第二十七話 制裁

 書斎の扉を静かに開けると、天井まで届くような高い本棚がいくつも並ぶ前に、咲さんの後ろ姿があった。本の整理をしている途中のようで、足元には漫画本が入った段ボール箱がふたつ置かれている。しかし咲さんははたきを握ったまま、本を読みふけっているようだった。咲さんはこの城をほぼ取り仕切っている立場だから、何か知っているはずだ。それに、訊く相手に咲さんを選ぶのには、もうひとつ理由があった。


 私が扉を開けた時には何の反応もなかったので、本を読むのに夢中で私に気づいていないのかと思った。でも、私がそばに寄ると読みかけのページに指を挟んだまま本を静かに閉じ、私のほうへ振り返った。私は何気ないふうを装って話しかける。


「あの、すみれさんを知りませんか。庭の手入れで聞きたいことがあって」


「……庭のことならゆかりに聞いてみなさい。あの子でも多少は知っているはずだわ」


「菫さんは……」


 食い下がろうとした私を、咲さんは冷ややかに睨む。これ以上は質問を許さないということのようだ。だが、菫さんの名前を出した時の咲さんの様子を見る限り、菫さんのことを答えにくいのは明らかだった。咲さんは決して口は軽くないが、隠し事はあまりうまくはない。何が起きているのかは教えてくれなくても、何かが起きているのを隠していることはわかる。


 何も教えてくれないのなら、押し倒して唇を奪えば……など思ったが、思考がだいぶクロエに毒されていることに気付いて、私は頭を振った。そんな方法が通じるのはクロエが相手のときだけだ。


「……わかりました、紫さんに訊いてみます」


 そう言って私は踵を返し、書斎をあとにした。背中に咲さんの胡乱うろんげな視線が刺さるのを感じた。




 私は部屋に戻ると、念のため扉に鍵をかける。自分のベッドのマットレスの下に腕を突っ込んで中を探ると、すぐに手にスカーフの包みが当たった。引っ張り出してベッドの上に置く。今日は雨が降っているので、先に花壇の土の中から回収しておいて良かった。


 包みを解くと、銀白色に鈍く光る小さな拳銃と、弾丸が五発、それと黒い革のホルスターが出てくる。このあいだ練習したようにシリンダー近くのつまみをずらすと、シリンダーが横にせり出した。シリンダーに空いた五つの薬室に、銃弾をひとつづつ詰めてゆく。菫さんに何が起こっているのかはわからない。使うかどうかは別として、準備だけはしておかなくてはならない。またあの時みたいに、怯えて凛の力に頼るようなことはしたくない。


 菫さんが私をめようとしているという可能性も無いわけではない。拳銃を持っているのを見られたら、叛意はんいありと見做みなされて罰を受けるかもしれない。しかしここで拳銃を用意できる人間は限られている。だからこそ、菫さんは『私がいなくなったら』と指示したんだろう。もし私にこれを手渡したことがバレて立場が悪化しても、大丈夫なように。弾丸で満たされたシリンダーを、元のようにフレームに収めた。


 ホルスターを太腿に巻きつけて止め、拳銃を差し込む。少し右足が重たいが、別に歩きにくいというほどでもない。姿見を覗いたが、ワンピースのシルエットはほとんど崩れておらず、見た目では銃を隠し持っていることはわからないだろう。取り出すときはスカートの下に手を突っ込んでまくり上げるようにしなくてはならないので、とっさに素早く取り出すというのは難しいが、これを持っているだけでも安心感はある。これで、私も戦える。スカートの上から右手で触れて、拳銃がそこにあることをもう一度確かめた。



————————



 菫さんの行方がわかったのは、ちょうどその日の夜だった。午前中に慌ただしく出ていった使用人の何人かが、夕方になって一斉に戻ってきた。夕食を終えて窓の外を眺めていたら、二台の自動車が森の奥から出てきたのが見えた。私と凛はまた自室での待機を命じられた。朝から降り続けた小雨は夜になって強まり、風で雨粒が音を立てて窓ガラスを叩いていた。いつか地下が血まみれになっていた時と雰囲気が似ていて、良くないことが起こりつつあるのをはっきりと感じていた。


