第七話 解放

 あれから、りんは毎日のように私の独房に来た。陽が差さない独房では日付も時間も何もわからないのだが、私が起きているときには一度は凛は顔を見せた。特に来る時間も決められていないようで、いつも好きなだけ私の独房にいた。


 脱出が絶望的だということがわかってからは、独りでいると気がおかしくなってしまいそうだったので、凛がいるときにはできるだけいろいろな話をした。凛は口数の多い方ではなかったし、あまり自分自身のことは話そうとはしなかったが、いつもにこにこして私の話を聞いてくれた。でも、どこか陰のある笑顔だったし、笑う時もどこかためらいがちで、以前に何かあったのだろうということだけは想像がついた。理由は聞き出せなかった。もし凛の機嫌を損ねてしまったら、ここへ来なくなってしまうかもしれない。そうしたら今度こそ手詰まりだ。凛が今の私の唯一の希望だった。


 この建物のことも凛に聞いてみたのだが、詳しい場所も何も知らないという。それにどうやら、ここのことを話すなとあの金髪の女に釘を刺されているらしい。わかったのは、あの金髪の女はクロエという名前で、この石造りの建物——『城』のあるじだということ。ここには凛と同じような使用人があと五、六人ほどいること。それと凛が知る限り、どの使用人も若い女だということ。なにか不気味な城であることは、間違いがなかった。


 水だけは凛にコップで汲んでもらってどうにか飲ませてもらっていたのだが、七日もするとさすがに力が入らなくなってきた。このままでは、もし鎖を外せたとしても、走って逃げるだけの体力がなくなってしまう。


「……ねえ、凛。何か食べるものはないかな」


 私がそうささやくと、凛ははっという顔をした。


「……私のぶんのパンを持ってきます。待っていてください」


 凛はとても真剣な顔をしてそう囁いた。凛が出て行くと、私の頭の中は、そのうち届くであろうパンのことでいっぱいになってしまった。金髪の女め、兵糧攻めでどうにかなると思ったか。私の『世話係』が凛で本当によかった。これがもし融通の効かない人間だったりしたら、私はそのうち餓死するだろう。私はパンの到着をずっと待っていたが——その日、もう一度凛が姿を見せることはなかった。



 次の日、凛がぼろぼろと泣きながら地下牢に入ってきた。訊くと、こっそり隠し持っていた残り物のパンを、見つかって取り上げられてしまったという。それから、食事を持って行かせてもらえるように何度も頼んだが、聞き入れてもらえなかったらしい。ごめんなさい、と凛は私に謝った。私には凛を赦すというような権利などない。なんと言ったらいいのかわからなかったが、食事は要らない、などという慰めというか強がりもできなかった。そのくらい本当にパンを待ち望んでいたし、お腹が空いていたのだ。


 たぶん、あの女はそのあたりもすべて見越して、凛の行動を監視していたのだろう。ずっと見られていれば、パンの残りを隠し持とうとしてもあっさりバレてしまう。こちらの見通しが甘かった。それから凛は、お尻を叩かれちゃいました、と泣きながら笑って、自分の腰をさすっていた。しつけで尻叩きなんて日本じゃあまり聞かないが、そういえばあの金髪の女は外国人風だった。


「ひどい女だよね」


 私がそういうと、意外にも凛は両手をぱたぱたと振って否定してみせた。


「クロエ様は厳しいですが、悪い人じゃないんです。お尻を叩いたあとも、私のことをぎゅっと抱きしめてくれて、叱るときも優しくて。私が言いつけを破ったからいけないんです」


 洗脳とでも言うんだろうか。あの頭のおかしい女にさえ敵意を抱いていないようだった。凛はあの女のことになると少し饒舌じょうぜつになっている気さえする。まさかとは思うが、クロエは凛にまで手を出してはいないだろうか。


「クロエ……『様』?」


「ええ。他のメイドの人たちにも、『様』をつけて呼ぶようにと」


 女主人を気取っているのだろうか。まるでヴィクトリア朝の貴族のようだ。まあ、あの見てくれだ。まっすぐの豊かな金髪。すらりとした高身長に彫りの深い顔つき。そう呼ばせるだけの風格はあったように思える。


「それに、クロエ様は約束はちゃんと守る人です。私にプリン買ってくれましたし」


 凛はきゅっと両のこぶしを握りしめて、少し前かがみでそう訴えた。なんだか、急に幼くなったように見えた。


「プリンかあ……」


 私がそうつぶやくと、凛は、しまった、という顔をした。もう何日も何も食べていない空腹の人間の前でプリンを食べた話をするなど、嫌がらせにも等しい。でも、この年齢にもかかわらずそういうことに気付けるだけ、この子は本当に賢いと思った。


「……あの、必ず何とかして食事を持ってきますから」


 凛はそう私にささやいてから、独房をあとにした。もし失敗したら、また凛は叱られてお仕置きを受けるだろう。でも、食事はいらないとは言えなかった。そうしなければ、私は死んでしまう。それは間違いなかった。



 次の日、初めて凛は姿を見せなかった。水は欲しかったが、ここは湿気が多くてとても喉が乾くというほどではないし、どうしてものどが渇いたら、床のくぼみに溜まった苔で緑色に染まった水をすすった。


