第十四話 ご褒美
凛が親指に力を込めると、体重のかかったナイフの刃先がずるりと首の肉に沈んでいき、少女の喉からぐえっという蛙の鳴き声のような音が漏れた。そのままナイフが反対側に抜けると、首の側面から溢れるように血が吹き出して、凛の腕にばしゃばしゃと降りかかっていく。凛はナイフを首の反対側にも突き立てて、同じようにさっと切り裂いた。
少女の髪から凛が手を離すと、筋肉と腱の支えを失った首が不自然にねじれて、がくりと垂れた。斧を入れた樹の幹のようにぱっくり広がった首の断面から、まだ熱い血が泡立ちながら滝のように溢れて流れ出ているのが見える。少女の体の下に、あっというまに血溜まりが広がってゆく。少女の白いタンクトップは、もう白い部分が見つからないほどに赤く染まりきっていた。
凛は少女をじっと見ながら、もういちど、ごめんなさい、と謝った。私は凛に這いよって、手からナイフをもぎ取って遠くに投げた。ナイフは独房の奥の壁にカチンと当たって、床に転がった。泣いてすがりつく私をみて、凛はとても困ったような顔をしていた。私は別に、この名前も知らない少女の死が悲しくて泣いているわけではない。ただ、凛の右手が真っ赤に染まっていて、それなのにそのことを恐れたり動揺したりしない凛を見ていると、どうしても胸が締め付けられるように苦しかった。
どうせこの少女を殺すことになるのなら、私が殺すべきだった。凛にやらせるべきではなかった。でも私にはとてもできなかった。困った顔をした凛を私は座り込んだまま抱きしめて、どうしようもない感情が通りすぎるのをひたすら待ち続けた。
しばらくすると、ぎいと扉が軋む耳障りな音がして、誰かが地下牢に入ってくるのがわかった。ハイヒールの踵が鳴るかつかつという高い音で、クロエだとすぐわかった。クロエは熱い血と尿の池に沈む少女の死体を
「よくやったわ、凛。お姉ちゃんが困っていたところをよく助けたわ」
そうクロエは言ったが、凛は私とクロエにしがみつかれて、ますます困ったような表情をする。クロエはそれから私の頭に手を置いて、私の顔を覗きこむ。
「奏、駄目じゃない。お姉ちゃんなんだから、もっとしっかりしないと」
そう言って、クロエは軽く握った拳で、私の頭をほんのちょっとの力でコツンと叩いた。そして、私と凛の手を引いて立ち上がらせる。
「でもいいのよ。これはふたりに頼んだことなんだから、どちらかがちゃんとやり遂げたのなら、何も問題はないわ。シャワーを浴びたら、ご褒美のケーキを食べて休憩しましょう」
クロエはそう言うと、さっさとシャワー室に向かって歩いて行く。ケーキは、食べたくなかった。
シャワーを浴びたあと、ケーキは要らないからと言って、私だけ先に部屋に戻ることにした。それを見て凛は少し戸惑っていたが、食べておいでと私がいうと、ちょっと後ろめたそうにしながらクロエのあとについて食堂に行った。
凛は悪くない。クロエの命令に従っただけだ。私は何もしていないからご褒美をもらう資格もないし、褒美なんて受け取ったらそれこそ悪事への加担に言い逃れが利かない。これでいい。
死体を見るのは二度目だったからだろうか、それともそうなることを先にわかっていたからだろうか。部屋に戻っても、あの血の海や少女の死体が脳裏にちらつくことはなかった。それどころか、自分の手で殺さなくて済んだことに、どこか安堵さえ覚えていた。私が直接手を汚したわけじゃないし、このことで褒美も受け取っていない。そうやって、どうにか地下の惨事と自分とを切り離して考えようとしていた。
しばらくすると、凛がラップをかけたケーキの皿を持って部屋に戻ってきた。口の端に白いクリームが少しくっついていたから、自分のぶんのケーキはもう食べてきたようだった。
「これ、奏お姉ちゃんのぶんです」
凛はそういってケーキの皿を私の目の前に差し出した。あの少女の命の代償は、ホールケーキ一切れか。そう思ったら、なんだかさっきまでの動揺が冗談みたいに思えてきた。でも、クロエにいいように使われているようで、ケーキは食べる気はしなかった。
「私、あんまり食欲がないんだ。凛が食べてもいいよ」
私はそう言ったが、凛は納得していないようだ。私の隣に座ると、ラップを外してフォークでケーキを少しだけすくい、私の目の前に差し出す。
「あの、元気出してください。ケーキを食べればきっと元気が出ます」
