第十一話 黒百合
結局、私はそこから立ち上がることもできず、這うようにして血みどろの地下室から逃げ出した。
しばらくすると、
「あの……ごめんなさい。私、いろいろと言い忘れてて」
私の傍らに来た凛は、組んだ自分の指を見つめながら申し訳なさそうに言った。もし先に言われていたとしても、あれは心の準備ができていれば大丈夫などというものでもない気がする。
「私のほうこそ、凛だけにやらせちゃってごめんなさい」
私が謝るのを聞いた凛は、とんでもない、というように首と両手をぶんぶんと大げさに横に振ってみせた。
「凛は……あれ、大丈夫なの?」
「私は、なんていうか……慣れちゃって」
困ったような、
昨日の晩、地下で誰かが殺されたことは間違いない。でもここの使用人たちは、何事もなかったかのように平然と過ごしている。城の中での殺人をクロエが知らないはずがないから、まず間違いなくクロエの命令で行われたものだろう。クロエ自身が手を下した可能性すらある。
私だって、ここに来た時にクロエの命令に従わなければ、おそらくそのまま殺されていた。今になって思えば、同じようなことが繰り返されていると考えなかったほうがどうかしていた。この館では、それが日常なのだろう。
「あの……少しここにいてくれないかな」
私がそう言うと、凛は隣にちょこんと座る。私の手に凛は自分の手を重ねて、私の顔を心配そうにのぞき込んだ。私はよほど青い顔をしているのだろう、それを見た凛も同じくらい深刻な顔をしてみせる。きっと私の手が震えているのにも気付いているはずだ。私も凛も言う言葉が見つからなくて、顔を見合わせたままじっとしていた。
あの晩、少なくとも凛はずっと私と部屋にいたから、地下室であったこととは関わりがないだろう。本当は凛に城の惨劇に関わっているかどうかを訊きたかったが、このあいだ『
夕食で私が食堂に姿を見せなかったので、凛が食事を部屋に持ってきてくれたが、紅茶以外何も喉を通らなかった。凛は私を心配そうに見つめていたが、特に何も言わずに残った食事をまた厨房に持っていった。
今すぐここを出るべきか、何度も考えた。でも、もし逃げようとして捕まったとしたらどうなるかを考えたら、あまりに怖かった。だいたい、逃げる場所なんかひとつも思いつかない。森の奥の扉を通る方法はわからないし、崖から海に飛び込んで泳いでどこかに渡るなんてできるはずがない。森の中に隠れたって、いつまでもそこにいるわけにもいかない。
夜になって眠ろうと目を閉じると余計に怖くなってきて、この恐怖を誰かに感付かれることすら恐ろしくて、私はベッドの中で声を押し殺して泣いていた。布団に丸まっていると、凛の声が聞こえた。
「
凛は自分が寂しいからと言っていたが、本当は私の憔悴しきった様子に気を使ってくれたんだろう。ベッドは大きかったし、凛が小柄だったからか、ふたりが並んで寝てもそれほど窮屈というわけでもなかった。誰かと同じベッドで寝るなんて、何年ぶりだろうか。微かに触れ合った肩が、少し気恥ずかしい。
「私たちは、姉妹なんですよね。私、きょうだいがいなくて。ずっとお姉ちゃんが欲しかったんです。奏お姉ちゃんって呼んでも、いいですか」
私が頷くと、凛は嬉しそうにしてベッドの中で私の胸にしがみついた。その夜、凛と私は抱きあうようにして眠った。私はなかなか眠れそうになかったが、凛はずいぶん寝付きが良くて、幾ばくも経たないうちにすうすうと落ち着いた寝息をたてるようになった。そういえば、凛にはあんなにひどいことをしたのに、いつの間にか一緒のベッドで眠るくらいまで心を許してくれるようになった。もう謝るタイミングなんて逃してしまった。
凛が私の腕の中でもぞりと動き、凛の手が服の上から私の胸を撫でた。それはくすぐったいというより気持ちが良くて、私は思わず大きく息をついた。なんだ。触られても気持ち悪くなんてなかった。凛にだけなら、何をされたっていい。私は凛の手に自分の手を重ねて、今度は自分から身体を擦りつけだ。またとろけるような感覚が全身に行き渡って、凛に気付かれないようにゆっくりと息を吐く。凛はきっとそんなことはしないだろうけど、私にも何かひどいことをしてくれたらいい。私の頭から嫌なものを押し出して、凛のことだけでいっぱいに満たしてくれたらいい。