 凛がいない時は、どうにか足枷あしかせを壊せないかと考えていた。場所が足首だけに、どこかに打ち付けて壊すというのもうまくいかない。壁の少し石の出っ張ったところに足枷を打ちつけようとしたら、くるぶしをぶつけてしまい、しばらく床に転がって悶絶するはめになった。もっとも、ちょっと叩いて壊れるような、ちゃちな足枷には見えなかった。古臭くびた足枷に付けられた小さな金色の真鍮の錠前は、思ったより新しくてきっとホームセンターで売っているような安物なのに、私は傷ひとつ付けることが出来なかったのだ。


 死んだふりをして独房の鉄格子が開くのを待ち、隙を見て逃げ出す、なんてのはフィクションでよくある展開だ。でもこの足枷が外れない限りはどうにもならない。普通は独房の中で足枷なんて付けないだろう。独房の中に何も知らない少女を招き入れられるように、しかし逃げ出すことはできないように。すべてはあの女の策略に違いなかった。


 凛を人質に取るというのはどうだろうか。刃物か何かあれば、凛を組み伏せてクロエを脅迫するということもできたかもしれない。でもあの女は凛を傷つけることを平気で命令してきたわけだし、人質として役に立たない可能性のほうが高いだろう。だいたい、私に凛のような子を殺せるわけがない。とても脅しになんてならない。


 時間だけはたっぷりある。あらゆる可能性を考えてみたが、脱出が成功しそうな方法は何一つ見つからない。明日は凛が水を持ってきてくれるだろう。それを飲んでから考えよう。そう思いながら、硬い石畳の上で丸まって眠った。


 次の日も、凛は姿を見せなかった。凛だけではない。一度だって、廊下の奥の扉が開く音がしなかったのだ。眠っている間に様子を見に来ているのかもしれないと思って、眠っているふりをして待ってみたが、やはり誰も現れなかった。


 まさかあの女はこのまま私を餓死させる気なのか。


 いつまで待てばいいんだろう。凛を味方につけて逃げ出す、という筋書きが、すっと現実味を失っていく。凛がいなければ、私は何もできないのだ。不意に恐怖が、腹の底に滲み出してきた。


「——凛! 助けて! 凛!」


 私は鉄格子を掴んでその向こうに叫んだ。叫び続けた。もう大して力は入らなかったし、大きな声も出なかったが、私が頼れるのはあの子しかいない。鉄格子を叩き、叫び続けたが、私の立てる音以外には、何一つ物音は聞こえなかった。


 やがて、鉄格子を叩き続けた手のひらはひりひりと赤く腫れて、私はそこにぺたりと座り込んだ。もう立ち上がる気力もなくなっていた。


 この暗い独房で、私は突然ひとりぼっちになってしまった。誰か。凛。誰でもいいから。凛。ひとりでいたら、どうにかなってしまいそうだ。このまま誰にも知られずに、この暗い独房で死んでいくのか。助けて。助けて。凛。助けて——。








 ——しっかりしてください。


 混濁した意識の中、遠く、私を呼ぶ声がする。


「あの、大丈夫ですか!」


 目を開けると、そこにはもう見慣れた凛の顔があった。頭の下は柔らかい。どうやら凛に膝枕をされているようだった。


「これ、飲んでください」


 視界の端に、凛がストローを挿したコップを差し出すのが見えた。


「水に、お砂糖を混ぜて持ってきたんです。これならただの水と見分けがつきませんから。ただのお水よりはお腹の足しになります」


 砂糖水は、本当に甘かった。世の中にこれほど甘いものが存在するのか、というくらいに。砂糖を入れすぎたのかもしれないが。水を飲み終えてからは凛に膝枕をされたまましばらくぐったりと横になっていたが、じきに頭も回るようになってきた。手を握ったり開いたりしたら、さっきよりずっと力が入るようになっていた。


 凛は賢い子だ。私が思っていたより、ずっと賢い。それにとても誠実だ。私のことを見捨てていなかった。あの頭のおかしい女の言いなりにもならない勇気もある。


 別に殺すわけじゃない。あとで体を拭いてあげよう。そうすればきっと大丈夫。私もそうだったし。なんだ、最初からこうすればよかったんだ。独房でひとりなのは、もう耐えられないから。本当に悪いと思うけど、あとでちゃんと謝ろう。こんなに可愛い子を傷つけてしまうのは忍びないけれど、きっとこれが私が生き残る最後のチャンスだ。きっと許してくれるだろう。凛はこんなにいい子なんだから。


 私はさっきよりも力の巡った体を起こし、足の裏を引き摺って独房の扉の前まで行くと、扉を閉め、鉄格子の隙間から手を伸ばしてかんぬきを掛けた。そして南京錠の掛け金を閉じると、鍵を抜いてポケットに仕舞った。これで、凛はもうここから逃げられない。


 私の行動を見て、凛はきょとんとしている。私は凛のそばにひざまずくと、凛の手首を掴んで床に押し倒した。それから、呆然としたまま私の顔を見つめて横たわる凛の唇に、私自身の唇を押し付けた。

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