第十五話 交渉
カップとポットが届いて、お茶を運んできた菫さんが居間を出て行く。ふたりきりになると、クロエは座りなおして肩が触れそうなくらいに体を寄せてきた。控えめな香水の匂いがふわっと鼻をくすぐる。いちいち距離が近くてスキンシップが多いのは、欧米風の習慣のせいだけではなさそうだ。
怖いといえば怖いが、クロエに敵意があるようにはみえない。むしろぎらぎらした興味や好奇心のようなものを感じる。いつかの惨劇や、凛や私にやらせたことさえなければ、大柄で濃い風貌な割にずいぶん親しみやすい女だと思っていたかもしれない。むしろそういう雰囲気で肝心のことをはぐらかされないようにしなくてはならないだろう。
「ずいぶん怖い顔もできるようになったのね。頼りがいのあるお姉ちゃんらしくなったじゃない」
私の顔をのぞき込むと、そう言ってクロエは機嫌が良さそうにくすくすと笑う。もう少し険悪な雰囲気になるかと思っていたが、険しい顔をしているのは私だけで、クロエは相変わらずにこにこしている。さっき私が言ったこと、ちゃんと聞いていたのだろうか。
「もう一度言います。凛に人を殺すように命令しないでください」
私はクロエに目を合わせずに言う。正直なところ、最悪クロエを怒らせて何か罰を受けることもあるかもしれないと思っていた。でも、こういうことを言って反発しても、別にクロエは腹を立てるということはないようだった。
「そんなに凛にやらせたくないなら、このあいだ私がお願いしたとき、何故あなたが殺さなかったのかしら。果たして、やめろなんて偉そうに言える立場なのかしらね」
私は返す言葉に詰まる。クロエも意地の悪いことをいう。できるものならやっているが、やはりどんな理由があろうとも私には人を殺すなんてことはできなかった。それは生理的な嫌悪感、あるいは恐怖とでもいうようなもので、理屈で抗えるようなものではない。しかし、それだけの行為を実際に凛にやらせてしまった以上、私の言葉に説得力が欠けているのも確かだった。クロエは私の迷いを見透かしたように言葉を続ける。
「もしあなたが殺していれば、たっぷり褒めてあげようと思っていたのにね。でもいいのよ。あなたもきっと殺せるようになるわ。私にはわかるのよ。もしそうじゃないのなら、あなたは地下牢で飢えて死んでいたわ。それに、何をしようがそれはわたしの言うとおりにしただけなんだから、あなたも凛も、悪くないのよ」
だから、それを変えさせるために私はクロエと話をしにきたのだ。殺しをするための励ましも慰めも要らない。クロエに責任転嫁したところで、実際に手を汚すことの恐怖や罪悪感がなくなるわけじゃない。
「この城にいる人間で誰も殺したことがないのは、あなただけ。時が来たら、あなたも必ず誰かを殺すわ。でなければ、あなたは死ぬ。それだけよ」
まさか、この城の人間は残らず人殺しの経験があるとは。この城の使用人たちの奇妙な空気、連帯感のようなものは、そういう罪を共有することで作り上げられているのかもしれない。
「……私は死にたくありませんし、どんなに追い詰められようと誰かを殺すことなんてできません。あなたの思うようにはなりません」
私はクロエを睨みつけて言う。しかし、私が睨めば睨むほど、クロエは上機嫌になる様子すらある。クロエは
「人間はふたつに分かれるわ。ひとつは、どんなに理屈をつけようとどうしても殺すのに躊躇して失敗する人間。もうひとつは、結果のために倫理をないがしろにしてあっさり誰かを殺せる人間。凛がそうであるようにね」
「凛が、人を殺せる人間?」
「そうよ。凛はとても優しくていい子だし、罪悪感や倫理観がないってことではない。でもあの子は、普通の人間が本能的に
「素質とか、そういう問題ではありません。凛に悪いことをさせないでください」
「駄目よ。あれは必要なことだから。あなただって殺せるわ。凛のように上手ではないだろうけどね。何度も失敗するかもしれないけど、最後にはやり遂げる。私はそれを知っている」
きっとクロエは私にも殺しをさせるつもりなんだろう。昨日はわざと凛という逃げ道を用意して、私がどうするか観察していたのかもしれない。悪趣味極まりない。そしていつかは、私ひとりに命令を下すつもりなのかもしれない。私はいったい誰を殺すことになるのだろう。
「……じゃあ、質問に答えてください。殺されたあの子は誰なんですか」
「誰でもいいじゃない。死んだ人間のことを考えても仕方ないわ」
「私はなぜここに連れて来られたんですか」
「あなたのことが、気に入ったからよ。とってもね」
まるで答えになっていない。気に入った、と言いながら、クロエの目が私の足先から撫で回すように視線を這わせる。服を着ているのに、裸を見られているような不安を覚える。クロエはあれから私を無理に襲うようなことはしていないが、関心をなくしているというわけでもないようだ。
