第十二話 命令

 クロエは居間のソファに座っていた。戸口から入ってきた私たちを見るなり、ニヤリとする。


「あら。手なんか握って。けるわね」


 クロエがそう言うと、りんは少し焦ったような顔をして、クロエと私の顔を交互に見る。私が手を離すと、ちょっと戸惑ったあとでクロエのそばに行って、膝の上にぴょんと飛び乗った。クロエは嬉しそうにして凛の髪を撫でている。凛はクロエの前だと余計に幼くなるような気がする。


「あの、クロエ様。かなでお姉ちゃんのことを怒らないであげてください。地下の掃除は、私がちゃんとしましたから」


 凛は膝の上でクロエの顔を見上げて、とても深刻そうな顔で言った。それを聞いてクロエはいつものようにくすくすと笑う。


「あら、そんなことを心配してたのね。ぜんぜん怒っていないわよ。凛はお姉ちゃんを守ってあげて、とっても偉いのね」


 凛は目を閉じて気持ちよさそうに撫でられている。クロエに凛を触らせるのが、なんだか面白くない。凛をさっと膝から取り上げたい気分だが、凛はクロエとの関係もとても大切にしている。私のせいで関係にひびが入ったりしたら、それはそれで申し訳ない。それはそうとして、凛はクロエのいったいどこが気に入っているというのだろうか。


「奏、私はべつに何も怒っていないわ。でも、あなたもお姉ちゃんなんだから、しっかりするのよ。凛ばかりにやらせてはいけないわ」


 優しい口調だったし、本当に怒っている様子はなかったが——ぞくりとした。私が地下室でへたり込んだことは知っているのだろう。でも、しっかり、と言われても、自分があのような光景に慣れるような気はしない。皿洗いや洗濯とは違う。慣れたくもない。それに、あれでは犯罪に手を貸しているも同然だ。『掃除』をやらなくてもべつに怒りはしないが、それを当然にこなすことを、クロエは求めている。


「それでね、今日はふたりにやってもらいたいことがあるの。地下へ行きましょう」


 クロエの言葉を聞いて、凛は膝からぴょんと飛び降りた。それから私のところに来て手を引こうとしたが、私は足がすくんで動けなかった。冗談じゃない。あんなものを見せられて、また地下牢に行けとは。どう考えても、やらされるのはろくなことじゃないのはわかりきっている。凛が手を握ったまま心配そうに私を見上げている。


 クロエがつかつかと歩いてきて、私の肩に手を置いた。私は思わずびくりと肩を強ばらせる。


「凛がきれいにしてくれたでしょう。前みたいに血の海になってるなんてことはないから、大丈夫よ。それに、あなたたちを殺したりもしないわ。もう、奏もここの大切な住人なんだから」


 クロエはにこっとわざとらしい笑顔を見せて言った。だが、殺す、という言葉が平気で口から出てきていることが、すでにおかしい。殺したりしない、と笑顔で言われても、余計に怖い。殺したりしないから安心しろなんて、普通の人間は言わない。クロエが私の耳元に頭を寄せる。


「……いやらしいこともしないから、安心して。凛も一緒だしね」


 そう小さく囁いて、またクロエはくすくすと笑った。クロエに触られたことを思い出して、体がかっと熱くなる。本当にこの女はふざけている。それに、殺すなどという言葉は平気で口にするくせに、そういうことは凛に聞こえないように気を使うのか。訳がわからない。


「そういえば、あとでご褒美もあるのよ。咲がケーキを持ってきてくれたから、終わったらみんなで食べましょう」


 ケーキなんて要らないから、地下に行きたくない。私はそう言って立ち去りたかった。しかし凛はというと、何の不安も抱いていないようで、ケーキと聞いて大喜びして私と繋いだ手をぶんぶん振っている。クロエはそんな私の様子も気にせず、戸棚から何か取り出して手に持つと、早足で部屋を出て行く。また凛に引きずられるようにして、私も地下に向かった。




 重々しい地下の扉を開けた時、ひとまずあの血生臭い匂いがしないことにはほっとした。だが、独房の奥を覗いた瞬間、私は自分の血の気が引いてゆくのを感じた。


 私と同じくらいの年齢だろうか。髪を明るく染めた少女がひとり、鎖で繋がれていた。ホットパンツとタンクトップというカジュアルな衣装が地下牢の雰囲気からやけに浮いている。鉄格子の隙間から、少女は怯えた目で私たちを見ていた。私がここに来たときに拘束されていたあの独房だ。それが今度は、私が独房の外から少女を眺めている。


 クロエは私の手をとって、茶色い革の鞘に収まったナイフを有無を言わさず握らせる。クロエがナイフから手を離した瞬間、その重みで驚くほど私の腕が沈んだ。セラミックの包丁とは比べ物にならないくらいに、ずしりとした重量感がある。


「奏。凛。あなたたちのどちらでも構わないから、あの子を殺しなさい。お願いね」


 まるでじゃがいもの皮むきでも頼むかのように、クロエはいつもと同じ口調で私たちに命じた。

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