第二十一話 挑発
私がクロエの部屋に入って行くと、紅茶の香りが鼻をくすぐった。クロエはどうやら壁際のカウンターで自分でお茶を淹れていたようだ。お茶の用意を代わろうと申し出たが、クロエは自分でやるからといって、私をソファに座らせた。
「
私が首を傾げると、クロエが簡単に説明してくれた。どうも、着替えやクロエの寝室の整頓など、クロエの身の回りを直接世話をする役割らしい。主人に一番近い役割だそうだ。
「それを言ったら、咲が不機嫌になっちゃって。まあ後でたっぷり可愛がってご機嫌とるから大丈夫よ」
「以前のレディースメイドの人は誰だったんですか」
「もうここにはいないわ。要らないから殺したの」
ぎくりとする。私も要らないと判断されたら始末されるのだろうか。
「冗談よ。私がそんなことすると思う?」
「……思います」
「奏は本当にずけずけとものを言うわね。人を殺すのは怖がるくせに、私のことは怖くないのかしら。変な子」
以前は
「中世の貴族じゃあるまいし、気替えくらいは私が自分でするから仕事は多くないわ。朝七時に紅茶を淹れて私を起こしに来るのが、その日の最初の仕事かしら。あとは今までの生活とあまり変わりないし、呼ばれたら来てくれればいいわ。詳しくは菫にも聞いてみなさい」
「簡単そうな仕事で良かったです」
「簡単すぎたかしら。毎晩、私の抱き枕になる仕事を加えてもいいのだけれど」
「それは嫌です」
私はクロエの抱き枕ではなくて、凛の抱き枕なのだから、とまでは言わなかった。言ったら、またからかわれるに違いない。
「じゃあ寂しい夜だけ呼ぶわね」
「……呼ぶのは控えめにしてください」
クロエの相手をしてまた凛が機嫌を損ねたら困る。まさかこんなふうに自分がクロエと凛の板挟みになるとは思ってもみなかった。クロエは妬ましいほどの美人だし、凛は本当に愛嬌のある可愛い子だ。両手に花と言いたいところだが、これでは両手に爆弾を抱えているようなものだ。どちらかだけでも下手に取り落としたら、それはもう大変なことになる。
————————
夕方は食事の支度を手伝いで米を研いでいた。凛と一緒に作業をするのは珍しい。今日はたまたま咲さんが夕食の当番で、凛と私、それから桜さんがそれを手伝っているのだ。昼間は別々に過ごすことが多いから、私としても凛と一緒に過ごせるのは嬉しい。凛はじゃがいもの皮を剥いているのだが、その早さは驚くほどだ。
「焼き魚とかはいつも焦がしちゃってうまくいかないんですけど、これだけは得意なんです」
そう言って、じゃがいものあのでこぼこした表面をぴたりと包丁の刃に合わせて、じゃがいもをくるくると回す。不思議なくらい薄い皮が剥けて、するすると包丁の下に伸びていくのだ。どうも『訓練』で刃物の扱いに熟練しているからということらしいが、それでもじゃがいもの皮むきまで上手くなるものとも思えない。天性の素質、というものだろうか。
「いい匂いがするわね」
声の聞こえたほうを見ると、クロエが戸口から顔をのぞかせていた。クロエがキッチンを覗きこむのも珍しいことだ。
「すみません、クロエ様。夕食ができるまでにはもう少しかかります」
凛が申し訳無さそうにそう言うと、クロエがかぶりを振る。
「そうじゃないのよ。新しい衣装が届いたから、
凛はあからさまに不機嫌そうな顔をしてクロエを睨みつけた。咲さんも無関心を装って鍋の中をかき回しているが、まったく会話を聞いていないふりをしているのが逆に不自然だ。クロエは凛に睨まれて、にやと笑う。
「奏は私のお付きのメイドだからね。今後は衣装の準備もお願いするから、こういうのは奏にやってもらわないと。」
私が手を拭いていると、クロエが私に後ろから抱きつく。私は呆れてふうとため息をついた。わざわざ凛をからかうようなことをして。またややこしいことになる。
「……。クロエ様、お姉ちゃんが困っていますので」
凛は明らかに怒気を含ませて言った。凛が珍しく怒っているので、むしろクロエはそれが楽しくて仕方ないらしい。
