第八話 姉妹

 そのとき私は目をつむっていたから、私が感じていたのは小さな唇の柔らかさと、強く握りしめたら折れてしまいそうな手首の細さだけだった。


 しばらくしてから唇を離すと、凛は目を見開いて顔をこわばらせていた。これから何をされるのか、想像もついていないのかもしれない。改めて見ると、凛はとても綺麗な子で、だからなのか、これから他人に自分の肌を重ねるということへの抵抗はあまり感じなかった。あるいは、それを自分のほうから行っているからかもしれない。心の準備さえ出来てしまえば、それはきっと怖いことではないのだろう。


 手首を離すと、凛は私の体を押し返そうとしたが、その力はびっくりするほど弱々しかった。これなら別に独房の扉を閉めて閉じ込める必要すらなかったな、などと思いながら、私は凛の全身のかたちを手で確かめてゆく。服の上から感じる凛の体は、歳相応に幼く思えた。


 すべてを露わにするには、この衣装ではあまりにもどかしい。だから、メイド服のスカートの下に強引に手を滑り込ませる。下着に手を掛けると凛が足をばたつかせたが、構わず力任せにそれをずらした。手を這わせ、そしてまだ濡れてもいないところに指を割りこませる。凛は体を仰け反らせ、そこで初めて、痛い、と声を漏らした。きっと、とても痛いんだろう。この小柄な少女が指一本で悲鳴を上げて泣き叫ぶ様子を見ても、なぜか私の心は痛むどころか、ずっと心待ちにしていた夢でも観るように満たされていった。


 私が凛の体から手を引いたとき、凛は体を丸めて両手で顔を隠し、声を押し殺して泣いていた。見ると、私の中指は赤く染まっている。指を口に含むと、錆のような血の匂いが舌と鼻に広がった。私もどうかしてるけど、正気でこんなことはできない。長い間閉じ込められたせいで、私は少し頭がおかしくなってしまったのだ。あのクロエとかいう女のせいだ。だから、仕方ない。


 急に、自分が地下牢の独房にいることを思い出した。頬に当たるひやりとした空気。足首にまとわりつく枷のずしりとした重み。しんと静まり返った地下牢には、凛の嗚咽だけが響いている。自分の中の熱がすっと冷めていき、今の私のすべてだった凛を、死にかけていた私を救ってくれた凛を、とてつもなく残酷な方法で傷つけてしまったことに気づく。


「……凛」


 私がそう呼ぶと、凛はひっと息を呑んだ。それから、指の間から泣きはらした目を覗かせ、私から一番遠い壁際まで這うように後ずさりすると、乱れた衣装もそのままに、また顔を両の手のひらで隠して縮こまった。


 私がこの子にかけてやるような言葉は、もうない。何を言っても恐怖で震えさせるだけだ。私がそうであったように。私と凛のあいだにあったささやかな信頼は、すべて粉々に壊れてしまった。私も凛から遠い床に座り込んで、凛に聞こえてしまわないように、なるべく声を殺して泣いた。




 どのくらい経っただろうか。気がついたら、あの金髪の女が私の肩を抱いて頭を寄せていた。そうだ、この女はクロエという名前だったか。


「あなたはあの子を残酷にけがしたわ。これはとても、とても罪深い行いよ」


 そう、とても罪深い。馬鹿な。あなたのせいだ。でもやったのは私だ。クロエ、あなたのせいだ。私だ。よくわからないが、もうどうだっていい。


「でも大丈夫、あなたのしたことはすべてゆるされるわ。だから何も心配要らない」


 そういって、クロエは私を抱きしめて髪を撫でた。とんでもない女だ。自分でやらせておきながら、自分で私を慰めるつもりか。わけがわからない。でも私はクロエにされるがままだった。私には、私が泣くために胸を貸してくれる人が必要だった。今ひとりきりにされたら、本当におかしくなってしまいそうな気がしたから。この女クロエは悪魔のようにも、天使のようにも思えた。


 独房にはもうひとり、眼鏡をかけたメイドがやってきていた。メイドが凛の肩に触れると、凛はその手も振り払おうとした。しかし、そのメイドはさっと凛を抱き上げると、すぐに独房から出て行った。


「あなたの名前は『かなで』よ。今からは奏と名乗りなさい。それから、それ以外の名前で呼ばれても、返事をしては駄目よ」


 クロエが耳元で囁く。名前、だって。何を言っているんだろう。このひとは。


「わかったかしら、かなで


 クロエは有無をいわさぬ調子でそう言った。私は頷いたが、クロエはまだ私をじっと見ている。私が、わかりました、とかすれた声で言うと、クロエはもう一度私を抱きしめて頭を撫でた。




 それからのことは、あまりよく覚えていない。いつの間にか足枷が外され、独房から出た。制服を脱がされて、シャワールームに連れて行かれた。私はずっとぼんやりしていたが、クロエは一緒にシャワールームへ入ってきて、私のべとべとになった髪を洗い流してくれた。促されるままに下着と厚い生地の黒いワンピースを身につけ、支度が整うと、手を引かれて地下室からの階段を登った。