私は十分落ち着いているという態度のつもりだったのだが、凛には元気が無いというように見えたのかもしれない。凛がやけに真剣な顔なので、私はやむなく差し出されたフォークをくわえてケーキを食べた。それから、凛にフォークを差し出されるまま、ケーキを二人で分けあって交互に食べた。とても甘かったことは確かだが、美味しかったのか、まずかったのか、よくわからない。フォークを差し出されるたびに凛と目があって、なんだか餌付けされている雛鳥にでもなった気分だった。
————————
私たちが床につくのはいつも九時過ぎだろうか。おやすみ、と凛に声を掛けて、凛がベッドに潜り込むのを見届けると、私もぱちんと電灯のスイッチを切ってからベッドに入った。
あれだけ恐ろしいことがあったのに、頭のなかは穏やかだった。以前に地下牢で血の海を見たときは、あれほど動揺していたのに。私もこの城の雰囲気に馴染んできたということなのかもしれない。それは、いいことなのか、悪いことなのかは、よくわからなかった。
昼間の緊張で体は疲れていたのに、何かが物足りないような気がして、ちっとも眠れそうになかった。そのうちに暗さに目が慣れてきて、カーテンの隙間から差し込んだわずかな月明かりで部屋が青白く浮かび上がる。凛の方を見ると、凛は壁のほうに向かって横になっていた。
「凛、起きてる?」
何となく私が囁いたのはそれだけだったが、凛はのそっと起き上がると、枕を抱えてとことこと私のところに歩いてきて、勝手に私のベッドに潜り込んだ。私は腕を広げて胸の中に凛を抱きとめた。凛の髪からふわっとシャンプーの匂いがして、凛の体温を感じたら、なぜ自分が眠れなかったのかがわかった気がした。
「ねえ、凛。訊きたいことあるんだけど、いい?」
訊くのは、怖かった。知ってどうするということもないし、また嫌なことを思い出させてしまうかもしれない。でも凛のことをよく知らないと、これからのことも何も決められないと思った。あの少女を殺したあとも、凛のことはちっとも怖くなかった。だから何を聞いても受け入れられる、そう思えた。凛はちょっとだけためらってから、
「前にも誰か、殺したことがあるの?」
凛はまた、こくんと頷く。
「ええと、あの人で三人目。だからもう怖くなかったんです。それに、奏お姉ちゃんのためだと思ったら、無我夢中で」
その話は、すんなり受け入れられた。何人殺していようが、凛は凛だ。そう思える自分が、少し嬉しかった。私はずっとこの子の姉でいよう。姉でいたい。
「ナイフの使い方も、格闘術も、咲さんに教えてもらってます。だから、私はお姉ちゃんよりもずっと強いです。ああいうことは、私に任せてください」
そう言って凛は顔を上げて、笑顔を作って見せてくれた。ずいぶんと頼りがいのある妹だ。それから、凛が少し心配そうな表情をする。
「
こうしてみると、凛は本当に、可愛らしい子だった。大きな瞳が、少し赤い頬が、とてもきれいで、そんな子が私の腕の中にいることが、とてもうれしくて、どういうわけかまた私の目に少しだけ涙が溜まって、視界が滲んだ。
「嫌いになんてなってないよ。私は凛のこと、好きだよ」
私がそう言うと、凛は嬉しそうに顔を私の胸にうずめた。少しくすぐったい。
「泣かないでください。私がお姉ちゃんを守りますから」
凛は、なぜ私が泣いているのか、わかっているのだろうか。わたしも、よくわからないけれど。ありがとう、といって私は凛を抱きしめて目を閉じた。もう、凛がそばにいないと、私はきっと眠ることもできない。
翌朝、凛は咲さんと一緒にどこかに出掛けて行った。そういえば凛は『練習』と言っていたが、咲さんと何か格闘術の訓練でもしているということなのかもしれない。咲さんと凛が森の奥へと歩いて行くのを窓から見届けると、私も身支度を整えてひとりで居間に向かう。この時間、クロエはだいたいそこにいる。
クロエに会うのは恐ろしかった。でも、命令されてからでは遅い。誰かを殺したりなんかはできないけど、それでも私なりのやりかたで、凛を守ってあげたい。
クロエは居間のソファに座って紅茶を飲んでいた。左手には何かの文庫本が乗っている。私がテーブルの前まで来ると、クロエは私を見上げて、おはようと言った。私は大きく息を吸って、ゆっくり吐く。
「凛に、もう誰かを殺させたりしないでください」
私の言葉を聞いて、クロエは紅茶のカップを皿に置く。そして、にこっと笑って、ソファの隣の空いているところを指さした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます