第十三話 生贄

 たった今自分が耳にした言葉をうまく呑み込めず、殺す、とクロエの命令を反芻する。クロエはそれだけ私たちに告げると、すぐに地下牢の出口に向かって歩き出した。


「あの……」


 私が思わず声をかけると、クロエは足を止め、振り返った。


 クロエはまったくの無表情だった。いつもだったら、何でも聞いてご覧なさいとでもいうように、余裕たっぷりの穏やかな笑みを浮かべていただろう。しかし今のクロエは、私が何も言わなかったかのように変わらない表情をしている。それを見て、クロエを引き留めようとして思わず声をかけたことを後悔した。


 いつものクロエは表情豊かだ。使用人メイドの冗談に笑ったりもするし、凛を叱ったりするときには大げさに顔をしかめて見せる。必要なときに必要な表情をたっぷりと与えるのだ。しかし、私の声に応じて足は止めて振り返ったクロエは、何も言わず、何の表情も浮かべていない。それは、私が何を言おうが、クロエの意思に影響を与えることはない、ということの表明にほかならない。クロエのそれはただの無表情なのに、私の背筋から力が抜けていって、気が付くと視界にあるのは自分の爪先と石畳だけで、それからは震える肺で自分がどうにか呼吸するだけの空気を吸い込むことが精一杯だった。


 クロエは足早に地下を出ていった。分厚い扉が閉じる重々しい音が、どん、と地下牢に響いた。




 地下室には、私と凛と鎖で繋がれた少女の三人だけが残された。私はこれからどうしたらいのかわからず、呆然と立ち尽くしていた。


「あの……冗談でしょ? なにこれ。ドッキリ? あんたたち誰?」


 少女はぎこちない笑顔を浮かべて言った。私たちの中で一番威圧的な雰囲気をまとっていたクロエが姿を消したことで、少しは落ち着きを取り戻したようだった。


「ドッキリではありません」


 少女の問いに、凛が静かに答える。あんな命令を受けた後だったのに、凛はとても落ち着いていた。私と手を繋いだまま、少女をじっと見つめて観察しているようだ。


「じゃあ何? 私を殺すの? 馬鹿でしょ。それ殺人犯だよ」 


 そう言って少女はけらけらと笑う。私が鎖で拘束されていたときは恐ろしくて軽口を叩く余裕なんてなかったのに、この少女はずいぶん余裕がある様子だ。


「はい。ごめんなさい」


 きっぱりとした凛の言葉を聞いて、少女の笑みがすっと消えた。強がりの笑みが怒りの表情へと変わっていく。少女は凛の言葉が冗談でないことを理解しつつあるようだった。


「奏お姉ちゃん。早く終わらせて、ケーキを頂きましょう」


 凛はそう言って私の袖を引っ張る。終わらせましょう、と言ったって、終わらせるということはこの少女を殺すということだ。そんなことを出来るはずがない。私はナイフを握りしめたまま凛の顔を見下ろす。


「……殺すなんてできないよ」


「じゃあ、私がやります」


 私が持っているナイフに、凛が手をのばす。私はびくりとしてナイフを凛の手から遠ざけた。


「駄目! ……人を殺すのは、いけないことだよ」


「でも、クロエ様は、殺せと」


 凛は困ったように首を傾げて言った。クロエの命令に、凛は戸惑いはないのだろうか。ひとまず少女を繋ぐ鎖を外そうと、凛と手を離してナイフも足元に置く。


「あの、鎖を外しますから」


 そう言って独房に入り、少女に近寄って手枷てかせを調べてみた。少女を繋いでいる手枷は、私のときと同じように真鍮の南京錠で施錠されている。鍵はクロエか咲さんが持っていったんだろう。でももし鎖を外せたとして、そのあとどうしたらいいんだろうか。少女を逃すとして、どこへ逃せばいいんだろうか。逃したあと、クロエの命令に背いた私たちはどうなるんだろうか。


「お姉ちゃん、鎖は外れないよ。それに、外しちゃ駄目です。クロエ様の命令に背いたらお姉ちゃんが危ない。だから駄目です」


 凛の言うとおりだった。見る限り、手首ごと切断でもしない限り鎖を外す方法はない。じゃあ、少女を放置してこのまま地下牢を出たらどうなるのだろうか。もし私や凛がやらなくても、おそらく結局別の使用人がこの子を殺すことになるだろう。それでは助けることにはならない気がする。それでも、自分の手で殺すよりはマシといえるかもしれない。


