第二十九話 お姉ちゃんを助けに行くと決めたこと
咲さんはぐったりしたままの私を引きずっていくと、独房の中に突き飛ばした。私は床に転がって這いつくばる。でも、意識が朦朧としているふりをしているだけで、実はもう頭ははっきりしていた。私の頭は冷静だった。お姉ちゃんが危ない。やるべきことが、頭のなかでパズルのピースのようにどんどん組み上がってゆく。私に何が出来て、何が出来ないのか。どんな道具を持っていて、足りない道具は何か。私が守りたいのは誰か。私にとって邪魔なのは、誰か。
銃を持っているなら、私に渡してくれれば良かったのに。私なら、まずすぐに咲さんと桜さんを殺して、それからクロエ様を脅してあの場を制圧できていた。でもお姉ちゃんは、私にこれ以上人殺しをして欲しくなかったんだろう。ぎりぎりまでクロエ様と交渉して、誰も死ななくて済む方法を探したかったんだろう。だから自分でやろうとした。お姉ちゃんなりに私を守ろうとした。私はそれが嬉しかった。私はお姉ちゃんを助けるためにどんなことでもすると決めた。どんなことでも。
「……咲さん、お姉ちゃんを助けて」
咲さんは私のほうをちらりと見たが、何も言わなかった。
咲さんは
咲さんや他のみんなには、本当に悪いなと思う。本当は先に謝っておきたいけど、そうするときっと警戒されてしまうだろう。だから、心の中でこっそり謝っておこう。ごめんなさい。よし、これできっと大丈夫。私はためらわない。
「……これを、いますぐにクロエ様に渡してくれないですか」
私は鉄格子のそばに這いよって、エプロンに入っていた適当なメモ用紙を咲さんに差し出す。咲さんが
私は咲さんの袖口を両手で掴むと、素早く姿勢を変えて鉄格子に足を掛け、全体重をかけて思い切り後ろに引っ張った。咲さんはバランスを崩して、側頭部をごんと鉄格子に打ち付けた。眼鏡がどこかへ吹っ飛んでいく。
鉄格子の横棒に咲さんの肘のあたりを乗せ、小指を捻って手のひらを上に向けさせる。咲さんが逆の腕で鉄格子を掴んで体勢を戻そうとするが、私は構わず手首を掴み、しゃがんで思い切り下に全体重をかける。ごきり、と不気味な音がして、咲さんの肘が背中の方向に折れ曲がった。咲さんが低い声で呻く。更に咲さんの折れた肘と襟首を掴んで力いっぱい手繰り寄せると、頭の後ろから右の眼球に中指をかけ引っ張った。ミニトマトを潰すようなぐちゃりという気持ちの悪い感触がして、耳が痛いほどの絶叫を咲さんが上げた。
咲さんが反射的に左手で抜いて叩きつけたセラミックのナイフは、私の指先をかすめたあと鉄格子に当たって、ぱきんとあっけなく折れた。少し指先をずらさなければ、あやうく私の左手の指がぜんぶなくなってしまうところだった。咲さんのこの動きを
「咲さん、いままでいろんなことを教えてくれて、ありがとうございました」
潰れた目を抑えてのたうち回っていては聞こえているかわからないけれど、咲さんにお礼を言っておこう。咲さんには、ナイフの使い方とか、格闘の仕方とか、いろいろ教えてもらったのに、恩をこんな形で返してしまうなんて、本当にごめんなさい。でも、私の大好きなお姉ちゃんが、危ないんです。奏お姉ちゃんがいなくなっちゃったら、私はきっとおかしくなってしまうんです。
咲さんは腕が折れて目が潰れているのに、まだ立ち上がろうとしていた。その背中を私は膝でぐいと床に押さえつける。咲さんのワンピースのスカートをめくると、両の太ももに鞘が取り付けられていて、細いセラミックナイフが何本か収まっているのが見えた。ナイフを抜き取り、咲さんの首の後ろに突き立てる。そのまま体重をかけて床まで引き下ろした。筋がぶちぶちと千切れる感触があって、それからナイフの先端がほんの少しだけ首の骨を削った感覚がわかった。咲さんの首の右から三分の一くらいが胴体から離れ、そこからコップの水でもこぼしたみたいに血がばしゃばしゃとこぼれ落ちた。
