第十七話 約束

 洗濯が済んでクロエの衣類を畳むと、それを入れた籠を抱えて菫さんと一緒に洗濯室を出た。クロエの寝室は二階の一番奥にある。入るのは初めてだった。


 クロエの寝室の前に来ると、菫さんが扉を二度叩いた。しばらく待ったが、返事はない。この時間、クロエは書斎にいることが多いから、今日もきっとそちらだろう。ノブを捻って押すと、分厚い木の扉は軋む音もなく開いた。


「勝手に入って大丈夫ですか」


「ええ。入らなきゃお世話なんてできないわ。でも用もないのにいたずらで入ったりしちゃ駄目よ。見つかったら……食べられちゃうわよ」


 菫さんはそう言って笑うと、ずんずんと戸口に入っていく。食べられちゃう、が冗談にならないのがクロエという女だ。用がないなら、頼まれたって入りたくない。


 部屋は日当たりがよく、レースのカーテンから透けて射し込む光で明るかった。私の屋根裏部屋よりはずっと広くて、部屋の奥には天蓋てんがい付きの大きなベッドがある。そんなもの映画でしか見たことがなかった。壁際には小さなカウンターが設置されていて、戸棚には紅茶の缶やポット、ちょっとしたお菓子も並んでいる。奥には入ってきた扉の他にも幾つか扉が並んでいる。きっと専用の浴室か何かだろう。


 扉のひとつを開けて入ると、そこは大きなクローゼットになっていた。クローゼットも私が手足を伸ばして寝転がれるくらいの空間があって、その周囲にところ狭しと衣装かけや箪笥が並んでいる。菫さんはあちこち指さして、どこに何があるのかを説明していく。急にいろいろなことを言われて私が慌てると、すぐには覚えきれないだろうから大丈夫よ、と言って笑った。


「先に戻っているわ。まだまだ洗濯物はまだたくさんあるからね」


 そう言って、菫さんは寝室から出て行った。厚い絨毯のせいで足音はしなかったが、かちゃりと金具がなる音がして、入ってきた扉が閉まったのがわかった。しんと静まり返った部屋に私はひとりきりになった。


 寝室にはプライベートなものが多いだろう。あれだけ後ろ暗いことをしているんだから、クロエは私に見られると困るものとかはないのだろうか。調べれば、この城がどこにあるのかといったことはわかるかもしれないが、もし部屋を漁っているところをクロエに見つかったらと思うと恐ろしい。クロエがいつ戻ってくるともわからないのに、部屋を漁る勇気はなかった。


 ひとまず言われたとおりに籠のなかの衣類を仕舞っていく。箪笥の引き出しのひとつを開けると、色とりどりの下着が並んでいた。どれも高級たかそうなものばかりだ。仕舞う前に、籠のなかの黒っぽい一枚を取り上げて掲げてみる。大人っぽい衣装を持っているのも、それが似合うのも、少し羨ましい。菫さんに頼めば新しい下着も買ってくれるとは思うけど、こんな派手なのは私には似合わない気がする。


「こら」


 急に後ろから誰かに抱きしめられた。私は驚きのあまり声も出せずに固まった。いつか嗅いだ香水の匂いが鼻をかすめる。震える身体をゆっくり捻って振り返ると、にやにやしたクロエの顔がすぐそこにあった。誰かが部屋に入ってくる音も、近づいてくる足音も、まったくしなかった。菫さんが部屋を出るところを見かけて、私がここにいることを聞いて脅かしたのだろう。まったく意地が悪い。


「それ、付けてみる?」


「……いいです」


 私は持っていた下着を引き出しの中に仕舞う。別に穿いてみたくて眺めていたわけじゃない。上着ならともかく、他人の下着など穿く気にはならない。クロエのものでは、サイズもぜんぜん合わないだろう。


「新しい下着が欲しかったら買ってあげるわよ。菫にカタログを見せてもらいなさい。私もあなたにおしゃれでいて欲しいわ」


 クロエが私の肩に手を掛けたままそう言った。どちらかというと、そっちが正解だ。でもクロエにそう言われると、逆にその通りにしてやるものかという気になる。


「別にいいです。それより、離してくれませんか」


 私はクロエの手を払い落とすと、立ち上がった。クロエがひざまずいたまま、私のおしりのあたりを眺める。


「奏は今はどんな下着なの? 見ていい?」


 私の答えも待たず、クロエが私のスカートをつまんで捲ろうとする。風でふくらはぎやふとももがひやっとして、私はその手を軽く引っ叩いて振り向くと、にやにやしているクロエを睨む。馬鹿なんだろうか、この女は。


「女どうしでもそういうのはやめてください」


「あら、私のはじろじろ見ていたくせに。それに、女どうしとかはどうでもいいし、もうキスも済ませた仲じゃない」


 箪笥に入っているのを見るのと、穿いているのをスカートを捲りあげて見るのでは、恥ずかしさがぜんぜん違う。キスのほうは、まあ弁明のしようがないが。


「ねえ、かなで。今夜私のところへ遊びに来ない? 最近お話する機会が少なくて寂しいのよ。一緒のベッドで寝たりして楽しく過ごしましょうよ」


いやです。何されるかわかりませんし」


 いったい何を言い出すのやら。確かにあの日居間でキスをしてからは、クロエの姿をしばらく見かけなかった。何か忙しい用事が入ったとか、咲さんが言っていた気がする。どうも外出していたようだが、そういってもわずか数日の話だ。


「何もしないわよ。ちょっとお話して、隣で寝るだけ」


「嫌ですって。どうしてもというなら、私に命令すればいいじゃないですか」


 結局は、この城では何もかもこの女の思うがままだ。クロエがひとたび指示を下せば、私はあっという間に殺されてしまうだろう。私はこの女の命令には従うしかない。こんなふうにいちいちねだる理由はないはずだ。


「そういうやりかたはしたくないの。本当に何もしないから」


 この女は地下牢では絶対的に振る舞うくせに、それ以外はあまり無理強いはしようとしない。だから、地下牢でなければ私もそれほど怖いとは思わない。まあ、クロエを説き伏せる機会は必要だ。このあいだは結局、キスをしただけで何も譲歩してくれなかった。でもあのときは確かにクロエは私との行為を喜んでいたし、そうやって予め餌を与えてこそ交渉の余地が生まれるというものだ。


 何か耐え難いことをされそうならすぐ寝室を出ればいい。クロエが嘘をついているのは見たことがないし、できない約束はしない種類の人間だ。たぶんだけど、私の身に実際に危害が加わることはないだろう。それに、ちゃんと凛を守れる約束ができるなら、私は少しくらい嫌なことをされても我慢する覚悟はある。凛は私のために人を殺したのだ。私だって凛のために何かしてやらなくてはならない。


「……仕方ないですね。じゃあ、凛を寝かしつけたら来ます。変なことをしようとしたらすぐ帰りますからね」


「ええ。いいハーブティーがあるから、寝る前に一緒に頂きましょう」


 いつか桜さんに食堂でハーブティーを淹れてもらったときには、凛は匂いを嗅いで顔をしかめていた。それで、ひとくちだけ口をつけると、残りは結局私が飲んだのだった。まだ舌が幼いのだろう。でも私は、ハーブティーは嫌いではなかった。

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