 私は鎖を外すことを諦めて、また独房を出て凛のそばに戻った。私が少女を逃がそうとしたことが、凛には逆に不安だったらしい。またぎゅっと私の手を握って、じっと私の言葉を待っている。


「……このまま部屋に戻ろう。凛が私に食事を持ってこようとしたとき、おしりを叩かれただけで済んだんだよね。だから、クロエ様の命令を聞かなくても、叱られるくらいで済まないかな」


「あのとき命令されたのは、私じゃなくて奏お姉ちゃん。私は、咲さんに言われて身の回りの世話をしただけなので、少し叱られただけで大丈夫だったんです。でも今回クロエ様に直接命令をされたのは、わたしたち。だから命令に従わないと、わたしたちが、たぶんに遭います」


 ひどい目、って何だろうか。殴られるくらいで済むのなら、少女を殺したりするよりおとなしく殴られたほうがましだ。でもあのとき、クロエは私が命令に従わなければそのまま餓死させるつもりだった。だぶんクロエは命令に従わない人間は平気で殺す。自分の命令を遂行した人間には、クロエはとても優しい。その行いを褒め、罪を赦してくれる。しかし、あの優しさは、命令を拒絶した人間に対する罰の恐ろしさも物語っているように見える。


 このあいだ見た、血塗れの地下牢が目に浮かんだ。あの時も、地下で殺された誰かは、クロエの命令を守らなかったから、ああなったのかもしれない。あのクロエが、私が頭を下げたくらいで命令を撤回するわけがない。


 何か手はないか考えこむ私の顔を、凛はじっと見つめていた。私や凛の命と、この見ず知らずの女の子の命とを、秤にかけたらどうだろうか。決まっている。私にとっては凛のほうが大切だ。凛を危険に晒すような選択はない。どうやってもありえない。


 そもそも私は、本当にこの子の命を助けたいのか。誰かを殺すことに恐怖しているだけなのではないだろうか。合理的に考えろ。結果だけを比べろ。このまま地下を出たら、この少女は結局は別の使用人に殺されるだろうし、私も凛も『ひどい目』にあう。殺される可能性すらある。だから。


 ここで、少女を殺すしかない。私が。


 凛には任せられない。この子に手を汚させることなんてできない。私が姉なのだ。クロエもそう言っていた。私のせいじゃない。クロエの命令で、仕方なくやるのだ。見知らぬ少女の命なんてどうでもいい。私にとって大切なのは、凛と私の命だ。凛を守るためだ。すべてクロエが悪い。悪いのはクロエだ。


 私の命だけを守りたいんだったら、もしかしたら決断できなかったかもしれない。でも凛を守るためにやるんだ、そう考えたら決心がついた。私は凛とつないだ左手の感覚をしっかり確かめる。少女の体にナイフを突き刺す感触は、それはおぞましいものだろう。だから終わったあと、もう一度手を握って、私の手に残った嫌な感触は凛に消してもらおう。そうすれば、大丈夫。手を離したら、始めよう。


「凛は、ここにいて」


 私はそう言ってから一度大きく呼吸して、それから、手を、離した。手の震えは伝わっていたのだろう、凛は心配そうに私を見上げている。私は独房の入り口をくぐり、少女の前に立つ。かつては私も、この独房に鎖で繋がれた無力な人間だった。この独房の扉をくぐるすべての人間が恐怖だった。でも今は違う。この少女には、私がどんなふうに見えているんだろうか。


「は? 何なのあんた。近寄らないでよ」


 少女は私をにらんで気丈にそう言ったが、歯ががちがちと鳴っているのがここまで聞こえている。私が近づこうとすると、少女は誰も近づけさせまいと足を振り回し、私を蹴り飛ばそうとする。でもそんな抵抗は長くは続かず、やがて疲れきって足を下ろした。私は少女の横にひざまずいて、安っぽい人工皮革の鞘からナイフを抜く。鞘にナイフの刃が走って、ひん、と冷たい音がした気がした。ナイフの柄をぐっと握り締めると、手の震えが止まった。


