第十八話 寝室

 ベッドに入る前に、部屋にある姿見すがたみの前に立って自分を眺めてみた。今着ているのは、地下牢から出た最初の夜に渡されたナイトドレスだ。ゆったりとしたシルエットの白いワンピースで、短い袖口は絞られて肩がふわりと丸くなっている。凛も同じデザインのものを着ていてとても似合っていたが、私には少し子供っぽいというか、可愛らしすぎてあまり似合っていない気もした。


 生地は透けてしまいそうなくらい軽くて薄かったし、丈も太ももが隠れるくらいの長さで、体を隠すには少し心もとない。装飾の少ないシンプルなデザインだけど、露出が多くてやや扇情的かもしれない。この格好をクロエのような女に見せて、変な気を起こされてはたまらない。いや、クロエはそういうことをするつもりで私を寝室に招いたのかもしれない。


 鏡に映った私の目元は、相変わらず少しきつい印象だった。別に不機嫌ではないときでも、この睨みつけるような目元のせいで知り合いに怖がられたこともあった。もっとぱっちりとして柔らかい女の子らしい目だったら良かったのに。特段自分が美人だとか女子として魅力的だと思ったことはないのだが、クロエは私のどこが気に入ったというのだろうか。


「ええと、お姉ちゃん、すごく似合っていますよ。可愛いです」


 もう夜なのに、姿見の前でくるくると回りながら私が自分の姿を見ているので、気になったのだろう。凛が布団の中から顔を覗かせて、真面目な顔で頷きながらそう言った。凛はクロエと違って私をそういう目で見るような子ではないので、寝間着姿や着替えを見られても気にならないのだが、あまりまじまじと見つめられるのも困る。


「……ありがと。寝ようか」


 私は部屋の照明を消すと、凛のベッドのところへ行って布団に潜りこんだ。近頃は、お互いのベッドに日毎に交互に眠る習慣だった。私は凛のベッドで眠るのは好きだ。同じ石鹸やシャンプーを使っているのに、どこか私とは違う匂いがするからだ。逆に凛が私のベッドに入ってくるのは、私の匂いを嗅がれているみたいで少し恥ずかしかった。


 おやすみなさい、と言い合うと、凛はくるりと寝返って向こうを向いた。顔を見合わせて寝るのは気恥ずかしいらしく、凛は私に背を向けて寝ることが多い。私が凛を背中からきゅうと抱きしめると、凛も私の手のうえに自分の手を乗せた。まだ九時過ぎだったが、凛はすぐにすうすうと寝息をたて始めた。寝付きの良さは相変わらずで、たいていは凛のほうが先に眠ってしまう。私も少し眠かったが、今夜はクロエとの約束がある。目を閉じずにぼうっと奥の壁を見つめていた。


 この城の使用人たちは、みんな綺麗な人たちばかりだ。もしかしたら、クロエはそういう人ばかり城に集めているのかもしれない。それなら私なんかじゃ交渉の材料になるとも思えないが、クロエはどうしてもと私を誘ってきた。クロエは私のことをどう思っているのだろうか。


 今の私には、クロエを脅すような力もなければ、欲しがりそうなものも持っていない。クロエに与えられるものがあるとしたら、この私自身くらいしかない。居間でキスした時には、私のぎこちない行為にも満足そうな顔をしていた。クロエがそれを欲しがるのなら、私はそれさえ材料にして、凛を守るように約束を取り付けるしかないのだ。怖いが、行くしかない。


 ベッドに入って三十分以上は経っただろうか。凛が熟睡していることを確かめると、私は凛を起こさないように静かに腕を抜いて、そっとベッドから抜け出した。扉を開けるときにわずかに軋む音がして少し驚いたが、凛が目を覚ましそうな様子はない。念のため私は凛の様子を伺ってから、扉を閉じた。