————————
翌朝は少し気分が良くなっていて、スープくらいなら喉を通りそうだった。でもクロエや他の使用人たちと顔を合わせたくなくて、凛に部屋に食事を持ってきてもらって一緒に食べた。
朝食が終わると、凛が一緒に散歩に行こうと言い出した。私に気分転換をさせたいのかもしれない。あまり気は進まなかったが、ずっと部屋にいるわけにもいかない。それに、自分の部屋よりも庭のどこかにいたほうが、誰にも居場所を知られずにすむので落ち着けるかもしれない。クロエに見つからないように祈りながら、凛と部屋を出た。
外はいい天気だった。風は穏やかで、空はとても明るく、凛の言うとおりに外に出てきてよかったと思った。
「
凛はそう言って私を庭園にずんずん引っ張っていく。
庭園を抜けたところにある、城から少し離れた新しい花壇に、黒っぽい紫色の花弁の花が数本植えられていた。周囲の土の様子を見ると、たしかにまだ植え替えたばかりのようだ。少し下向きに、俯くように咲いている。地味で、どこか物悲しい雰囲気を感じさせる花だという気がした。
「……なんか、くさいです」
花のにおいを嗅いだ凛が顔をしかめて言った。私も凛に並んで花に顔を近づけてみると、何か、生臭い感じの変な匂いがした。
「その花、どうかしら」
背後から声が聞こえて、わたしはぎくっとした。振り返ると、それは
「これ、なんていう花なんですか?」
「クロユリよ。クロエ様に頼まれて植えてみたんだけど、そのうち枯れてしまうかもね。高山植物だから、このあたりの気候にはあまり馴染まないのよ。でも、クロエ様はそれでも構わないからって」
菫さんは花壇の花に順番に水をさしていく。土が濡れて、暗い色の染みが大きくなってゆく。
「あんまり……いい匂いじゃないですね」
「そうね。でも、見た目は素敵じゃない? 決して派手な色じゃないけど、その代わり少し俯き加減なのが控えめで可愛らしいと思うわ。なんだか私達の衣装とも似た色だし。私はそういう静かな子って好きよ。ちなみに花言葉は——『恋と呪い』」
「……なんだか、少し怖いですね」
「いいじゃない。恋って呪いに似てる気もするしね」
凛はなんだか難しい顔をしている。この花に与えられた花言葉の意味を考えているのだろう。恋って呪いと似てるんだろうか。確かに少女漫画で描かれる恋は、ドロドロとしているものが結構あって、決して爽やかな憧れだけじゃない気がする。そういえば、私は誰かに恋をしたことがあっただろうか。
「ねえ、奏。あなたにお願いがあるの。もし私がこの花を育てられなくなったら、代わりに水をあげてほしいの」
「……どういうことですか。花を育てるの、やめちゃうんですか」
「例えば、の話よ。他の人はあんまりガーデニングに興味がなくて、任せられる人がなかなか見つからなくて。ここの花壇は城から少し遠いから、放っておいたらみんな忘れちゃうと思うからね」
そう言って菫さんは肩をすくめた。
その日は、なんとなくクロエや他の使用人たちから逃げまわるようにして、凛とふたりで城の敷地内をうろうろして過ごした。かくれんぼをしているようで、少し楽しかった。
次の日、咲さんが部屋にやってきて、私と凛をクロエが呼んでいると告げた。何か、嫌な予感がした。咲さんや菫さんを通して何か仕事を頼まれたことはあったが、クロエに直接呼ばれたのは初めてだったからだ。
あの日、地下で誰かを殺すのを指示したのは間違いなくクロエだろう。そんな人間に会うことに気が進むはずがない。単なる雑談のために呼ぶとは思えないし、絶対に何か悪いことが起きる。私の直感がそう囁いている。なんとかクロエに会わずに済む理由を探して私が立ち尽くしていると、凛が私の手を握って顔を見上げる。
「クロエ様は怒ってないと思うから、心配しないでください。奏お姉ちゃん、行くよ」
私がクロエに会いたがらないのは、地下の掃除を放り出したことを怒られるのを恐れているからだと、凛は思ったらしい。私は凛に引きずられるようにして部屋を出た。
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