第九話 朝

 朝。がたん、という物音で、目が覚めた。


 ベッドから起き上がって見ると、扉が開けっ放しになっている。向こうの壁際に置かれたりんのベッドからは、掛け布団が零れ落ちそうになっていた。階段を駆け下りる、ぺたぺたと軽い足音が遠ざかっていく。どうも凛が部屋を飛び出していったらしい。理由はまあ、想像がつく。目が覚めて、それから私がここで寝ているのに驚いたんだろう。


 すでに窓の外は明るくなっており、カーテンの隙間からまばゆい朝日が差し込んでいる。数日ぶりに見た太陽の光だった。すずめだろうか、どこかで鳥が鳴いているのも聞こえる。昨日までのことが、すべて夢か幻のように思えた。でも足首に残る赤黒いあざが、鈍い痛みが、それが夢ではないことをはっきりと物語っていた。


 黒いワンピースに手早く着替えると、凛を探して部屋を出る。顔を合わせて何を話したらいいのかわからなかったが、とにかく逃げ出されたままでは私も落ち着かない。


 階段を降りて行くと、昨日は気づかなかった城の様子が見えてきた。屋根裏部屋は三階に相当するのだろう。窓の外を見ると、眼下に広大な庭園が広がっているのが見える。その奥には背の高い森が鬱蒼と広がっている。本当に、どこもおとぎ話のお城というイメージそのものだ。部屋に電気のランプがなかったら、ヴィクトリア朝にタイムスリップしたと言われても信じてしまったかもしれない。


 一階の廊下は明るく、開け放たれた窓からは緩やかな風が吹き込んで、時折白いレースのカーテンがふわりと膨らんでいた。昨日の夜に見た、雨戸が閉ざされた陰鬱とした雰囲気とはまるで違っている。昨日の晩に食事をとった食堂の、隣の部屋の扉が開け放たれている。覗いてみると、暖炉の前のソファにふたりはいた。


 白いナイトドレスのままの凛が、クロエの膝の上の乗って胸元に顔をうずめている。クロエが私に気づいて、にこっと笑ってみせる。それから、自分にしがみついて震えている凛に優しく話しかける。


かなではあなたのお姉ちゃんよ。大丈夫」


 奏、という名前が自分のことだというのを思い出す。自分に別の名前があるなんて変な感じがする。そういえば、自分はニックネームを与えられたのは初めてかもしれない。まるで女優にでもなったような、くすぐったい気分だ。


「怖い……です」


 わかっていたことだが、凛の言葉に私は自責の念を覚える。いや、元はといえばクロエのせいではないのだろうか。


「そうね、怖いわよね。そうしたらいつでも私のところへ来ていいのよ」


 クロエが凛の背中を撫でる。私よりクロエのほうが安心するのか。なんだかわからないが、ふつふつと怒りがこみ上げる。


「早いのね、奏。もう少しゆっくり眠っていても良かったのよ」


 クロエが私のほうを見て言った。私が、はい、とだけ挨拶を返すと、その声を聞いた凛がびくりと身をすくめて強くクロエにしがみつく。まるで猛獣に怯える小動物のようだ。


「朝食を頂きましょうか。お腹がいっぱいになれば、きっと元気が出るわ」


 眼鏡を掛けたメイドが入ってきて、クロエは二人分の朝食をここへ持ってくるように命じた。昨日、凛を抱き上げて連れて行った人だ。それから、眼鏡のメイドは私のところにも耳打ちする。


「奏。あなたも朝食をとりなさい。一緒に来て」


 眼鏡のメイドはさきと名乗った。私は咲さんのあとについて食堂に行く。食堂には何人かのメイドも席について食事を始めていた。咲さんに促されるまま席につく。他のメイドが口々に私に挨拶をし、私もそれに応じたあと、朝食をとる。想像していたよりもみんな明るく気さくな様子だった。少し不思議なのは、凛に聞いたとおりここにいる使用人はみんな女だということだ。それも、みんなクロエよりは年下だろう。


 朝食を済ませたあとは、咲さんが城の中を案内してくれた。炊事場、洗濯室だけでなく、書斎や図書室まで備え付けられている。二階には空き部屋もいくつかあった。本来なら、城の主人とその家族の部屋なのだろう。しかしこの城の家族といえるのは、クロエしかいないようだった。


 炊事場には真新しい大きな冷蔵庫や電子レンジが並んでいて、それが城の雰囲気から少し浮いていた。こればっかりはレトロなデザインのものが手に入らなかったのだろう。戸棚に入った緑茶の缶が、妙に庶民的な感じがして、どこかおかしい。


