エピローグ 森の向こう

 クロエは左手で自分の喉笛を押さえていた。血まみれの右手からペーパーナイフがずるりと滑り落ちて、そのまま床にすとんと突き立った。左手の指の間から、幾筋も滝のように血が溢れだしていく。だが、クロエは倒れなかった。体を起こして背筋を伸ばして立ち、両足で床を踏みしめ、何故なのかどこか満足そうな笑みを浮かべる。そして、クロエは私を見つめたままわずかに口元を動かした。私の耳にはクロエの声は聞こえなかったが、何を言っているのかはわかった。


——よくやったわ。


 いつもクロエは殺しをした人間を褒める。これで私もこの城の人間の仲間入りだ。私は凛の尊敬できる姉ではなくなる。私自身が殺人を犯しては、人を殺すのは悪いことだって胸を張って言えなくなる。クロエの唇からも血が溢れ、顎を滝のように伝い落ち始めた。


 凛はクロエの拘束から逃れると、咳き込みながらゆらりと起き上がった。私のそばまで足を引きずりながら歩いてくると、ぺたんと床に座り込んだ私の手から拳銃をもぎ取り、半身で右腕だけを振り回してクロエを狙う。いったん撃鉄を上げることもなく、凛はすぐそのまま無造作に引き金を引いた。


 凛の右腕が跳ねると同時に、クロエの額にぼつっと指の太さほどの赤い穴が空き、それからクロエは後ろ向きにどさりと倒れた。その背後の壁に、真っ赤な鮮血がべっとりと張り付いているのが見えた。凛が役目を終えた拳銃を手放し、拳銃は床にごとりと音を立てて転がった。


 凛は私の膝の上に乗ると、私の首にぎゅっと抱きついた。私も凛の腰に手を回す。血なまぐさい中に、懐かしい匂いがする。間違いなく、私の妹だ。


「終わりました、ぜんぶ」


 何度も銃声を耳にしたせいで耳が遠く、凛の声が聞こえにくい。また薬が回ってきたのか、頭のなかが白くぼやけていく。凛、私、ついに人を殺しちゃった。クロエを殺しちゃった。悪い子だ。


「クロエ様に止めを差したのは私です。お姉ちゃんは悪くありません」


 そっか。ありがとう。世界一かわいい、自慢の妹だ。だから、凛のことが好きだ。私は凛と身体を離すと、少し首を傾げて凛に口づけをする。凛は少しだけ驚いた顔をした。唇を擦り合わせるたびに、全身が快楽に悲鳴を上げそうになる。凛————。



————————



 気を失っていたのだろうか。私はぼうっとする頭を振りながらベッドの上で体を起こした。クロエの部屋にいたのが最後の記憶だが、いつのまにか三階の自分たちの部屋に戻ってきていたらしい。


「目が覚めましたか?」


 凛はベッドの隣で椅子にちょこんと座り、私の顔を覗きこんでいた。べっとりと血を吸い込んでいたあの黒いワンピースを脱いで、学生のようにも見える明るいピンク色のブラウスとチェックのスカートに着替えている。私のほうはというと、何故か下着だけで布団にくるまっていた。どうやってこの部屋まで辿り着いたのか、ぜんぜん記憶がない。


「……うん。凛は怪我はない?」


 私の声を聞くと、凛はほっと息をついた。窓の外には陽が高く登っていた。あれから夜が明けて、とっくに次の日の昼すぎになっているようだ。薬の影響だろうか、全身が気怠けだるかったが、気分はすっきりしていた。打たれた薬は抜けたらしい。


「ええと、とにかくぜんぶ大丈夫です。安心して休んでください」


 最後の記憶を手繰る。私の撃った弾丸はクロエの喉笛を貫いていた。あの出血の量は、どうみても致命傷だろう。でも、クロエが死ぬ前に、凛も拳銃でクロエの額を撃った。私はクロエを殺したといえるのだろうか。それとも——。


 城はとても静かだった。信じがたいが、本当に凛はひとりですべてを片付けてしまったらしい。それなのに、凛は小さな切り傷があちこちにあるのを除けば大した怪我もなく、薬を打たれてふらふらしていた私よりむしろ元気なくらいだった。凛の首筋にはテープが貼ってあって、それが一番大きな傷のようだ。クロエのペーパーナイフがかすったらしい。