骨に当ててナイフの動きを止めたり、突き刺して抜けなくなったりしないように、咲さんに狙う箇所をしっかりと教えこまれた。手首や足首の腱を切り裂いて動きを止め、頸動脈あるいは太ももの動脈などを切って致命傷を与える。すべては咲さんに教えてもらったとおりに。素早く、確実に。静かに、効率よく。
背後で地下牢の入り口の扉が軋む音がした。振り返ると、さっきの咲さんの悲鳴を聞きつけたのか、
血まみれで重くなったエプロンを外し、返り血の飛んだ顔を拭いながら立ち上がる。クロエ様は菫さんの拳銃を持っていった。私にも武器が必要だ。私の脱走がばれるまで、時間はあまりない。お姉ちゃんにも危険が迫っている。私は地下から出る階段を駆け上がっていく。
一階の廊下に人気はなかった。私は音を立てないように廊下を走りぬけ、奥の小部屋に到達する。鍵の束から素早くひとつを選び出し、扉の鍵を開けると部屋の中に滑り込んだ。壁際のガンロッカーを開ける。使い慣れた
ヘッドホンのような形をしたイヤーマフもあったので、これも装着しておく。銃声から耳を守るが、会話くらいの音量ならマイクで拾ってくれる便利なものだ。ここからはひとりで戦うことになるから、周囲の気配を探るために耳が必要になる。ポーチ。予備の銃弾。私は他にも次々と装備を取り出しては身につけていく。
私がこんなものを持っているのをお姉ちゃんが見たら、どう思うだろうか。ナイフなら果物の皮を剥くためだって言い訳できるかもしれないけど、銃の目的はひとつしかない。私のことを怖いと思うだろうか。私が人殺しがとても上手になってしまったことを知って悲しむだろうか。でも、私は良かったと思ってる。お姉ちゃんを助けることができるんだから。
「凛ちゃん、何やっているの?」
振り返ると、桜さんが戸口で不思議そう首を傾げて私を見ていた。とぼけた表情をしているけれど、右手は体の後ろにしっかり隠しているのがわかった。ナイフを構えているのだ。私が戸口に散弾銃の狙いをつけると同時に、桜さんは素早く壁の向こうに姿を隠した。
「悪いことはやめたほうがいいよ、凛ちゃん」
壁の向こうから桜さんの声が聞こえてくる。私が部屋から出てくるのを待っているようだ。私にはあまり時間がないから、桜さんは私が部屋から出る瞬間を狙うつもりだろう。体格でも、ナイフの扱いも、桜さんのほうがずっと上だ。だけど、私には銃がある。逃げてくれれば殺さなくてすむけど、たぶんこの家の使用人はみんなこういうとき逃げたりはしないと思う。こうなってしまったら、もうどちらかが死ぬまでは終わりはない。
「……ごめんなさい」
桜さんにもたくさん可愛がってもらったし、先に謝っておこう。死んじゃってからじゃ、聞こえないだろうから。私はストラップで散弾銃を背負うと、代わりにナイフを取り出して構える。
戸棚から塗装用の黒いスプレー缶を拾い、勢いをつけて廊下に転がすように投げ入れる。桜さんがそれを手榴弾か何かと見間違えて一瞬の隙ができれば十分だ。缶が絨毯に転がるごとっという音と同時に、私はできるだけ姿勢を低くして、戸口から飛び出した。
桜さんのナイフが背中を
耳をつんざく爆音がして、銃口から飛び出した小さなたくさんの金属球が、桜さんの顎から上をぐちゃぐちゃにして吹き飛ばした。赤黒い脳漿と頭蓋骨の破片が、シチューでもこぼしたみたいに廊下の絨毯に飛び散る。ワンテンポ遅れて、脳神経を失った桜さんの残りの体が、糸の切れた人形のようにどさりと床に倒れた。
ガンロッカーのある小部屋に鍵をかけ、玄関のほうに向かって廊下を駆け出す。城じゅうの人たちが今の銃声に気付いただろうから、たぶんここにみんな集まってきてしまうけど、弾薬は十分にあるから問題はないと思う。
お姉ちゃん。
お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん——。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます