませんでしたが、今では何気ない動作さえも愛おしく感じるようになりました。
ですがやはり身体を所持することはなかなか手間がかかったりもするのです。例えば主に食事がエネルギー供給源だったり、睡眠も身体の恒常性を保つために必要となります。最初は面倒なプロセスと思っていましたが、けれど今となってはその行為の大事さをよく知りました。
あと、それから容姿というものにも気を配らなければならないのも手間だったりします。
衣類を纏うのは恥部を隠すためや、自身の個性をアピールするためだったりします。まぁわたしは可愛い服を着るのが単純にすきだったりするのですが。
自室に戻ってシルクの寝間着を脱いで普段着に着替える。下着を付けると自動的に身体のラインに沿って密着しはじめる。ですがこの
下着の上に暖色系のゆったりとしたワンピースを着て、お気に入りの白いカーディガンを羽織り、そして後ろに長く伸びた髪をゆるく編組状に束ねて肩にかける。
鏡に映る少女の姿に今は亡き彼女を写し思い浮かべる。
メアリー、わたしは人のより良き隣人になれたでしょうか。
わたし達ヒュネクストはマシンが人を知るために作られた存在であり、人の肉体を模した
でも、わたしには愛する彼がいるので心配ありません。
今日も今日とてわたしは彼のため頑張ります。
彼は今や育ち盛り。しっかりした食事を作ってあげなければなりません。それでは朝食の準備を――とその前に家の外に出て庭の菜園を手入れをしなくてはなりません。
一階に降り庭へと出ると再び様々な情報が流れこんでくる。太陽の日を浴びた庭で育てているマリーゴールドの香気成分が気化した匂いと、土肥の匂いと青臭さ、それらが乾いた冷たい空気とカクテルのように混ざり合って朝の匂いが作られる。
その匂いを胸いっぱいに鼻から吸い込み。そしてお腹に力を入れゆっくりと息を口から吐く。
こうして毎朝庭に出ては深呼吸し、朝を堪能する。
それからようやく家庭菜園に手を入れます。
熟れた物は摘みとってしまい、水をやりわき芽を採ったり、虫除けの液を吹き付けたりと面倒ですが、やはり無農薬の物はバイオプラントで作られた物とは比べ物にならないほど美味しいのです。
どれほど科学が進歩しようとも食物というものはある程度自然に任せてあげるのが良いのでしょう。それは人も同じ。ならばわたし達は人類の隣人としてもっと自然の事も学ばなくてはならないと。
摘み取った野菜を持って帰り、ポストに入ってある保温紙袋を回収する。毎朝こうして近くのパン屋さんがデリバリバードを使って焼きたてのパンを届けてくれるのです。
外での用事を済ませ家に戻る。リビングはキッチンと一体化しており、広間の方はメアリーの趣味趣向で集められた本がびっしり押し込まれた棚に囲まれていた。メアリーが暫く
さてさて、それでは朝食の準備を始めましょうか。
ボールにレタスをしいてさっきほど摘み取ったトマトを入れて、後はスライスオニオンとサラミとチーズを混ぜた手頃なサラダと、パン屋さんから届いた白パンがほぼ毎日の朝食です。
べ……べつに手抜きとかではないですよ! 朝はこういうのでいいのです。ちゃんと料理は栄養管理メーターの理想値に近いもの作っていますし、そこらのメイドロイドよりも料理スキルは劣っていないと自負しております。
料理をローズウッドの長テーブルに用意していると、彼が眠気眼を擦りながら自室から降りてきました。
「おはようございます。ノエルさん」
「うん、おはよう。ルル」
彼の微笑みでリビングに花が咲く。毎朝、彼のご尊顔を拝見できるわたしはなんと幸せ者なのでしょうか……。絹糸の様に細く美しい白銀の髪、蒼穹を閉じ込めたかの様なサファイアの瞳。整った顔立ちは男の子とは思えぬ可愛さ。天衣無縫とはまさしく彼のこと!