 建物の雰囲気とは対照的に、図書室の本も案外新しいものが多かった。数年前に話題になった魔法学校のファンタジー小説や、かるたが題材の少女漫画まで棚に並んでいるのも見つけた。私の趣味なんだけどね、と言って咲さんが本棚を指した。どうも、書籍の品揃えには咲さんの好みが大きく影響しているらしい。


 ひと通り城をめぐると、最後に屋根裏部屋に戻ってきて、着るものを幾つか用意してもらった。数枚の下着と、花柄の薄いワンピース。ブラウスとニット。Tシャツやジーンズ。これで、ひとまずしばらくは、この城で過ごすのに不自由はないことはわかってきた。


「まだ午前中だけど、今日のところはこれで終わり。他に何か欲しいものがあったら私かすみれという子に言って。それから、城の中は自由に歩いていいけど、クロエ様の寝室には勝手に入らないように。それと、城の外を散歩するときは、私に声をかけてから行って。あとは誰かの仕事の邪魔をしなければ、好きに過ごして構わないわ」


 クロエの寝室なんて、呼ばれてたとしても入るのはごめんだ。しかし、城の外に散歩に行っても構わないのか。このまま出て行って、自宅に帰ってしまおうか。お金も何もないけど、警察にでも行けばきっと保護してもらえるだろう。でも帰ろうとしたら、捕まって連れ戻されるのだろうか。足早に部屋を出ていこうとする咲さんに、散歩をしてきたいと告げたら、咲さんは可愛らしい籐のサンダルを私にくれた。




 貰ったサンダル履いて玄関を出ると、城の周囲に鬱蒼とした森が広がっているのが見えた。花壇と芝生に囲まれた玄関からはしばらく石畳の通路が続いていて、その向こうには自動車がじゅうぶん通行できるくらい広い幅の舗装された通路が奥の森まで伸びている。外は上着なしで大丈夫なくらい暖かかった。ふわっと風が吹いて、どこか懐かしい匂いがした。潮の香りだ。


 香りに誘われて建物を回り込むと、通路が建物の隣にある庭へ続いているのがわかった。緑の多い庭を通り抜けて、高い生け垣の隙間を抜けると、一気に視界が広がった。目の前には、果てしない水平線が広がっていた。ひゅうと強い海風が吹き抜けて、私の髪を掻き乱していく。ここは海岸沿い、あるいは島なのだろうか。周囲に人の気配はまったくない。穏やかで気持ちのいい光景に、私はしばしのあいだ見入った。


 森のなかに続いているほうの道も気になったが、森に入っていくのはなんだか怖い気がした。少し歩き回ったら、足の痛みも思い出した。ここから逃げるとしても、明日以降にしよう。食べるものもある。何か嫌なことをするように迫られているわけでもない。焦る必要はない。部屋に戻って、図書室から借りてきた本を読んで今日を過ごすことにした。


 夜になると、凛がどこからか戻ってきた。私と目を合わせようともせず、私に見られたくないのか急いで着替えを済ませると、黙ってベッドに潜り込み、頭から布団をかぶった。拒絶されているのだろう。ときどき布団に丸まった凜を横目で見ながら、私は眠くなるまで読書を続けた。




 深夜、私はうめくような声に驚いて飛び起きた。見ると、凛が起き上がって、両手で顔を覆ってわんわんと泣き喚いている。よく聞き取れないが、ごめんね、と何度もつぶいているように思える。私は慌ててそばに行き、凛の隣に腰掛けて肩を抱いてやる。


「凛、大丈夫よ」


 私がそうささやくと、凛はこくんと頷いて、私の胸にしがみついて嗚咽おえつを漏らす。思わず、大丈夫よ、などと言ってしまったが、よく考えたらこれはクロエの口真似だ。でも、いまは凛が自分の手元にいることがとにかく嬉しかった。凛をクロエから取り返してやったような気がした。胸元がひやりとして、凛の涙で私の寝間着が濡れているのがわかった。


 凛はうわごとで、めぐみちゃん、という子の名前を何度か口にしていた。たぶん、仲の良かった友達を思い出していたんだろう。気が付くと、凛は泣きつかれたのか、私の胸元ですうすうと寝息を立てていた。私は動けなくなってしまい、凛を抱きかかえたまましばらくじっとしていた。体温が伝わってくる。シャンプーの匂いが鼻をくすぐる。


 ここへ凛を置いては行けない。凛の背中を見つめながら、私はそう思った。

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