第二十八話 反転

 撃鉄を起こした音に反応したのか、菫さんが頬の腫れた顔をゆっくりと上げた。菫さんはしばらくぼんやりと銃口を覗きこんでいたが、やがて目を細めて口元をぎこちなく歪ませた。私に意図が伝わって、安心したのかもしれない。死ぬ覚悟ができて無理に微笑んで見せたのだろうが、菫さんの肩は震えていた。


 これまで私はクロエが命じる殺人を拒んできたが、このまま引き金をひけば、私もついにこの城の人間の仲間入りだ。私が菫さんを殺したとして、クロエはそれをゆるすどころか褒めるだろう。そしてまた明日から、凛とふたりで日々を過ごせるだろう。でも——私は銃を菫さんに向けたままクロエに問いかける。


「……おかしいですよ。なぜ菫さんが死ななくちゃならないんですか」


 クロエは何も言わない。問答をするつもりはないのだろう。私がここで菫さんを殺すか殺さないか、ただその結果だけをクロエは楽しみにしている。


 たとえ今を凌いだとしても、クロエはまたいずれ凛にも殺人を命じるだろう。この一線を超えて手を汚せば、もう歯止めは効かなくなる。私も凛も、ずるずると際限なくクロエの思惑に呑み込まれていく。凛の両手は血に濡れていき、心は私が守りきれないくらいに傷つき壊れていくだろう。私は悪夢にうなされる凛を見た。もう凛に誰も殺してほしくはない。凛にこれ以上誰かを殺させるつもりなら……なら、死ぬべきは——。


 私が振り返った瞬間、桜さんの腕が私を取り押さえるべく伸びてくる。私は左手で思い切り桜さんを払いのけると、クロエの頭に向かって右手の拳銃を突きつけた。


 乾いた破裂音が耳をつんざいた。私の右手首はクロエに掴まれて持ち上げられていて、そのはずみで発射された銃弾はクロエの頭の上をはるかに逸れたらしい。クロエの背後の天井から、ぱらぱらと細かい石の破片が落ちるのが見えた。私が右腕に走った慣れない衝撃に思わず身をすくませていると、指先に一瞬何か触れる感触がして、突然腕が軽くなってかくんと持ち上がった。私が握っていたはずの拳銃が、一瞬でクロエの手元に移っていた。


「私を殺せると思ったの? 奏は本当に下手ね」


 手元の拳銃をくるくるともてあそびながら、クロエが本当に可笑しそうに口角を引き上げた。背後から桜さんが私の襟首を掴み、腕を捻り上げる。右手首に鋭い痛みが走り、それだけで私は一歩も動けなくなる。


「……死ぬべきはあなたよ。菫さんを殺すくらいなら、あなたを殺す」


「凛なら、何も教えなくてももう少し上手くやるわ。やっぱり才能ってあるのよね」


 私は睨みつけたが、クロエは何でもなさそうに肩をすくめる。銃を突きつければもっと違った言葉が引き出せるかと思っていたが、交渉するどころではなかった。桜さんの腕を振りほどこうとしたが、まるで手首がセメントで固められたみたいに動かない。


「ねえ、奏。私に刃向かうとどうなるか、わかるわよね」


 凛がこちらに飛び出したのと、咲さんの右足が跳ね上がるのは、ほぼ同時だった。凛は鋭い蹴りの威力を両腕で受け止めると、床で一度転がって距離をとってから素早く立ち上がる。凛の右手にはいつのまにか小型の折りたたみナイフが握られていた。咲さんは私と凛の間に割りこむようにゆっくりと歩く。凛も距離を測りながらじりじりと足を進める。


「お姉ちゃんを離して」

 

 凛がナイフを突き出すのと、咲さんが一歩大きく踏み出してそれを躱すのもやはり同時だった。咲さんは左手でやすやすと凛の突きを払う。凛の動きはすべて咲さんが教えたものだ。どの間合い、どのタイミングで凛がどう動くのか、咲さんはすべて知り尽くしていた。咲さんは左手で凛の袖口を掴んで引き寄せると、そのまま右の肘を凛の額に叩き込む。鈍い音がして、凛は衝撃で仰け反り、そのまま膝から崩れ落ちた。


「これ、確か菫の銃よね」


 クロエは銃をいじって調べている。それだけでクロエはいろいろと察したらしい。クロエはシリンダーを振り出して傾け、拳銃から弾丸を抜いた。


「ねえ、ちょっと運試しでもしてみない?」


 クロエはこれ見よがしに一発だけ弾丸を込めると、シリンダーを指で弾いて回転させる。それを見て菫さんが強く目をつむる。クロエはシリンダーを戻し、菫さんに狙いをつけると、無造作に引き金に力を込めた。私は思わず叫ぶ。


「止め——!」


 がちん、と撃鉄が下りる音が独房に響いた。固く結ばれた菫さんの両目から、せきを切ったように涙があふれていく。人間の覚悟なんて、そう長い時間は続かない。一度漏れだした菫さんの死への恐怖はもう止まらない。