嗚呼、ついつい抱きしめたくなってしまいます……
「ルル……ルル苦しいよ……」
「……はぁっ! すいません。能動性アルゴリズムプログラムがノエルさんの可愛さに反応してしまったせいで身体が勝手に――」
「はいはい。もうその言葉は聞き飽きたよ。――ほら早く食べないとパンが冷めえちゃうよ。」
ノエルさんはわたしのマシンジョークを軽くあしらって椅子に座る。
音楽に包まれ、観葉植物や木造家具に囲まれた温かみのあるリビングで二人は談笑しながら朝食をとる。今となってはこの穏やかな時間が当たり前で、それでいてかけがえのない時間となりました。
ノエル・アルクイスト、彼がまだ名を持たない子供だった頃にも、わたしがルル・アルクイストではなくRUR―114だった頃にも、こんな日常が訪れるなど未来予測をしていませんでした。
わたし達を巡りあわせてくれたメアリーがいなければこの営みも生まれなかったはず。彼女はもういないですが記憶回路に刻み込まれた彼女にわたしはいつも感謝をしています。
「どうしたのルル。そんなにニヤついて。まぁいつもそんな感じだけどさぁ」
「いやー嫌いなのにちゃんとトマト食べて頂いて嬉しいなーって」
顔を顰めながらもわたしが作ったトマトを食べる彼を見てついつい顔が緩む。
「だって残したらルル悲しそうな顔するじゃないか。というか嫌いだってわかってるなら出さないでよ」
「うぅ……わたしはただノエルさんの体調を考慮し、最善の料理を振る舞おうとしたのですがご迷惑だったのですね……ごめんなさい。ぐすんっ……」
「あーもう――美味しいよルル。確かに僕はトマトが嫌いだけど、ルルが作ったトマトだけは世界で唯一食べられるよ。これからも美味し料理を頼むよ」
「はーい。じゃあもっと美味しいトマトが作れるように頑張りますね!」
「あぁ……頼んだよ……」
溜め息をつきながらも渋々サラダを食べるノエルさん。そんな優しいところがまた愛おしい。
「そういえばノエルさん、もうすぐ9月ですね。お祝いの準備をしなくちゃいけません」
胸の前で両手の指先を合わしながらわたしがそう言うと、ノエルさんはフォークを薄い唇で加えながら目をつむって少し考えこむ。
「んー……中等教育の終わりの事?」
「それもありますけどそうじゃなくてもっと大事なことですよ! もー忘れちゃったんですか。わたしは決して忘れません。この家にメアリーがノエルさんを連れてきてルルと初めて出会った時のことを……あの頃のノエルさんは今の可愛さとはまた違う可愛さが合って実に良かったです……もちろん今のノエルさんも素敵ですが!」
わたしが記録メディアから過去の情報を引き出し思い出にふけっていると、彼も懐かしむよう口を開きました。
「あーもうあれから10年も経ったんだね。――今のルルはそうやってよく笑ってるけど昔は全然笑わなくて怖かったなー」
「そ……それはだってあの頃はメアリー以外の人と接することが殆どなくて、非言語コミュニケーションがまだ苦手だったんです。かく言うノエルさんも最初は全然笑わなかったじゃないですか」
わたしが膨れ面をすると彼は笑う。
「そうだったね。あの頃はお互い不器用で、それをメアリーさんに指摘されて二人で向き合って笑顔の練習したりしていたよね」
「そんなこともありましたね。わたしが今こうやって笑っていられるのはメアリーとノエルさんのおかげです」
わたしは口角を両人差し指で持ち上げ笑っておどけてみました。
昔は口角の角度や瞼を細める間隔などの筋肉の動きを演算して表情を作っていましたが、今や無意識に喜怒哀楽の表情を作る事が出来るようになりました。元々、対人用に作られたわけではなかったわたしには、人の言動を真似ることはとても難儀しましたが、彼と過ごしたこの十年でわたしは存外、人らしく振る舞えるようになりました。「それは僕もだよ。メアリーさんが僕を引き取ってくれてなかったら、もしかしたらまだ孤児のままだったかもしれないし、ルルがいてくれたから今の僕がいる。だからその……ありがとうね。僕のそばに居てくれて」