 完全に日が落ちたころ、咲さんが部屋にやってきて、私たちを呼んだ。


「地下に」


 咲さんはそれだけ告げて、足早に階下に降りていった。ベッドの上で隣に座った凛が、私の顔を心配そうに見上げる。


「お姉ちゃん、たぶん………」


「わかってるよ。凛は、自分が思ったとおりにして」


「私は何があっても、お姉ちゃんについていきます。お姉ちゃんを助けるし、守ります。だから、お姉ちゃんに任せます」


 私は凛の頭を抱き寄せて、唇を重ねる。もう何度となく繰り返した行為だ。次にこの部屋へ戻ってきた時には、私はこれまで拒んできた一線を超えて、もう凛が慕うような姉ではなくなっているかもしれない。あるいは最悪の場合、これが最後のキスになるかもしれない。だが、もう凛に格好の悪いところは見せられない。


 永遠とも思えるような時間のあと、私はおもむろに唇を離した。覚悟を決めて、凛の手を引いてベッドから立ち上がる。以前は私が凛に引きられるようにして地下に行ったが、今度は違う。姉である私が、妹の凛を導いてゆく。



 地下に入る階段の前では桜さんが待っていた。私たちを階段に招き入れると、私たちに続いて桜さんも後から階段を降りてくる。血の匂いはしないが、城全体が不気味なほど静かだった。


 地下の重い扉をゆっくりと押し開けると、そこには城の使用人の大半が集まっているのが見えた。使用人たちは入ってきた私達を一瞥すると、独房の奥に目をやる。誰かが鎖で両腕を拘束されて床に座っていた。かなり殴られたようで、顔は少し腫れてあちこちに血がにじんでいたけど、誰なのかはすぐにわかった。菫さんだった。


 覚悟を決めたはずだったが、いざこの光景を目にするとさすがに背中に冷や汗が流れるのを感じた。私の緊張を察したのか、凛の手が私の手を強く握る。


「奏と凛にはまだ言っていなかったわね。菫はここから逃げ出そうとしたのよ。馬鹿な子」


 手を腰に当てたままクロエは足を振り上げると、ハイヒールのつま先で菫さんの頬を蹴り飛ばした。鈍い音がして、血が床に飛び散る。菫さんの姿をしばらく見なかった理由は、この城から脱走していたからだった。菫さんは買い出しで度々外出していた。それなら逃げようと思えばいつでも逃げられるだろうが、もしそれで逃げきれずに捕まったら……クロエは絶対にそれを許さないだろう。


「ねえ菫。あなたの大事なお連れさんは、もうバラバラにして海に捨てちゃったわ。私の可愛い菫をそそのかしたクズを、一瞬たりとも長生きさせたくなくてね」


 クロエの言葉を聞いて菫さんはわずかに肩を震わせたが、何も言わずに俯いたままだった。どうやら城の外の誰かと一緒に逃げるつもりだったらしい。それが、脱走を決意した動機だったのかもしれない。クロエは菫さんの太腿をハイヒールのかかとで踏みつけると、私の方を見た。


「奏。私言ったわよね。逃げようとしたら殺すって。私も本当は菫を殺したくなんてないんだけど、私にもこの城の主人としての立場ってものがあってね、始末は必要だわ。それでね、菫を殺す役目はあなたにお願いするわ」


 クロエはずっと前から決めていたことのように淡々と言った。菫さんはかなり前から計画はしていたのだろう。そして、もし自分がクロエに捕まったら、菫さんを始末する役目が私にまわってくることもわかっていた。まだ私だけがこの城で殺人に手を染めていないからだ。下手くそな私がナイフを振るっても、菫さんは簡単には死ねずにすごく苦しい思いをするだろう。それに、私だって菫さんが死ぬまでめった刺しにするようなことは恐ろしくてできない。でも拳銃なら、私の腕でも一瞬だ。だから、私に拳銃を。


 意識はあるのだろうが、菫さんはぼんやりと頭を垂れたままだった。菫さんは私に一番優しくしてくれた人のひとりだった。私と凛が地下でしばらく過ごした時も、真っ先に私たちを介抱してくれたのは菫さんだった。


 クロエは私の方へ歩み寄ると、いつものようにあの黒い持ち手のナイフを差し出した。しかし、私はそれを受け取らずに。菫さんのほうに向き直り、右手をスカートの下に潜り込ませる。クロエは一度少し不思議そうな表情を浮かべたが、私が太腿のホルスターから引き抜いた拳銃を見て満足そうににたりと笑う。


「桜、いいわ」


 クロエが手を上げて桜さんを制止した。振り返ってちらりと見ると、いつのまにか桜さんが私の背後に音もなく近づいていた。私は拳銃をゆっくりと菫さんのほうに向けると、親指を撃鉄に乗せて力を込める。シリンダーが回って、起こされた撃鉄が固定される、がちゃりという金属音が、やけに大きく地下に響いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る