 廊下はまだ照明がついていて明るいが、人の気配はない。私は寝間着姿のままで階段をひたひたと足音をたてて降りてゆく。夜になると、この城はとても陰気になってくる。廊下の窓は鎧戸で閉じられ、ゆらゆら揺れる黄色い明かりが廊下を照らし、生き物のようにうごめく影を石の壁に落とす。廊下の照明は電灯なのだが、まるでろうそくのように揺らめくようになっているのだ。普通の照明にすればいいのに、これはどうもクロエの趣味らしい。この城は細かいところまでそうした調度が凝っているせいで、夜はちょっとしたお化け屋敷のような様相を見せる。夜にこの城をひとりで歩きまわるのはあまり好きではない。トイレにいくなら凛を誘って一緒に行くところだが、今夜ばかりはそうはいかない。


 クロエの寝室の前までやってくると、なんとなくクロエの寝室に入るのを誰かに見られたくなくて、周囲を見回して誰もいないのを確認した。それから、昼間に菫さんがやっていたように、こつこつと二度扉を叩く。すぐにがちゃりと音がして、扉が開いた。隙間からクロエが顔を覗かせる。いつもと目元の印象が違っていて、化粧を落としていることに気づいた。


「よく来たわね。入って」


 クロエはそうささやくと、扉を引いて私を招き入れる。私が部屋に入るとクロエは扉を閉じて、扉についた金色のつまみを捻る。かちゃりと小さな音がして、扉に錠がかかった。クロエは私の背中を押すようにして、テーブルの前のソファに座らせた。鍵を掛けたのには不安を覚えたが、まあ内側からはいつでも鍵を開けることができるのだから、閉じ込められたわけじゃない。でも、いよいよクロエとふたりきりになった実感が湧いて、背筋に少し緊張が走る。


「ハーブティーは好き?」


「ええ、わりと」


 クロエの質問に私がそう答えると、クロエは戸棚からお茶の缶やカップを取り出した。お湯の湧いた電気ポットもあるようだ。クロエがポットにお湯を注ぐと、部屋の中にお茶の香りが広がった。


「これは紅茶にオレンジフラワーがブレンドしてあるの。心を落ち着かせる効果があるそうよ。よく眠れるようになるわ」


 クロエやってきて、お盆をテーブルの上に置く。クロエが隣に座って、ポットの中身をカップに注いでくれた。お茶を用意するのは普段は使用人たちの役目だし、クロエが手ずからお茶を入れるのは初めて見た気がするが、わりと手慣れた様子だ。ふたりぶんのお茶の準備ができると、クロエは隣に腰を降ろした。クロエがカップを手にとったので、私も自分の前にあるカップをつまみあげる。カップを鼻に近づけると、紅茶より少し甘いような香りがした。


「ここに来た子には、いつもこれを振る舞うのよ。どうぞ」


 そう言ってクロエはカップに口をつけた。私も一口飲もうとカップを持ち上げたところで——ふと手を止めて考える。そういえば、このお茶に睡眠薬とか入れられていないだろうか。私が眠っているうちに何かするつもりだったりするかもしれない。クロエのことだから、何が入っていても不思議ではない気がする……。私が躊躇ちゅうちょしているのを見て、クロエがニヤリと笑う。


「変な薬とか入っていないから、大丈夫よ。それともカップを交換する?」


「……頂きます」


 クロエはまるで私の考えを見透かしたようだった。私は覚悟を決めて、目を閉じてカップに口をつける。舌の上にほのかに甘い香りが広がってゆく。体がぽかぽかと暖かくなって、私は深くため息をついた。お茶は美味しかった。


「この城にいる子はみんな一度はこの夜のお茶に招待してるんだけど、このお茶を飲むときみんなそれを疑うのよ。主人に向かって、ひどい話よね」


 そう言ってクロエはいつもの様にくすくすと笑う。みんな考えることは同じということか。クロエにとっては、それは自業自得というものだろう。この女がとてつもない悪人であることは確かなのだから。まあこのお茶の味はそれとは別の話だし、私はわりと気に入った。