「嫌だ……死にたくない……死にたくない……」


 菫さんの呟きが漏れ、クロエは満足そうに笑っている。


「そうねえ、私が飽きるまでこれを続けて、それでも生きていたら許してあげてもいいわ。撃つたびにシリンダーを回してあげるから、すごく運が良ければ生き残れるわよ」


 クロエはもう一度シリンダーを振り出し、指で弾いて回転させる。手首を振ってシリンダーを素早く戻し、間髪入れずに菫さんの頭に押し当てて、引き金を引く。がちん、と空振りした撃鉄がまた重たい音を鳴らした。菫さんががくがくと震える。


「私リボルバーって好きじゃないのよね。指が疲れるから。こんなの使ってるの菫だけよね」


 クロエはそう言うと、再びシリンダーを回す。今度は親指で撃鉄を起こし、人差し指を絞る。


「……クロエ!」


 私が叫んだ瞬間、轟音とともにクロエの腕が跳ね、それに合わせて菫さんの頭が激しく揺れた。背後の石壁に血の花が咲き、菫さんの頭ががくっと垂れた。額から溢れたであろう大量の血が、ワンピースにどんどん染みこんでいっているのがわかる。菫さんの身体は鎖にぶら下がったまま、もうぴくりとも動かなかった。


「あらら。ちょっと運が足りなかったわね」


 私は言葉を失う。長いあいだこの城で過ごし自分に仕えてきたであろう菫さんを、クロエはあっさりと自分の手で殺した。こうやってこの制裁をこの城のほぼ全員に見せている。これは罰なんかじゃない。ただの見せしめだ。


「奏がさっさと殺していれば、菫はあんな怖い思いをしなくて済んだのにね」


 クロエは私の方を見ると、特に残念そうでもなく言った。私のせいだとでも言うのか。私の腹の奥底に、どろどろと濁った感情が沸き上がってくる。


「ねえ、奏。あなたは主人に銃を向けたのよ。罰を与えないとね」


 桜さんに私の両腕が後ろに捻り上げられ、手首がきゅっと締まった。樹脂製のカフがめられたようだ。外そうと腕を捻ったが、カフはびくともしない。クロエは私の顎を持ち上げる。


「でも、あなたは本当に可愛いから、殺すのは私も嫌なのよ。だからね、あなたが従順になるまで、しつけをしてあげることにするわ。ちょうどいいお薬が手に入ったのよ」


「……薬?」


「依存性が強くて、頭がちょっと変になっちゃうけど、いいわよね。お薬がきまれば首筋をなぞっただけでも達しちゃうくらい、それはとっても気持ちいらしいわ。楽しみね」


 クロエはそんなものまで持ち込んでいたのか。冗談じゃない。クロエは私の腕を掴んでぐいと引き上げる。私は身を捩るが、手首の細いカフは肉に食い込むばかりだった。


「凛。姉妹ごっこはもう終わりにするわ。薬が入れば奏はあなたのことなんか忘れちゃうから」


「離して、クロエ……! 凛は私の妹よ……!」


「咲は凛を見張っていて。他の子たちはもう部屋に戻っていいわ」


 クロエはそう指示すると、私を抱えるようにして凄まじい力で引きずっていく。


「……かなでお姉ちゃん」


 朦朧もうろうとした凛がなんとか絞り出した声が背後から聞こえた。




 寝室に辿り着くなり、クロエは私の身体を乱暴にベッドに放り出した。後手に縛られたままではなすすべもなく、ベッドの弾力に跳ね返されて無様に転がる。うつ伏せで周囲は見えないが、背後でかちゃりという音がして、クロエが扉に鍵をかけたのがわかった。


「……凛には手を出さないで」


「殺したりはしないから、安心して。あの子はとても使えるからね」


 首を捻って脇を見ると、クロエが小さな金属のケースを持って私のそばに腰を下ろしたところだった。ケースを開いて白い粉が入った小さな透明の袋や注射器を取り出す。小皿の上に少量の粉末を出すと、スポイトで少し水滴を垂らし、ライターで底をあぶり始めた。


「やめて……何なの、それ……」


「これ、以前にも使ってみたことがあるんだけどね。その子、私とするのは絶対に嫌だって言っていたのに、最後は自分からおねだりするようになっちゃったのよ」


 クロエがまた楽しそうに笑う。小皿から注射器で中身を吸い出すと、注射器を上に向けてとんとんと指で叩く。私は這いずってベッドから降りようとしたが、クロエに掴まれてぐいと引き戻された。


「きっとあなたも、私とするのが大好きになるわ」


「やめて……!」


 クロエが膝で私の肩を押さえつける。思い切り身体をよじったが、少しベッドが揺れるばかりでまったく身動きが取れない。恐怖で私の呼吸が荒くなっていく。左腕に、ちくりと鋭い痛みが走った。

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