第三十話 恍惚
私の意識は、霧に包まれたようにぼんやりとしていた。全身が柔らかい毛布に包まれたみたいに温かい。世界中の時間が、ゆっくりと穏やかに流れていく。眠たくはない。ただここに寝転んでいるだけ、それだけで心が満たされていく。
背後でぷつりという音がして、両腕が自由になった。私はうつ伏せのまま、ゆっくりと深呼吸する。大きく息をするたびに、真っ白なシーツから湧き上がる華やかな香りが鼻腔をつく。
——どんな気分かしら、
誰かの指が、私の首から背筋にかけてをするりと撫でてゆく。全身に強烈な快感が通り抜けていき、私はシーツをぎゅっと掴んでそれに耐える。苦しいくらいなのに、嫌じゃない。もっと、もっと触れてほしい。もっと、して。
——そう、もっとこうして欲しいのね。
くすり、という楽しげな笑い声がした。それを聞いて私も笑い出してしまいそうになる。指が腰に触れ、私の口から
——うるさいわね。
目を開けると、絹のようになめらかな金髪がするりと流れていくのが見えた。そうだ。これは、クロエ。やめないでほしい。もっと。クロエ様、どこへも行かないで。私は身体に自ら指を這わせる。胸に。脚に。服が、邪魔だ。スカートをめくり上げて中に手を滑り込ませると、また狂おしいほどの快感が下半身から溢れ、全身が熱を帯びていく。私は貪るように自分の身体をいじり続ける。
——あなたはちょっと待っていなさい。そうやって、自分を慰めながら待っていればいいわ。
クロエが私にそう言って、テーブルから何か拾い上げたのが見えた。銀色に綺麗にに輝く塊。あれは確か、拳銃だ。そんなものはいいから、私にもっと触れてほしい。また遠くで大きな破裂音が鳴り響いた。うるさい。反射的に音のした方に目を向ける。そして、もう一度大きな音がした。だんだん近づいてくる気がする。たっぷりと引き伸ばされた時間の中で、黄金色の蝶番がゆっくりと宙を舞ってきらりと光ったのが見えた。どしんと何かを叩くような音がして、部屋の入口の扉が手前に倒れてくる。扉って、あんなふうに開くものだっけ。なんだかそれがおかしくて、私はくすりと笑った。
——かなでおねえちゃん!
可憐な声が、私を呼んだ。耳慣れた声だ。そう、私はお姉ちゃん。可愛い自慢の妹がいて、今日も一緒にごはんを食べて、一緒のベッドで眠るのだ。そう、凛。可愛らしい名前だ。今度は一緒にお風呂なんて。そんな日が、今日も明日も、ずっと。続いて。それで。好きだよ、凛。
ベッドの上で私がぼうっと見つめるその先で、何か黒っぽい影が部屋に飛び込んできた。恐ろしく素早く、一瞬で私の視界から外れていく。クロエの手元で風船が割れるような甲高い破裂音がして、遠くでガラスが割れる、ぱりんという音も聞こえた。陶器のように白く美しいその手に握られた拳銃から、わずかに紫煙が立ち昇っている。クロエが身を翻して、金髪がふわっと流れる。今度はどん、という重たい破裂音がして、また何かが砕けるがしゃんという音がした。とてもやかましい。
急にワンピースの腰のあたりをぐいと引っ張られた。ふわっと体が浮き上がった感覚がして、直後にずきっと肩に痛みが走る。背中が硬い。ベッドから引きずり降ろされたらしい。すぐ近くでまた、どんという重たい音がした。耳が痛い。だが私の身体は快楽に包まれてふわりと宙に浮かんでいるようだ。もう一度、ゆっくりと深呼吸する。
——お姉ちゃん!