 階段の突き当たりにはやはり重々しい扉があって、それを抜けると別の廊下に出た。そこも同じように壁や天井が石で作られていて、床には赤い絨毯が伸びている。ひとつ違うところは、窓があったことだ。窓の向こうは雨戸で閉ざされて何も見えなかったが、ここは確かに地上だと思われた。


 黄色い明かりが揺れる廊下を、クロエについて歩いていく。やがて辿り着いた扉に入ると、そこには燭台の並んだ大きなテーブルがあった。クロエに促されるまま、椅子に座る。クロエもすぐそばの席に座った。


 ショートカットのメイドがやってきて、目の前にあっというまに料理が並べられていく。パン。スープ。サラダ。そして、コップに注がれたジュース。さっきまで苔も生えない地下牢にいたのに。目の前のご馳走ちそうをぼうっと眺めている私を、クロエが頬杖をついて見ている。


「食べて……いいんですか」


 クロエは私の質問を聞いて、にこりと笑う。ずっと前から用意していたというような、あまりに完璧な笑顔だった。


「ええ、もちろん。好きなだけ」


 たぶん一週間、いやもっとかも知れない。久しぶりの食事は、今まで食べたどれよりも美味しく感じた。空腹が満たされていく感触と、どこか胸に穴が開いたような空虚さが奇妙に身体に同居していた。その間、クロエはときどき何か淡い赤色の飲み物が入ったグラスを傾けながら、食事をむさぼる私を満足そうに眺めていた。


 食事が終わると、クロエは私を暖炉の前の大きなソファに座らせた。クロエもすぐ隣に腰を下ろす。クロエの手が私の腰に伸びてきて、するりと体を抱き寄せる。クロエの体温が伝わってくる。暖炉をぼんやりと見つめていたら、急にどっと疲れが襲ってきて、私はクロエの肩に自分の体重を預けながらうとうとする。

 

「私の名前は聞いたかしら」


 クロエが私の耳元で静かに言う。耳がすこしくすぐったい。


「……クロエ……様」


 私がそういうと、クロエはまた私の髪をふわりと撫でた。


「疲れたでしょう。何も考えずに、ゆっくり休みなさい。りんのことも心配要らないわ」


 クロエは相変わらずの口調できっぱりと言った。なぜそれをクロエが決めるのだろう。でも、クロエはいつだって世界のすべてを見透かしているように言葉を紡いでゆく。


「それとね、あなたと凛は姉妹よ。そう決めたの」


「……姉妹、ですか」


「そう。あなたと凛は同じ部屋。きっととても仲良くできるわ。ここでの生活は、あの子に教えてもらいなさい」


 ここでの……生活。私はいつまでここで過ごすのだろうか。


「凛はとても傷ついているわ。あの子を置いてどこかに行ってはいけない。あの子はあなたが支えてあげないと駄目。あなたがあの子の姉になって、しっかり守ってあげなさい」


 クロエはそうゆっくりとした口調で私に告げた。これから自分がどうなるのか、訳がわからなくなってきた。今は頭がまわらない。とりあえずぐっすりと眠りたい。


「私が同室では……凛が怖がりませんか」


「じゃあ、私の寝室に来るかしら」


 それは、冗談ではない。ぎくっとしてちょっと目が冴えてしまう。私の様子を見て、クロエはくすくすと少し笑ってから立ち上がり、私の手を引いた。


 食堂を出て、階段を登ってゆく。この建物は本当にどこも石で出来ている。なんだか中世にタイムスリップしてきたような感覚を覚える。階段を一番上まで登ると、そこには屋根裏部屋らしき地味な装飾の扉が並んでいた。


「凛は先に眠っているわ」


 クロエは口元に人差し指をあてて、静かに、という仕草をすると、一番手前の部屋の扉をゆっくりと開ける。暗い部屋に入って行くと、凛がベッドの中で眠っているのが見えた。衣装はふわっとした白いナイトドレスに変わっていて、すーすーと落ち着いた寝息を立てている。部屋の反対側の壁際にはもうひとつベッドが置かれていて、クロエはそこに畳んで置かれたドレスを無言で指さしてから、私の頬に軽くキスをして、それからまた静かに部屋を出て行った。


 私は眠る凛の顔を見つめながら立ち尽くす。何なのだろう、あのクロエという女は。私に罪をかぶせては、それをクロエが赦していく。悪びれる様子もなく、平気で私のことも凛のこともどんどん決めていく。しかし、これからのことはすべてクロエが教えてくれる、そんな不思議な安心感も心のなかに生まれてきていた。あれだけ私の中に刻まれていた、怒りや恐怖心というようなものは、いろいろな感情と混ざって、なんだかわからないものになってしまっていた。

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