「まあ、あなたならやりかねませんからね。でもお茶はとっても美味しいです」


「そう、それは良かったわ」


 クロエも目を閉じて満足そうにハーブティーを口にする。改めてクロエの顔を見てみると、化粧を落としてなんだか清楚な印象になっていた。昼間の目元がはっきりとした華やかな美人という感じとはずいぶん違っている。衣装も涼しげな印象の黒い上品なドレスだ。ドレスの隙間から覗く豊かな谷間に思わず目が吸い寄せるが、自分がずいぶん下品な視線を送ったことに気づいて慌てて目を逸らす。私の視線に気付いたのか、クロエはまたニヤリとする。


「ねえ、この衣装はどうかしら。けっこう可愛いと思うんだけど」


「……似合っていると、思います」


 私は目を逸らしたまま、いかにも気のない様子を作ってそう言った。クロエは手を添えてほとんど空になった私のカップを置かせると、私の頬に手を乗せて自分の方を向かせる。


「こっち見てないじゃない。もっとよく見て欲しいんだけど」


 クロエが座りなおして腰を寄せると、誘っているのだろう、私の二の腕に手をかける。お茶の香りに混じって、クロエのいつもの香水の匂いが鼻をくすぐる。お茶のせいか最初の緊張は解けていたが、クロエの色っぽい雰囲気につられて私の胸も高鳴ってしまう。この眼の前の肌色の膨らみを掴んだら、きっととてもなめらかで柔らかいのだろう。私は思わずごくりと唾液を飲み込み、そして自分が唾液を飲み込んだことに気付いて——私は雰囲気に飲まれてしまわないように話題を変えることにした。私はこの女とそういうことをする目的で来たのではない。


「ねえ、クロエ様。私は人を殺すような悪いことはしたくないし、凛にもさせたくないんです。凛は平気なふりをしていますが、私がいないと夜は辛くて泣いてしまうほどです。もうああいう命令は止めてもらえませんか」


 私の言葉を聞いて、話を逸らされたクロエは露骨に不満そうな顔をする。凛の名前を出されたのも気に入らないのだろう。


「凛はもうああいうことに慣れたわ。あなただってすぐにできるようになる。怖いのはわかるけど、心配いらないのよ」


 クロエはいつかのように心配いらないと繰り返す。これではまたクロエに逃げられてしまう。


「……あなたには聞きたいことが山ほどあります。凛を最初にこの城に連れてきたとき、何があったんですか。慈ちゃんって子はどうなったんですか」


「凛はここに初めて来た時に、親友を殺したの。私がそう命じたのよ」


 ぞくっとした。慈ちゃんは死んじゃった、とだけ凛は言っていたから、まさか凛が自分自身で手にかけていたとは思わなかった。凛があれだけ傷ついたのも無理もない。怒りがこみ上げてきたが、拳を握りしめて話を続ける。


「慈ちゃんって子のことで、凛はとても傷ついていました」


「あの子も地下牢をとっても怖がっているわ。あなただって怖いでしょう。……あんまりわがまま言う子は、また地下牢に閉じ込めちゃうわよ」


 軽い冗談のような口調だったが、クロエの脅し文句は、地下牢での絶望的な日々を私の脳裏にフラッシュバックさせていく。体が勝手に震え始めて、呼吸が荒くなっていく。それからクロエが鎖で自由を奪われた私の身体を強引に撫で回したことを思い出して——私は自分のドレスの裾を胸のところまでめくり上げた。あらわになった太ももや下着を見て、クロエがぺろりと唇を舐めた。


「……お願いです。私のことなら、好きにしていいですから」


 視界が勝手に滲んでゆく。覚悟ができたなんて言えない。自分がどうなってしまうのかわからなくて、本当はとても怖くてしかたがない。私が凛を襲ったときも、凛はとても泣きじゃくっていた。私の指が入ってきて、とても恥ずかしくて、痛かったのだろう。私もきっとクロエにそういうことをされるのだろう。でも、これは私のしたことの報いでもある。大丈夫、と自分に言い聞かせる。クロエの手は、とても綺麗だから。


「……健気ね。あなたのその表情かお、とっても素敵よ」


 クロエはそう言って、私の頬を伝った涙をその白く細い指先で拭い取った。

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