「これからは着替えもお風呂も奏に手伝ってもらおうかしら。ねえ、夕食のあとは一緒にお風呂にしようか、奏。裸のお付き合いよ。仲良くしましょう」
その瞬間、凛は包丁を放り出してクロエに走って近づくと、平手で思い切りクロエを突き飛ばした。クロエはとっさに凛の腕を払ってそれをいなしたが、あまりの勢いによろめく。凛はクロエの襟を掴むと、膝の裏に蹴りを入れてクロエを引きずり倒した。クロエが腰を床に打ち付けたところで、凛の腕がぶんと風を切って鳴った。凛の掌底が、クロエの頬に叩きつけられる。パン、と驚くほど大きな音が鳴って、クロエの身体が地面に転がった。誰よりも小柄な身体の凛に、この城で一番体格のいいクロエが圧倒されている。
凛が再び腕を振り上げたとき、桜さんが凛の腕を後ろから掴んだ。凛は素早く桜さんの懐に潜り込むと、足を掛けて投げ飛ばす。桜さんの体が驚くほど軽々と飛んで、背中から床に落下した。
視界の隅で、咲さんのスカートがふわりと翻った。いつのまにか鍋のところから凛に届く間合いまで移動したらしい。咲さんの回し蹴りは凛の脇腹にまっすぐ入っていて、それをもろに受けて吹き飛んだ凛の体は為すすべなく壁に叩きつけられた。それでも、壁にもたれながら凛は素早く立ち上がる。
凛がテーブルの上の包丁に手を伸ばすと、咲さんが反応して一歩踏み込む。凛の左手が包丁を掴むと同時に、咲さんが振り下ろした拳が凛の手から包丁を叩き落とした。凛はすかさず右の拳も振るが、咲さんはそれよりも更に素早く凛の襟首を掴み、凛の鳩尾に膝をめり込ませる。凛がぐえっと呻いて、腹を抱えて膝から崩れ落ちた。
咲さんは凛の腕を捻り上げると、足で背中を踏みつけて床にねじ伏せる。咲さんのブーツの踵が凛の背中に食い込み、凛が痛みで獣のように悲鳴をあげた。
「やめてください!」
私は思わず叫んだが、咲さんは私を横目で一瞥しただけだった。私が凛のところへ駆け寄ろうとすると、桜さんが私を抱きとめた。抜けだそうともがいたが、縄で縛られているかのようにびくともしない。
あっという間の出来事だった。私には凛を止める余裕はなかった。振り向くと、クロエは起き上がってひざまずき、頬を抑えている。唇の端からは血が一筋流れていて、口の中を切ったようだった。クロエ様の怪我を診ないと、と桜さんに言うと、桜さんが私から手を離した。クロエに駆け寄って、スカートのポケットから取り出したハンカチで口元を拭う。思ったよりべっとりと血がついた。
「口の中、見せてください」
私は指を掛けてクロエの口の中をのぞき込む。歯が折れたりしていたら一大事だが、幸いその様子はないようだ。しかし、左の頬の内側が裂けて、流れ出した血で口の中が真っ赤に染まっているのが見えた。クロエは力が抜けたようにぺたんと床にすわりこんだ。
「もう凛にはかなわないわね。殺されちゃうところだったかも。やれやれ、凛には立場というものをもう一度思い出してもらわないといけないわ。咲、凛を地下牢に入れておきなさい」
地下牢、という言葉を聞いた途端、凛がひっと息を呑んだのがわかった。クロエの命令に咲さんは黙って頷くと、凛の腕を背中に回して捻り上げたまま、襟首を掴んで乱暴に引き摺っていく。
「いや! 地下牢はいやです! ごめんなさい! ごめんなさい! お姉ちゃん!——」
凛が叫んで足をばたつかせるが、咲さんは砂袋でも掴んでいるかのように容赦ない。私は咲さんを黙って見送るしかなかった。それより、凛のためにも、今はクロエの手当てをしなければならない。さっきのクロエの言い方だと、即座に凛を痛めつけたり殺すようなことはないはずだ。
「……クロエ様、口の中を止血しましょう。お部屋へ」
私はクロエの手を引いて立ち上がらせる。クロエはよろよろと立ち上がって、あちこち痛そうに顔をしかめたが、口元の歪みはどうみても笑みだった。
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