「もし私がこの城を出て家に帰りたいと言ったら、どうしますか」
そう言った途端、クロエの右腕が素早く伸びてきて、細く長い指が私の首に優しく巻き付く。私は思わずびくりと肩をすくめた。クロエの左手の指が、私の頬と顎をゆっくりと撫でる。頬にクロエの視線が刺さるのを感じる。
「殺すわ」
クロエが私の耳元で静かに言った。その答えは予想していたが、実際に耳にすると背筋が凍りつくようだった。もし今、クロエが指先に力を込めれば、親指は容易に私の首に食い込んで喉を押し潰すだろう。冷や汗が脇の下を流れていく。
「あなたがこの城で最初に目を覚ました時のことは覚えているわね。あなたをあの地下牢に閉じ込めて、また鎖で繋ぐわ。そうして、服を剥いで、あらゆる手で辱めるわ。あなたの体を鞭で打ち、ナイフで切り裂いて、
石に刻まれた碑文でも読み上げるように、クロエの言葉は落ち着いていた。私の歯が勝手にがちがちと音を鳴らす。クロエは怒りに任せてそのような残虐な脅し文句を口にしているわけではない。すでに決まった運命を告げているだけだ。私が何を言おうと、この運命が変わることはないのだろう。石碑にいくら言葉をかけてもそこに刻まれた文字が変わることがないように。不意にクロエの指が私の首から離れた。
「怖がらなくてもいいわ。ずっとここにいればいいんだもの。
急に甘ったるい声色になって、そういってクロエは私の腰に手を回して抱き寄せる。散々脅したあとは甘やかして丸め込むつもりか。クロエは、私の何が欲しいのだろう。唇を奪って何だというのだろう。ただ、クロエは冗談で言っているわけではないことはわかった。
頬を寄せて音を立てる挨拶のキスはクロエは勝手にやるから、ここでクロエの言うキスはそういうキスのことではないだろう。私はクロエに喰われてしまってもいい。ただ、凛のことだけが頭をよぎる。凛のことだけでも、どうしても譲歩して欲しかった。
「……キスしたら、凛に悪いことをさせるのをやめてもらえますか」
「やめないわ。どんな取引にも交渉にも応じる余地なんかない。あなたができることは、せいぜい私に媚びることだけよ」
私にできるのは、私自身を無償で捧げて、ただクロエの機嫌を取ることだけ。すべてを捧げても、代わりに何かを得られる保証なんて何もない。クロエの気まぐれに任せるしかない。それでも、私にはそれしか手段は与えられなかった。
私は手を伸ばしてクロエの頬を両手で包み、顔を近づけて自分から唇を重ねた。たっぷりと間をとってから、そっと離す。クロエの顔がとても近くにあって、後から少し気恥ずかしさが襲ってきて、手を添えたまま私は
「
クロエはそう言って私の髪を撫でる。最初に無理やり唇を奪われた時のようには、気持ち悪いとは感じなかった。クロエの顔は相変わらず美しかったし、声はくすぐるように優しく、すべてを委ねてもいいと思えるほどの温かさがあった。キスはあまりうまく出来た気がしなくて、褒められても余計に頬が熱くなる。
あとは、どうしたらクロエはもっと悦ぶのだろうか。私はもう一度大きく息を吸って、再び唇を押し付けると、不器用に舌を滑り込ませる。クロエが少しだけ驚いたように息を呑んだが、すぐにクロエのほうからも舌を絡ませてきて、今まで感じたことのない不思議な感覚は恥ずかしさを通り越して、それが自分を解放する快楽に変わっていく。自分のなかの恐怖も不安も溶けていき、クロエに吸い込まれていく。頭がおかしくなってしまいそうになって、いったん唇を離して呼吸を整える。
「私の言うこと、聞き入れる気になりましたか」
「ならないわ。まだまだ、ぜんぜん」
まったく、欲張りな人だ。私は立ち上がると、クロエの膝の上にまたがって、覆いかぶさるようにクロエの首に両腕を廻して再び唇を奪う。地下牢でクロエに触られた時はあんなに気持ち悪かったのに、今は私の腰に添えられた腕がただくすぐったい。クロエの手をとって、私の胸に乗せる。でもクロエはするっと手を抜いて、また私の腰に手を回すだけで、それ以上触ろうとはしなかった。
「前みたいにしないんですか」
私がそう誘うように訊くと、クロエは嬉しそうにくすりと笑う。
「だって、私のほうがあなたに今にも飲み込まれてしまいそうなんだもの。あなたにはきっと、人をたらし込む才能があるわ」
そう言ったクロエの息はわずかに荒く、声は少しだけ上ずっていた。私があれだけ睨んでもまったく動揺しなかったくせに、キスをしてみせたらこれだ。この女はいったい私を何だと思っているのだろうか。
まあいい。好きなだけ私をもっと
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