 私が動けるようになったあと、数日かけてふたりで城の中にころがった血まみれのものを残らず集めて、灯油をたっぷり掛けて丁寧に焼却した。残った灰は、すべて海に撒いた。床にも水を流して血を洗い流した。城の中は水浸しだが、これで誰かが見ても何があったのかはすぐにはわからないだろう。たとえ止むをえないことだったとしても、凛はあまりにたくさんの人を殺しすぎてしまった。ここであったことが誰かに知れたら、大騒ぎになってしまうだろう。そうなったら、きっと私と凛は一緒にはいられなくなってしまう。だから、ここであったことはもう誰にも知られないほうがいい。罪を負うべき人間は、みんないなくなった。


 クロエの部屋の奥の書斎は施錠されていたが、凛が散弾銃ショットガンで鍵を壊すと扉は難なく開いた。書斎のなかでは、大量の現金が詰まったトランクや、ケースに入った自動拳銃オートマティック、自動車の鍵、門の鍵なんかが見つかった。箪笥のように大きな金庫も設置してあった。現金や拳銃なんかより大切な何か、つまりクロエがこの城でやっていた後ろ暗い秘密が、この金庫の中にあるのだろう。


「これも、開けますか?」


 散弾銃で壊せるようなものではないし、どうやって開けるつもりなのかわからないが、凛がそう私に訊いた。


「……開けなくていいよ」


 今更クロエの秘密を知ったところで、意味はない。すべては終わったことだ。外部と連絡のとれる携帯電話などの機器も探したが、まったく見つからない。必要なものだけを選んでかばんに詰めて、二人で持ちだした。


 玄関を施錠して、私と凛は森の奥に向かって並んで歩き出す。外は天気がよく、日差しが少し暑いくらいだ。


「お城の敷地のすぐ外に、仮の拠点があるんです。ひとまずそこまで行きましょう」


「拠点?」


「見た目は普通の民家いえですが、咲さんたちが外出するときに時々立ち寄っていました。私も一度クルマの中から見たことがあります。食料なんかも少し用意してあると思います」


 森の奥の門は、クロエの書斎から持ちだした鍵ですぐに開いた。門の向こうも、森のなかをずっと舗装された道が続いている。門の外側の脇にはガレージがあって、中には自動車が数台並んでいた。凛が意気揚々と銀色の大きなクルマの運転席に乗り込むので、私も後部座席にかばんを載せてから助手席のドアを開けた。


「凛はクルマの運転もできるの?」


「咲さんの運転の、見よう見真似です」


 そう言って、凛はハンドルの脇をしげしげと眺めてから、そこに自動車のキーを差し込んで捻る。ぶるんとエンジンが掛かる音がして、凛はちょっと驚いたようにびくりと肩をすくませた。


 凛の運転はゆっくりだったが、クルマは危なげもなく森を進んでいく。十分じゅっぷんほど走るともうひとつ門があって、それをくぐるとようやく城の敷地の外らしい。でも、この速度ではその倍は時間がかかるだろう。そこに拠点があって、そこからまたしばらく走ると市街地に出るそうだ。


「私がこの城に来た時のこと、お話してもいいですか」


 ハンドルを握って前を見たまま、凛がそう言った。凛は以前のことをあまり話したがらなかったし、私が質問したときにはプリンを戻してしまったこともあった。そんな話をさせて、大丈夫だろうか。


「言いたくなかったら、無理をしなくていいけど……話すの、怖くないの?」


「だいじょうぶです。全部、終わりましたから。それより、お姉ちゃんに私のことを知ってほしいんです」


「そっか。じゃあ……私も、凛のことを知りたい」


 それを聞いて、凛はくすぐったそうにちょっとだけ肩をすくめた。それから一度深呼吸して、はっきりとした口調で語り始めた。


「私とめぐみちゃんがいつあの地下牢に来たのか、正確なことはよくわかりません。ずっと薄暗いままだし、昼か夜かもわからなかったから。何回眠くなって、何回目が覚めたのかも、いつのまにか忘れてしまいました——」


 鬱蒼と生い茂った葉の間から光が漏れだし、ボンネットで反射してきらきらと輝く。これからどうするかは、まだ決めていない。これからどこに行くにしても、凛と一緒にいられる場所がいい。小さな身体を精一杯伸ばしてアクセルを踏み込む凛の頼もしい横顔を、私はそっと見つめた。



(了)

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黒百合の城 小林稲穂 @kobayashiinaho

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