第十話 プリン
次の朝、部屋の鏡台の前で身支度を整えていると、後ろでもぞもぞと動く音が聞こえた。振り返ると、凛が布団から顔を半分だけ覗かせてこっちを見ている。いつの間にか目を覚ましていたらしい。私はあまり笑顔を作るのは得意ではないのだが、なんとかぎこちなく口元を歪ませて、おはようと声を掛けた。それを聞いた途端、また凛はがばっと布団をかぶってしまった。クロエほど上手い笑顔は作れなかったかもしれないが、少しだけ傷つく。
私が着替えを済ませて出ていこうとすると、丸まった布団の中から、おはようございます、という小さな声が漏れてきた。私はちょっとだけ嬉しくなって、朝食の準備を手伝うために部屋を出た。
この日も食事の準備や後片付けを手伝うように言われたくらいで、大した作業はしなかった。私は数日はお休みの扱いであるらしい。他の使用人たちは、忙しそうに作業をしている者もいれば、私のように自由に過ごしているものもいた。当番制にはなっているようだが、全員がいつも忙しく何かをしているわけではない。クロエひとりの世話にこんなに多くのメイドが必要とは思えない。
なんとなく凛の姿も探してみたが、その日はどこにも見つからなかった。凛は咲さんと一緒にどこかに行ってしまうことがよくあった。訊いてみると、練習です、とだけ答えて、逃げるように足早にどこかに行ってしまう。何の練習なのだろうか。
散歩に出た時に、勇気を出して森の中に続く道にも行ってみた。しばらく歩くと、二階建ての建物と同じくらいの高さのある大きな鉄の門につきあたった。門の周囲にはずっとレンガの塀が伸びている。これで、クロエや咲さんたちが私を自由に出歩かせている理由もわかった。どうもこの建物の敷地は全体を高い塀で囲まれているらしい。踏み台や脚立程度で乗り越えられるような高さではない。塀の向こうがどうなっているかも、まったくわからなかった。
門には監視カメラも備え付けられていた。門の周辺をうろうろしていると、どうみても逃げようとしているようにしか見えない。逃げようとしていると思われたら、また地下牢に戻されるかもしれない。それだけはどうしても嫌だった。監視カメラに写りたくなくて、すぐにそこから離れた。
何度も話しかけるうちに、凛は少しづつ私にも笑顔を見せてくれるようになった。凛は夕食の後にプリンを食べるのがお気に入りだった。そういうときはとてもご機嫌で、私が話しかけても元気良く返事が返ってくる。心がプリンに奪われているので、私へのわだかまりのようなものから気が逸れているのかもしれない。
「私、プリンが好きなんです。このあいだプリンをお願いしてきたら、咲さんがたくさん買ってきてくれたんですよ」
そう言って凛はほんの少しづつプリンをスプーンで
この城では、欲しいものの要望は結構簡単に通るようだった。食べるものや着るもの、書籍くらいは、咲さんか、
「給食のプリンが余ったとき、私じゃんけんで絶対負けなかったんです」
凛がそんなふうに漏らすのを聞いて、この子も以前はそういう普通の生活をしていたということがわかり、なんだか少し安心した。どこに住んでいたんだろうか。友達はたくさんいたのだろうか。凛はいつからここにいるのだろうか。私と同じような理由で、ここに来たのだろうか。
「ねえ、
以前に凛のうわごとで耳にした名前を、私が口に出したその瞬間、凛のスプーンを持つ手が止まった。一瞬の間があって、スプーンが手から落ちて、かちゃんと床に跳ねた。それから、凛はぐええと猛烈な勢いで嘔吐し始めた。たった今、口にしたばかりのプリンが、ぐずぐずになった夕食のパンのかけらがが、凛の真っ白なエプロンの上にばちゃばちゃと飛び散っていく。
私は慌てて駆け寄って、凛の背中をさすった。ずっと泣きながら、胃が裏返りそうなほどひたすらに凛は吐きつづけた。嘔吐が収まると、凛ははあはあと荒く息をして、私の腕の中にぱたりと倒れて気を失った。ほんの一瞬での、あまりの凛の凄まじい変化に、私は呆然としていた。
そのうち、菫さんが気づいて手伝いに来てくれた。凛の口元を丁寧に拭い、どろどろになった凛のエプロンを外し、飛び散った汚れを濡れた布巾で拭い取ると、菫さんは凛の小さな体を抱きかかえて寝室に連れて行った。
「ときどきこうなるのよ。明日には元気になるわ。でも、凛に昔のことを訊かないで。この館の他の使用人にもね」
そう言って、菫さんは部屋を出ていった。菫さんは私から見てもすごく大人っぽくて、優しいお姉さんのような雰囲気の人だ。でも、そのときは言葉にほんの少しだけ怒りが滲んでいたような気がする。私は、安易に凛に質問したことを後悔した。
私はずっとベッドの脇の椅子に座って、眠る凛の顔を見つめていた。一時間くらいあとだろうか、凛は目を覚ました。私は何も言わなかったが、凛は私に心配をかけたと思ったのだろう、慈ちゃんは死んじゃったんです、とだけぽつりと言って、また
ある夜、森の奥から黒い大きな自動車が雨の中を走ってくるのが見えた。四角い形をした、バンという形のクルマだ。何か荷物でも届いたのだろうと思ったが、咲さんがやってきて、手伝う必要はないから凛と私は部屋で待機しているようにと命じられた。遠くで雷鳴が轟くのがわかって、私はどこか落ち着かず、凛と肩を寄せあって夜を過ごした。
次の日、私と凛は地下室の清掃を頼まれた。凛はもう手慣れているらしく、物置からゴム手袋やら何か丈夫そうな袋やらホースやらを次々と取り出しては、どんどん私に手渡してくる。高圧洗浄機まで出てきて、地下室に苔ひとつ生えていなかったわけがわかった。地下牢はしばしば徹底的に清掃されているのだ。もしかしたら、建物の地上の部屋以上に。
地下牢にもう一度足を踏み入れるのは、気が進まなかった。だが凛ひとりにやらせるわけにもいかない。地下牢の廊下に繋がる重厚な扉を開けた瞬間、奇妙な匂いが鼻を刺激した。錆びた鉄のような、腐ったぬかるみのような、そんな嫌な匂い。凛がずんずん先に進んでいくので、私もそれが何か考える間もなく、後ろをついていく。
このあいだ私が閉じ込められていたあの独房の鉄格子の向こうは、床一面が赤く染まっていた。壁を這い登るようについた赤い手形。何かがぶつ切りになった赤黒い塊が、数えきれないほど散らばっている。ぬるりと光る赤黒い捻れた紐のようなものが、床に長く伸びている。天井からぶら下がった鎖に引っかかった黄色い手袋のようなものが人間の手首だと気がついた瞬間、足腰から力が抜けて、私は地下室の石の床にへたり込んだ。
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