「……やめて」


 少女の言葉を無視し、左の脇腹を狙う。少女の衣装は薄いタンクトップだ。鋭いナイフなら服の上からでも難なく刺さるだろう。手が滑らないように、両手の親指と人差し指に力を込めて、大きく深呼吸して、自分の脇腹までナイフを引いてから、目をつむって、勢いをつけて思い切りナイフを突き出した。

 

 がちっと何かに突き当たるような感覚があって、ほんのいちセンチメートルも刺さらずに、ナイフの刃が止まった。


 少女は痛みで血も凍るような悲鳴をあげた。空気の震えが手にまでびりびりと伝わって、私は思わずナイフを引っ込める。ナイフが抜けるときに少しねじれ、ぐるりと肉がこそげ落ちる感触が手に伝わった。じんわりと少女の白いタンクトップに真っ赤な染みが広がっていく。だが、とても死に至るような傷には見えない。肋骨に当たって刃が止まってしまったようだった。


「人殺し……!」


 少女がつぶやく。少女と目が合ってしまい、私のほうが呑まれたように動けなくなる。もう、少女の目はおびえてなどいなかった。これは、私を憎む目だ。命乞いを諦め、自分を殺そうとする人間に、最大限に罪悪感を植え付けてから死のうとする目だ。鎖で繋がれて動けないはずのこの少女が、急に恐ろしい怪物のように見えてきて、私は後ずさりして鉄格子に背を打ち付けた。たった一度ナイフを振っただけなのに、荒れた呼吸が鎮まらない。少女の怒りと絶望に満ちた視線が私に突き刺さる。先端のわずか二センチほどに赤黒い肉片がこびり付いたナイフは、私の右手から今にも滑り落ちそうだった。誰なのかも分からない目の前の少女の命の重さに押し潰されて、一度は収まったはずの私の震えが増してゆく。

 

 出来ない。魚をさばいたことだってないのに、とても私に人なんて殺せない。私がここで少女を殺すのが最善、というしごく合理的な結論が、がたがたと音を立てて崩れていく。目の前の少女が恐ろしいのか、自分がしようとしたことが恐ろしいのか、意思と関係なく私の目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちてゆく。


「お姉ちゃんは何もしなくていいよ。私に任せて」


 気が付くと、凛が私のかたわらに来ていた。私がナイフを握る手に、凛が自分の手を重ねた。そして、私からナイフを優しくもぎ取る。


「私、教えてもらったんです。胸を刺すと、肋骨に当たってしまいやすいし、なかなか死ねなくて、とても苦しいって。だから首の動脈を切るといいそうです。そうすれば血がたくさん抜けて、すぐに死ぬからと」


 びっくりするほど理性的に、落ち着いた声で、凛は説明する。凛は立ち上がって、少女のほうに向き直る。凛の顔を見た少女が、ひっ、と息を呑んだのが聞こえた。ふたまわりも年下の凛を目の前に、ただ怯えている。


「殺してごめんなさい。あまり痛くないようにしますから」


 凛は少女の腕を掴んで背後に回り込む。髪をぐいと掴んで後ろに引っ張り、顎を上げさせると、凛は右腕を少女の首に廻してから左手で引っ張って締め上げる。少女は腕を振り解こうとじたばたと暴れたが、数秒もするとがくりと頭を垂れた。少女が失禁して、尻の下に黒い染みが広がっていく。凛は少女が完全に気を失ったのを確認すると、ナイフを拾い上げて少女の首元に当てた。凛の一連の動きは、驚くほどためらいがなく、そして滑らかだった。


「お願い……凛、やめて」


 私が何とか絞り出せた言葉は、それだけだった。凛にこれをやめさせて、そのあとどうするのだろう。誰かがやらなければ、この状況に終わりはない。でも、凛にそんな悪いことをしてほしくない。


 凛はとても優しい子だ。その凛が今まさに私の目の前で、この上なく残酷な行為に手を染めようとしている。凛が誰かを殺したら、私はもう凛を凛だと思えなくなってしまうかもしれない。ナイフに力を込めるため、凛が息を止めた。

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