ノエルさんは少し頬を染めはにかみを見せる。わたしの頭の中のALMAは仄かに発熱し、微かにインピーダンスが乱れ始める。ですがそれは心地のいいクオリアでした。
「もーノエルさんったら。わたしはずっとあなたの側にいますよ」
頬と頬をすり合わせるとわたしの鼻に彼の髪が掠める。彼の確かな温もりと甘い匂いがこの
「はいはい。もうわかったから離してよ。食べづらい」
気づけばノエルさんの背後から抱きついてました。これは能動的アルゴリズムプログラムに従ってやった事です。不可抗力、仕方のないことなのです。
「あらあら、いつの間にか身体が勝手にノエルさんにくっついちゃいました。すりすり」
「ちょっと……! 当たってるってば……」
ノエルさんの体温が少し上がる。最近はスキンシップをすると拒まれるのです。どうやら思春期という複雑な年頃らしいのですがルルにはあんまり理解できないものです。
わたしがノエルさんを愛でていると彼はわたしを振りほどこうとはしなく、そそくさと朝食を済まして登校の準備をしに自室に戻りました。着替えてきた彼の服装は白いシャツに、サスペンダーのついた綺麗に仕立てられた黒いズボン。彼の上品さがよりいっそうに引き立てられています。
わたしは彼を見つめ
ユーフォリア・コロニーに住まう構成民は義務として身分証明端末〈identification object cord〉と呼ばれるナノマシンを脊椎に注入されており、それが所有者のバイタルチェックからメンタルチェックまでを管理してくれるのです。IOCはそれだけの役割ではなく所有者の行動記録や脳波からストレスが過度に達していないかなどを読み取り、犯罪やメンタルケアを事前に対処出来るように安全面にも役立っています。
彼の身体を注視し健康状態に異常がないのを確認し彼の背中を軽く押し、玄関まで送り出す。
「はい、今日も健康そのものですね。ですがやっぱり肉付きが少ないのでもう少しカロリーのある食事にした方がいいですかね。ノエルさんは今日の晩御飯何か食べたいものあります?」
「別になんでもいいよ。ルルの料理はどれもおいしから」
わたしが希望の夜の献立を尋ねると、ノエルさんは素っ気なく返答して玄関へと歩いて行くその後にわたしは続いて行く。
「なんでもいいが一番困るんです。食事というものは食卓の会話を彩る花のようなもの。美味し物を食べれば会話も自然と弾むものなのです。ですからないがしろにしては――」
彼が靴紐を結んでる間、わたしは自分で考えた食卓の定義を語っていると遮るようにインターホンが割って入ってきたので、扉を開けるとそこには赤毛の女の子が立っていました。
「あらあら、メリッサおはようございます。いつも迎えに来てくれてありがとうございます」
彼女は隣のエーデル家の一人娘のメリッサ・エーデル。母親のクリスタと同様、癖っ毛のある赤毛に翡翠の瞳、少し目立つそばかすが特徴的な女の子。
「おはようルル――ほらノエル、早くしないと学校遅れちゃうよ」抑揚のない落ち着いた声音で彼女はノエルさんを早く支度を済ますように促す。
「わかってるってば……よし、それじゃあ行ってくるねルル」
ノエルさんは靴紐を結び終えると、慌てながら玄関を飛び出して行きました。
「二人共気をつけていってらっしゃい」
わたしが手を降って見送るとノエルさんは笑って手を降って返してくれましたが、メリッサは素っ気なく目をそらし歩いて行きました。彼女はわたしの前ではいつも無表情で感情が読み取れません。ただそれがわたしに対する拒絶の証明ということは理解していました。
彼女がなぜわたしにそういう態度を取るのかはわかってはいるのですが、やはり人に嫌悪感を抱かれると落ち込んでしまいます。
思わず玄関の前で項垂れ溜め息を付いていると、隣の宅でガーデニングをしていたメリッサの母であるクリスタが一連のやりとりを見ていたようで、苦笑いをしながらわたしに向かって手を降った。
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