この声が、ただとても愛おしい。いつまでも聴いていたい。この声に身体中を撫でてほしい。もっと、もっと呼んで。
「
凛。そうだ。私の大切な妹。妹に会いたい。私はゆっくりと体を起こして、ぺたんと床に座り込む。目の前には、大好きな妹の顔があった。好きだ。私が凛に抱きつこうとすると、凛は私の腕を振り払った。好き。好きなの。
「わかりましたから! 怪我はないみたいだけど……そこで伏せていてください!」
凛は大きな銃を右手で握っていた。確か、
重たい真鍮の置き時計が飛んできて、凛が身体を捻ってそれを避けた。時計は壁にあたって、ごとっという重たい音とともに転がった。時計の前面のガラスが粉々になって床に散らばり、きらきらと綺麗に輝く。時計の飛んできた方向を見ると、奥にはクロエが立っていた。拳銃を握った右腕はだらりと垂れ下がり、幾つもの血の筋が伝っている。眉根を寄せ、少し苦しそうに肩で息をしていた。
凛はベッドの陰から飛び出すと、素早くクロエのそばに駆け寄って、そのままの勢いで散弾銃の銃床を振り上げてクロエに叩きつける。鈍い音がしてクロエが顔をしかめ、拳銃がはじけ飛んで空中で光った。クロエの左腕が唸り、掌底が凛の顎に突き刺さる。凛の頭ががくんと揺れ、膝から崩れ落ちる。残弾が尽きてただの棒きれになったらしい散弾銃は、凛の手を離れて床に転がった。
クロエは落ち着いてデスクの引き出しをがさがさと漁ると、小さなペーパーナイフを拾い上げた。床に転がる凛の襟首を左腕で掴んで締めあげると、血まみれの右手に持ったペーパーナイフを突き出す。凛はクロエの肘と手首を掴み、胸に突き刺さる寸前でナイフを押しとどめる。クロエが凛に覆いかぶさるようにして腕に体重を掛けるが、凛は床に仰向けに転がったまま右足でクロエの腹を押し返す。
ふと私が足元を見ると、鈍い銀白色に輝く塊が床に落ちていた。菫さんの銃。私が貰った銃。だから、それを拾い上げる。私がふらりと立ち上がると、凛とクロエが同時にこちらを見た。クロエは凛の襟元を掴んで床に押さえつけ、凛は胸元に迫るナイフの先端を必死で押し返している。息が詰まって何も言えないのだろう、凛は赤い顔をしたまま目でこちらに何かを訴えている。
そうか。凛は。私にクロエを殺して欲しくないのだ。この女を殺すのは自分の役目だと、凛はそう言っているのだ。誰も殺したことのない私がそばにいることで、凛はどうにか正気を保てているんだ。私だって本当は誰も殺したくなんてないけど、凛がこんなに苦しそうにしている。だめだよ、クロエ。凛は私のものだよ。私は拳銃を両手で握り、クロエの頭に向けてゆっくりと持ち上げる。クロエがこちらを睨んだ。
「やめなさい、奏。凛に当たったら危ないわ」
いいえ、凛には当たらない。当てるのは、あなたの頭だ。クロエ。私は映画の中の登場人物の様子を思い出す。グリップを両手でしっかり握り、両目は開いて。身体はまっすぐに。引き金を引くときは、人差し指を引くというより、手のひらを絞るように。そうだ、撃鉄を起こすと引き金を軽く引けるんだった。そんな風に、菫さんのメモに書いてあった。私は親指でゆっくりと撃鉄を起こす。かちゃり、と無機的な音がして、それを聞いたクロエがその美貌をほんの少し歪めた。銃口の先端についた突起を注視して、クロエの頭の上に重ねるように慎重に手首を動かす。
もうこれで大丈夫だ。安心感が私を満たす。凛、助けてくれてありがとう。凛がいてくれさえすれば、もう恐れるものなんて何もない。お姉ちゃん頑張るから、よく見ていて。私がクロエを殺して、それで嫌なことはぜんぶ終わり。そしたら、ふたりでどこか遠くに行こう。頭の中がふわっとぼやけてくる。部屋の中が、ぐにゃりと歪んで見える。呼吸が荒くなり、頭がくらくらした。頭を振って、もう一度両足で床を踏みしめる。
ねえ、クロエ。私はあなたのことが——。
息を止め、人差し指に力を込めると、私の手首が反動でがくっと跳ね上がった。部屋に鳴り響いた耳障りな轟音でまた頭がくらりとして、私はよろめいて銃を持ったままぺたんと床に座り込んだ。
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